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1)人権理事会
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人種差別撤廃委員会の勧告が遅れてやきもきしたのと、いくつか原稿を書いていたため、人権理事会の進行を追いかけることができませんでした。議題3の幅広い人権項目では少数者、食糧の権利、人権擁護者などの議論がありました。議題4では特定国の状況が議論され、欧米諸国と第三世界の対立が続いています。議題5では、社会フォーラム、少数者フォーラムなどの報告がなされていました。
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3月15日、議題3の一般討論で、オランダの被害者NGOである「対日道義請求財団」が発言しました。会場にいなかったので聞けなかったのですが、アドリアンセン・シュミットさんと会えたので発言文をもらいました。要旨は次のようなものです。
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<日本は第二次大戦時の人権侵害、特に日本軍性奴隷制について公式に反省するよう求める。1996年、人権委員会のクマラスワミ女性に対する暴力特別報告者がこの問題の報告書を出した。2008年、人権理事会の普遍的定期審査UPRが日本に補償を求めた。2年たったが日本は無視している。2007年、アメリカ、オランダ、カナダ、EU、2008年に台湾が、日本に人権侵害を認めるよう要請した。法務省が戦争捕虜に関するファイルを公表したが、「慰安婦」その他の被害者に関するファイルも公表するべきだ。65年たっても正義が実現されなければならない。ドイツを見習って謝罪、補償するべきである。>
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15日、NGOの反差別国際運動IMADRが、「職業と世系に基づく差別」に関するサイド・イベントを開きました。人権委員会時代の人権小委員会で、鄭鎮星委員と横田洋三委員が作成した「職業と世系に基づく差別に関する国連ガイドライン」をめぐっての議論です。武者小路公秀さん(IMADR)、組坂繁之さん、和田献一さん(部落解放同盟)、テオ・ファン・ボーベンさん(元国連人権センター所長、元人権小委員会委員)などが発言。人種差別撤廃委員会CERDのウェブサイトを見れば、IMADRのウェブサイトにリンクしています。国際機関がNGOのサイトにリンクしているのです。それだけIMADRがこの分野で実績を積み重ねてきたということです。ファン・ボーベンさんはいくつになられたのか、さすがにお年を召されたなという印象です。発言では、職業・世系ガイドラインができるまでの年月が比較的短かったことをあげて、ご自分が作成された被害者補償ガイドラインは10年以上かかったと回顧されていました。国連人権小委員会の「重大人権侵害被害者のリハビリ・補償を受ける権利」の研究が、日本で脚光を浴びたのは1993年でした。「慰安婦」問題との関係です。人権小委員会でファン・ボーベンさんが努力されてまとめあげた原案が、人権委員会で一応の成果となったのが2003年です。ウエブサイトで確認してみました。報告書(E/CN.4/2003/68)です。10年以上の努力の成果です。新しい国際人権基準の作成は、人権侵害常習国家には嫌われますから、本当に大変です。
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17日から普遍的定期審査UPRが始まりました。エリトリアの審査では、エチオピアとの領土論争がありました。お互いに「ここは2国間の論争をする場所ではないが、これだけは言っておかなければ」と言い訳しながら、非難合戦。次のキプロスのときは、キプロス政府のプレゼンテーションのすぐ次にトルコ政府の発言だったので、会場が見事にシーンと静まり返っていました。数百人が固唾を呑む状態。ところが、トルコ政府が穏当な発言で終わったので、ほっとしたというか、ある意味、肩透かしでした(笑)。UPRの政府発言が少ないのがわかりました。