Wednesday, November 24, 2010

人間疎外とたたかう刑事法学の可能性(2)

『救援』499号(2010年11月)

厳罰化政策批判

  森尾亮・森川恭剛・岡田行雄編『人間回復の刑事法学』(日本評論社)は、「厳罰化政策と人間疎外」(第一部)「差別の克服」(第二部)「人間回復に向けて」(第三部)に、一三本の論考を収める。

陶山二郎「謙抑主義に関する一考察」は、集合住宅でのビラ配布が住居侵入罪とされた立川テント村事件を素材に、一審無罪判決と控訴審・最高裁有罪判決の間に、刑罰による処罰は「最後の手段」とする謙抑主義に対する態度の相違があるのではないかとして、戦前日本における謙抑主義に関する学説をフォローし、謙抑主義の法的根拠をめぐる議論を検証した上で、謙抑主義を源とする可罰的違法性の理論を、基本原理の実体刑法解釈への具体化の例として素描し、佐伯千仭の可罰的違法性論がもつ実践的意義を確認する。

福永俊輔「教唆犯規定の意義に関する一考察」は、刑法典における「正犯」と「共犯」をめぐる規定の齟齬に着目し「教唆犯は正犯ではない」という命題を俎上に載せる。フランス刑法、特にオルトランの刑法思想の影響を受けた刑法における正犯と共犯の意味を探るために刑法史を詳細に追跡し、現行刑法の理解として「教唆犯は正犯ではない」ではなく「教唆犯は身体的正犯ではない」と理解すべきとし、教唆犯が「知的正犯」である可能性を浮上させる。

雨宮敬博「入札談合等関与行為防止法の処罰規定について」は、独占禁止法に発しつつ、二〇〇〇年の入札談合等関与行為防止法に発展した処罰規定について、法律制定過程を検討した上で、職員による入札等の妨害の罪の成立範囲に疑問があり、正犯への「格上げ」に伴う処罰範囲の拡大や、処罰規定を設けたこと自体の当否について検討し、拙速な処罰規定導入であったとし、本質的な問題解決にならないと批判する。

春日勉「刑事弁護と防御権」は、「司法改革で被疑者・被告人の防御権保障は拡大したか」を問うために、戦後刑訴法理論における防御権論を踏まえ、司法制度改革審議会における議論に被疑者・被告人の権利の理解が十分ではなく、権力を行使する側から見た「適正な弁護」の議論が前面に出て、捜査の現状に対する批判を抜きに公判前整理手続きが導入されたと見る。

以上の諸論文は、前号で紹介した二論文とともに「厳罰化政策と人間疎外」としてまとめられている。刑法原則を直接取り上げたもの、刑法総則規定に関するもの、特別刑法に関するもの、そして刑事訴訟法を主題とするものと、研究領域は多様であるが、現代日本における厳罰化政策・重罰化が刑事司法にもたらしている歪みとその原因をていねいに明らかにしている。

差別の克服と人間回復

本書後半では、「差別の克服」と「人間回復に向けて」がテーマとされる。

櫻庭総「差別煽動行為の刑事規制に関する序論的考察」は、副題が「刑法におけるマイノリティ保護と過去の克服」であり、差別煽動行為に関する議論状況を見据えつつ、差別煽動行為と表現の自由に関する従来の刑法学説を検討して、「差別