2008年の日本政府の審査の時はもっと多かったと聞いていたのですが、いまは5~6カ国。しかも、あまり突っ込んだ話はしません。余計なことを言うと、後が怖いということもあるのでしょう。NGOはガンガン発言していました。UPRのNGO発言がどの程度意味があるのか知らなかったので、インターナショナル・インターフェイスの人に聞いてみたところ、「勧告には全然影響しない。どの政府も聞き流している。でも、言うべきことは言っておかなくては」という感じでした。発言しているのは、世界的に活躍してきた有名NGOと、当該国家の属する地域のNGOのネットワーク体です。それぞれの国のNGOが情報提供しているのでしょう。
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18日午後のUPRはブータン、ドミニカ共和国、朝鮮(DPRK)でした。まずリ・チョル大使が、20分の演説です。UPRは事前に作業部会を終えている(そこが一番重要)ので、人権理事会では報告というか、セレモニーです。
リ・チョル大使の演説は、UPRの意義に触れ、2009年12月に行なわれた朝鮮の審査を担当したトロイカ・メンバー(南アフリカ、メキシコ、ノルウェーの3カ国)に感謝を述べ、韓国のうち受け入れられる部分と、受け入れられない部分を説明し、受け入れられない理由を述べています。朝鮮は各国からの勧告のうち50を拒否しています(勧告リストは今回は配布されていません。人権理事会ウエブサイトの2009年12月のところに掲載されているはずです)。受け入れない理由の最大のものは、それが人権問題ではなく、政治的理由からなされた勧告だからというものです。人権理事会のムンターボーン朝鮮特別報告者については、その存在自体を拒否しています。これは人権理事会の時につくられましたが、当時から全面拒否しています。次の理由は、経済封鎖や制裁によって制約されていることです。終わりのほうで次のように述べています。「わが人民は、前世紀に日本による40年の軍事占領によって語りえない困難と悲惨を味わい、過去65年には3年の戦争と外国軍隊による国家分断を経験し、それは今世紀も続いている。さらに、わが国の経済発展と人民の生活は、継続している制裁および敵対諸国による長年にわたる移動の制限によって深刻な被害を受けている」。
--注目すべき点は、日本を名指しで批判しているのに、アメリカを名指ししていないことです。「外国軍隊」「敵対諸国」という表現になっています。
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リ・チョル大使の演説の後、13カ国がコメントしました。結構多かった。
日本--朝鮮は、作業部会で「拉致問題は解決した」と説明したが、まったく受け入れられない。これは事実に反する。朝日協定に従って誠実に即座に完全解決するべきである。
アルジェリア--朝鮮の報告を歓迎する。朝鮮はUPRの重要性を理解して共有している。自然災害による困難を抱えている。国際共同体は制裁をやめて援助するべきである。
韓国--ムンターボーン特別報告者を認めて、その勧告を受け入れるべきである。国際共同体との対話を始めるべきだ。
キューバ--朝鮮の報告に感謝する。政治的動機からさまざまな勧告が出されているが、人権の促進に役立たない。特別報告者は政治的非難のためにつくられたので、正当化できない。国際共同体は二重基準に基づく朝鮮非難をやめるべきだ。
ヴェネズエラ--朝鮮政府に感謝する。朝鮮は人権保護に挑戦している。国際共同体との対話にも前向きである。近隣の巨大国家と比較しても、たとえばリテラシー(識字率)はひけをとらない。封鎖による困難にもかかわらず大変な努力をしている。
パキスタン--朝鮮に感謝する。人権実施に困難があるのはよくわかる。さらなる努力を期待する。
スーダン--無償教育の発展、健康システムんど社会権の保護はすぐれているが、封鎖がすべてに影響を与えている。
イラン--朝鮮に感謝。地形的困難にもかかわらず、社会権を充実させている。国際共同体は建設的対話を行うべきで、朝鮮を除外するのはやめるべきだ。
アメリカ--朝鮮には恣意的処刑、拷問、適正手続きの否定、表現の自由の否定、女性に対する暴力があり、国際共同体によるモニターを拒否している。全面的に協力せよ。
カタール--UPRに積極的に協力している。さらに対話の努力をするべき。
中国--詳細かつフランクな報告に感謝。さまざまな理由で困難を抱えている。中国は友好的な隣人として、危機のたびに援助してきた。国際共同体は朝鮮の状況を理解し、援助するべきだ。
フランス--多くの勧告を受け入れていないので、対話に協力しているとは理解できない。(僅か20秒)
スリランカ--途上国なのに社会権の保証はすぐれている。他の分野でもさらなる努力を。
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続いてNGO発言。
ヒューマン・ライツ・ウオッチ--表現の自由が制約され、脱北者が人権侵害を受けている。労働キャンプがまだある。死刑執行が続いている。
インターナショナル・インターフェイス--朝鮮は勧告の半分を拒否している。安全、平和、人権を十分守っていない。結社の自由、移動の自由が制限されている。
アムネスティ・インターナショナル--食糧の権利が守られず、国際的協力にこたえていない。AIその他の人権調査を拒否していて、朝鮮に入れない。
トパク・アマル国際運動--アメリカ、欧州、日本による敵対にもかかわらず、朝鮮は努力を続けている。
暴力被害者擁護組織--人権の文化が根付いてない。自由権も社会権も不十分。
以上を受けて、リ・チョル大使の最後のまとめ発言--一部の国家による選択的示威的な非難、二重基準、政治的非難は受け入れない。人権擁護のための国際的対話には積極的に協力を続ける。
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以上で終わり、のはずでした。普通はここで議長が「それでは決議を採択」といって終わるのです。ところが、その瞬間、ノルウェーが発言を要求。
ノルウェー--手元の資料に食い違いがあるようだ。朝鮮がどの勧告を受け入れ、どの勧告を拒否したのか正確に記載しておかないと、今後の議論に差し支えるから、ペンディングにして、明日、最初からやり直したい。
即座にキューバが発言。
キューバ--反対。どの国家も同じ方法で審査してきた。それがUPRである。朝鮮についても同じように決議を採択するべきだ。
私には、何が問題となっているのか、よくわかりませんでした。議長も困っていたようで、「協議のため2分休憩」。その間、議長団はノルウェーの席に。多数集まってなにやら協議。他方、多数が朝鮮の席にあつまり、2箇所に人の山。議長はキューバのところにも言ってなにやら話していました。再開後、議長は朝鮮のリ・チョル大使の発言を許可。
朝鮮--我が国は他の諸国と同じ主権国家である。それ以外に言うべきことは何もない(憮然としながら、ゆっくりと、これだけ言っておしまい)。
ノルウェーが発言を求めましたが議長は認めませんでした。議長「それでは採択をする」。しかし、フランスが発言。
フランス--採択には反対である。食い違いがあるなら再確認するべきだ。
キューバ--朝鮮は主権国家である。勧告を受け入れるか受け入れないかは、主権国家が自ら判断することである。すべての諸国がそうしてきた。朝鮮だけ別扱いなどできない。食い違いがあるなら、事後的に訂正文書を配布すれば済む。今までもそうやってきた。
議長「その通り。他に意見は? なければ、決議を採択する」。これで終わり。
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全体の印象としては、まず人が少なかったことです。木曜日の午後4時45分から5時30分のことで、やや少ないのはわかりますが、半分以上空席でした。次に、重要なのは、上にも書いたように朝鮮がアメリカ非難をしなかったことです。いつもなら、アメリカ、EU、そして特に日本非難、と続くのですが、今回は違いました。それからNGOも変わりました。以前は何年もの間、いろんなNGOが、朝鮮では100万死んでる、また100万だ、何十万死んでる、とずっとやっていました。そろそろ朝鮮はノーマンズ・ランドになったかと思いましたが、2008年にピョンヤンとウオンサンに行ったところ人が住んでいました(笑)。今回は、国際的にも高い信頼を得ているNGOの発言だけでした。最後に、朝鮮の審査報告が始まったときに、日本の外交官に案内されて4人の日本人がはいってきました。しばらく会場を右往左往してからNGO席に落ち着きました。終了後は、日本外交官とともに出て行きました。たぶん、拉致関係で国際アピールにいらしたのだろうと思います。
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ノルウェー、フランスの発言はよくわかりませんでした。私の推測では、フランスが食い違いに気づいたようです。フランスの最初の発言のときに言えばいいのに、僅か20秒で終わったのは、そのときは気づいていなかったのか、気づいたがちゃんと確認できていなかったからでしょう。自分の発言はそそくさと終えて、再確認してから、ノルウェーに持ち込んだものと思われます。ノルウェーは、朝鮮審査を担当したトロイカの一つなので、最後になって、食い違いを取り上げたのでしょう。話し方が、要点を得ない感じで、おずおずと話していたのは、自分で見つけたのではなく、フランスにそそのかされたからというのが私の推測。議長が休憩中にキューバと話していたので、そこで決着はついていたはずです。ケアレスミスは事後の訂正文書で済む、と。しかし、フランスが2度目の発言でごちゃごちゃ言ったので、キューバが駄目押し発言。フランスとしては朝鮮を困らせてやろうという思惑だったかもしれませんが、キューバにぎゃふんと言わされて恥をかいたようなものです。それにしても、こういうとき、キューバは強いです。キューバの外交官はずっと緊張しながら会議に望んでいるのでしょう。
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国連欧州本部旧館(国際連盟時代の建物)の大会議場前のロビーで、北京女性会議から15年記念の展示が行われています。写真展「コンゴ民主共和国」とビデオ上映「前線の女たち」。私が見たときはトルコのドメスティック・バイオレンスと闘う女性たちを取り上げた映像でした。以前は「北京アフター5」とか「プラス10」といった国際会議を開いていたので、今年もどこかでやるのでしょう。同じように世界会議ということでは、ダーバン人種差別反対世界会議も2001年なので来年は「プラス10」です。昨年秋に人権理事会でフォローアップをやっているので、来年、大きな会合はないのかもしれませんが。
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2)フェルネ・ヴォルテール
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フランス領のフェルネ・ヴォルテールに行ってきました。ジュネーヴからバスですぐなので、何度か行ったことがあるのですが、肝心のヴォルテール記念館に行っていなかったのです。ところが、春休みで休館でした。4月3日に再開とのこと。残念。仕方がないので、ぶらぶらお散歩して、夕食。ヴォルテールについては、下記に「ヴォルテールがやってきた--ジュネーヴとフェルネ」を貼り付けます。
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フェルネ・ヴォルテールの夕食は、ピザ・シシリエンヌと、Petite Arvine 2008, Maitre de Chais Valais Sion.
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3)展望台の読書
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グランサコネにはとても小さな展望台が2箇所あります。ジュネーヴはレマン湖に面しているので、町の中心部が一番低くて、周囲がゆるやかな丘になっています。グランサコネは丘に当たるため、レマン湖とその向こうのアルプスの山並みを見ることができる場所に展望台があるのです。ようやく春めいてきて、しかも快晴続きなので、少し、ベンチで読書。
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押村高『国際正義の論理』(講談社現代新書、2008年)
--政治学・政治思想史研究者による国際正義をめぐる議論の整理。カント的正義から遠く離れた現代正義論を見直すために、ポリス、十字軍、カント、不戦条約などを振り返り、戦争のみならず、資源・環境問題をも視野に入れた多様な現代正義論(国際刑事裁判所、現代の貧困、ロールズ正義論、国際的連帯義務)なども踏まえて、「文明の対立」とは、アメリカの正義とイスラムの正義とは、について考える小著です。コンパクトにまとめてあって有益です。私の知らない部分は特に。もっとも、国際刑事司法など私の専門分野について言えば、叙述が荒くて、浅いのはいたしかたないか。一人でここまで書くのって本当に大変だろうし。
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前島賢『セカイ系とは何か--ポスト・エヴァのオタク史』(ソフトバンク新書、2010年)
--エヴァンゲリオン以後のサブカルチャーにおけるキーワード「セカイ系」の解読を通じて、ゼロ年代のオタク史を論じる本です。エヴァまではなんとか分かるのですが、その後のことはぜんぜん知らないので、面白く読みました。少年画報から、サンデー・マガジン、そしてヤン・マガ、時々花ゆめ、さらにビッグコミックまではよく知っていますが、そのごはさすがにフォローしていませんので。ゼロ年代のサブカル思想に関しては東浩紀の一人勝ちとよく言われますが、著者は、東浩紀発行のメルマガ編集スタッフだったそうです。「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」がセカイ系の代表作だそうですが、見たことがありません。セカイ系とは、「少年と少女の恋愛が世界の運命に直結する」「少女のみが戦い、少年は戦場から疎外されている」「社会の描写が排除されている」という特徴があるそうです。納得。著者によると、セカイ系はゼロ年代の特徴で、もう終わっているが、その残滓はたくさんあるようです。今後、10年代(テンねんだい)のサブカルについてはあまり言及していません。セカイ系が見えても世界はまったく見えないことはよくわかりました。残念ながら誤植が多い。
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緑の絨毯 スイス酩酊記(5)
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ヴォルテールがやってきた
--ジュネーヴとフェルネ
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凱旋するルソー
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1750年夏、「学問芸術論」でディジョンのアカデミーを受賞したジャン・ジャック・ルソーは、一躍フランス思想界の有名人となった。
後に「人間不平等起源論」「社会契約論」「告白」「エミール」などでフランス啓蒙思想の寵児となるルソーだが、「学問芸術論」が思想界へのデビュー作である。オペラ「村の占い師」「フランス音楽についての手紙」を公にし、「人間不平等起源論」を執筆した1754年夏、ルソーは、26年ぶりに生地ジュネーヴを訪れた。
ジュネーヴはスイスの西端レマン湖に面した小都市である。レマン湖からローヌ川が流れ出すが、その周囲に船着場ができたのがジュネーヴの始まりだ。船着場の南側の小さな斜面に町が形成された。現在では旧市街と呼ばれている。
北側の斜面にも町は広がり、国鉄コルナヴァン駅のさらに北側には国連欧州本部、国際労働機関、世界保健機関、世界貿易機関、難民高等弁務官事務所などの国際機関が軒を連ねる。ジュネーヴ市の現在の人口は一八万人だが、約3割が外国人だという。
ルソーは、1712年6月28日、市民イザーク・ルソーとシュザンヌ・ベルナールの間に、ジュネーヴ市グラン・リュ40番地の母親シュザンヌの家で生まれた。ジュネーヴの山の手の高級住宅地である。旧市街に聳えるサンピエール寺院のすぐ近くに、ルソー生誕の家という説明板つきで残っている。母親は資産家の娘であったが、ルソーを産んだ直後に亡くなっている。父親は有能な時計職人だったらしいが、喧嘩早く、仕事も必ずしも好きではなかったようで、妻の遺産を食い潰した挙句、家を売り払いサンジェルヴェ地区のクータンスという下町に引っ越した。
ルソーはジュネーヴが生んだもっとも著名な思想家であるから、市内には生家のほかに、コルナヴァン駅近くにはルソー通りもあれば、「ジャン・ジャック」とか「社会契約」といったバス停まである。ルソーの銅像も建っている。ルソーはその著作の多くに「ジュネーヴ市民」という肩書きを付していることはよく知られる。
しかし、ルソーはジュネーヴで思想形成したわけではない。それどころか、10歳で父親が逃亡してしまい、徒弟職人としては無能者扱いされたルソーは、15歳にしてジュネーヴを立ち去る運命にあった。
ジュネーヴを去ったルソーはフランス領サヴォアに移り、アヌシーのヴァランス夫人のもとに身を寄せた。その後、イタリアのトリノでバジール夫人と恋に落ちたが、夫人の夫が帰郷したため追い出され、アヌシーに戻ったり、各地を転々とした後に、いったんパリに出た。しかし、職も財産もないルソーをパリは歓迎はしてくれず、リヨンやシャンベリーを放浪する人生を過ごした。無名の音楽家や家庭教師として失意の日々が続いたが、その間も読書に励んだルソーは、1742年、再びパリに姿を現した。そして社交界でディドロ、フォントネル、マリヴォー、デュパン夫人と知り合う。ここから「社会契約論」のルソーへはあと一歩である。ルソーがパリを必要としていた以上に、啓蒙に突入したこの時代のパリがルソーを必要としていたのだ。
26年ぶりに戻ったジュネーヴで、ルソーは大歓迎を受ける。市長や教会の長老たちがルソーを迎えた。逃亡した時計職人の無能な息子ジャン・ジャックではなく、パリ社交界にデビューを果たしたルソーをジュネーヴは暖かく迎えた。
「ジュネーヴはなにも変わらなかったのに、いかに私には美しく見えたかを、口ではいえません。変わったのは私の見方に違いありません。確かなことは、この町は世界でもっとも魅力的な町のひとつであり、住民は私の知るかぎりもっとも賢明で、もっとも幸せに思えます。自由がそこでは確立しており、政府は穏やかで、市民たちは啓蒙され、堅固ですが控え目で、自分たちの権利を知ってそれを勇気をもって支えていますが、他の人々の権利を尊重しています。」
少年時代に飛び出したために、ジュネーヴのことを知らないルソーは、「ジュネーヴ幻想」(小林善彦)によって理想化され美化されたジュネーヴの市民権を回復し、カトリックに改宗していたのを再びプロテスタントに戻した。「カルヴァンの町」ジュネーヴは当時もっとも厳格なプロテスタントの町であった。
宗教改革といえば、日本ではルターとカルヴァンが圧倒的に有名だ。ドイツ圏ではヴィッテンブルクのルター、フランス圏ではジュネーヴのカルヴァンということであろうか(ちなみに、森田安一「ルターの首引き猫--木版画で読む宗教改革」(山川出版社、1993年)はお勧めの1冊である)。
ジュネーヴのサンピエール寺院には宗教改革運動の歴史と思想の説明が、図版や写真つきで掲示されている。また、ジュネーヴ旧市街からすぐ西にあるバスティヨン公園の「宗教改革者の壁」には、カルヴァンやファレルらが立っている。
スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスもまたジュネーヴにその名をとどめる。サンピエール寺院にも詳しく掲示されているが、国際機関が立ち並ぶ北側の丘の上、グラン・サコネ地区には「ジョン・ノックス国際改革センター」があり、国際NGO活動の拠点のひとつになっている。
それまでずっと、自分を「ジュネーヴ市民」と称し、見事に凱旋を果たしたルソーは、わずらわしいパリを去ってジュネーヴに実を落ち着けようと考えた。だが、ルソーがジュネーヴにとどまることにはならなかった--ヴォルテールがやってきたからである。
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遊撃するヴォルテール
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1754年暮にジュネーヴにやってきたヴォルテールは、1755年2月に郊外のサン・ジャンに土地を入手し、「レ・デリス(無上の快楽)」と名づけ、ここで夕食会を開いた。ローヌ川に沿って南西に向かう通りがサン・ジャン通りである。
レマン湖から流れ出す緑のローヌ川と、モンブランから流れてくる白いアルヴ川が合流する地点を「ジョンクション」という。ローヌの緑とアルヴの白が溶け合う様子はとても不思議な美しさだが、今はその上に国鉄の鉄橋が走り、徒歩でも渡れるようになっている。ジョンクションに建つと、レマン湖の大噴水が遠方によく見える。遠方のレマン湖と噴水と、手前の緑、そして足下のジョンクション、不思議な不思議な光景だ。ジョンクションから北に歩くとすぐにサン・ジャン通りに出て、「ジャン・ジャック」「社会契約」という名前のバス停留所に達する。
1694年生まれのヴォルテールは、ルソーより18歳年長であり、フランス啓蒙の代表者であった。日本ではルソーの影に隠れた印象だが、文学、哲学、法学など多面的に活躍したスーパースターといってもいいだろう。そのヴォルテールがジュネーヴにやってきた頃、ルソーはフランス論壇にデヴューしたばかりの新人であった。ヴォルテールにすれば、ルソーなど勝手なことを言っている若者にすぎなかったかもしれない。
ジュネーヴ上流階級の人々は、フランス啓蒙の闘う思想家ヴォルテールの館に集まった。レ・デリスでは、芝居の上演も行った。ジュネーヴじゅうの市民が集まったという。
しかし、カルヴァンの町ジュネーヴでは当時は演劇自体が禁止されていた。ジュネーヴ市宗務局はヴォルテールに演劇は禁止だと通告した。
ところが、ヴォルテールもしたたかである。ジュネーヴのすぐ北にあるフランス領のフェルネに土地を買い、館を建てて、住み着いたのである。ジュネーヴ市民相手に啓蒙を広め、演劇を行うが、当局の規制があればフランス領のフェルネに逃れることができる。
ジュネーヴ市の周囲は、東側のレマン湖を除くと、どちらへ向かってもフランス領である。市内を走るバスを見ると、2種類の路線番号があることに気づく。一つは1、2、3と数字がつけられているが、これはジュネーヴ市内だけを走るバス路線である。もう一つはA、B、Cとローマ字がつけられているもので、こちらはジュネーヴ市外に達するバス路線である。
ジュネーヴ中心にある国鉄コルナヴァン駅の裏手から発する”F”路線バスは、ジュネーヴとフェルネを結ぶ路線である。モンブリヤン通りを走り、国連欧州本部前の平和公園から北に向かうバスは、ジュネーヴ空港の地下を通り抜けると、国境の検問所に出る。検問所といっても普通は何の検査も行われることなく、バスはあっという間にフランス領を走り始める。終点のフェルネ町役場前までは30分もかからない。バス停の名前は「フェルネ・ヴォルテール」である。
フェルネ郊外には農地や花畑が広がっているが、町の中心部はとても小さい。町役場前に立つ銅像は、フェルネ出身の戦死者追悼碑である。第一次大戦、第二次大戦、ヴェトナム、そしてアルジェリアにおける戦死者の名前が刻み込んである。
追悼碑から町の中央通りを歩くと、すぐにヴォルテールの銅像に出会う。特別な説明はついていないが、欧州随一の知識人がここに住んだのだから、今でも地元の人々にとっては「ヴォルテールが来た町」という名誉感があるのだろう。
フェルネの中心部には、フランス・ホテルが1軒、かわいらしいレストランや花屋が数軒ある程度だ。フランス・ホテルはジュネーヴの普通のホテルと比べても、宿泊料金が半額だ。町の北側に小劇場があるが、普通の2階建ての民家を改造した、まさに小劇場だ。周囲には近代的なアパート群も並んでいる。フランス領だが、いわばジュネーヴの衛星都市といった具合で発展しているのだろう。物価が安いので暮らしやすそうだ。なにしろ、お隣のジュネーヴは世界でもとびっきり物価が高いのだ。
ジュネーヴは観光都市であり、レマン湖周遊や、モンブランへの入り口である。レマン湖北側の丘にはアラブの石油王の別荘が並ぶ。国連欧州本部をはじめとする国際機関もひしめいている。このために、とても物価が高い。
モンブラン観光ツアー・バスの日本語通訳ガイドをしているフランス女性は、ジュネーヴの南方にあるフランス領に住んでいる。住居はフランス、職場はジュネーヴというフランス人が結構いる。彼女は「賢いフランス人」と呼んでいる。というのも、物価の高いジュネーヴで働いて賃金を得て、物価の安いフランス領に暮らして納税しているからだ。フェルネにもそうした賢いフランス人がいるのであろう。F路線バスは通勤時間にはしっかり混雑している。
ただし、誰もがいつでも賢いフランス人になれるわけではない。それではジュネーヴ市の財政がもたないから、ジュネーヴ市ではフランス人労働者数に規制を設けているため、多くのフランス人が順番待ちをしているという。
フランスのどこにでもありそうな田舎町に、ヴォルテールは1766年7月上旬まで暮らした。その後一時、療養のためにスイスのロールに移ったのだが、実は啓蒙の基本書「哲学辞典」がフランス当局の監視の目に触れ、執筆者探しが行われていたので、探索から逃れるためにスイスに移ったとも推測されている。スイスとフランスを行ったり来たりしながら、政治監視の網の目を逃れる移動する知識人の闘いといえよう。ヴォルテールは順番待ちをする必要はなかった。
冤罪カラス事件は1761年に始まり、シルヴァン事件は1762年、ラ・バール事件は1765年である。ヴォルテールはこれらの冤罪を批判し、再審運動を進めたが、その活動もパリから遠く離れたフェルネからの発信であった。ヴォルテールは手紙やパンフレットを送って、冤罪犠牲者への救援を呼びかけ、再審無罪を獲得するために裁判闘争にも援助を進めたのである。ベッカリーアの「犯罪と刑罰」が出版されるや、その注釈を書いて、普及に努めたヴォルテールは、フランス刑事司法改革の主要な担い手ともなった。
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すれ違う2人の巨人
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「もうひとつ私の決心を大いに助けたのは、ヴォルテールがジュネーヴの近くに定住したことである。私には分かった。あの男はそこで革命をやるだろう。私は、自分をパリから追い立てたあの調子、態度、風俗を、また祖国で見ることになるであろう。そしてたえず戦わなければならないだろうし、我慢のならない衒学者か、卑劣な悪い市民になるほかに、自分の行動の選びようがなくなるだろうと。」
ヴォルテールとの直面を避けたルソーは、1756年4月、パリ郊外のモンモランシーの森にあるレルミタージュに新築されたデピネ夫人の「隠れ家」に住んだ。1757年、ジュネーヴ図書館の名誉館員を提供されても固辞している。
「人間不平等起源論」に対してヴォルテールは厳しい批判を加え、ルソーは反論の手紙を書いた。その後もヴォルテールとルソーの反目は続き、1760年6月17日、ルソーはヴォルテールに絶縁状を送り、決定的に決裂した。
レルミタージュのルソーは、「新エロイーズ」や「エミール」を続々と発表したが、1762年6月、「エミール」はパリで有罪判決を受け、ルソーに逮捕状が出た。ルソーはスイスに逃れるが、ジュネーヴでも「エミール」は禁止され、逮捕状が出た。スイスに逃れながら故郷ジュネーヴに戻ることのできなかったルソーは、1763年5月、「恩知らずの祖国」ジュネーヴの市民権を放棄した。こうしてルソーは生涯に2度、ジュネーヴを追われたのである。
歴史的な冤罪カラス事件やシルヴァン事件の救援に携わっていたヴォルテールは、ルソーと決別しながらも、ルソーと同じ闘いを、1778年の死去に至るまで生涯かけて闘いつづけた。それは拷問を許容し、予断と偏見に基づいて有罪判決を出してきた刑事司法制度との闘いであった。
ヴォルテールとルソーが去った1778年から11年後、1789年のパリを啓蒙と革命の嵐が吹きぬけることになる。
2人が革命の動乱を予感していたとまではいえないかもしれないが、客観的にはこの2人が革命の思想と論理を準備したことはよく知られる通りである。
ジュネーヴとフェルネでの鞘当てがなければ、2人が革命の先頭に立っていたかもしれない。これは空想に過ぎないが、あの時、ヴォルテールが速やかにパリに帰っていれば、ルソーはジュネーヴに安住することができた。
フランス啓蒙の2大巨頭のすれ違いは、その後の歴史に不思議な陰影を与えることになった。このことを知るだけでも、ルソーしか知らない日本社会には重要なのではないだろうか。
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<参考文献>
小林善彦「誇り高き市民--ルソーになったジャン・ジャック」(岩波書店、2001年)
石井三記「18世紀フランスの法と正義」(名古屋大学出版会、1999年)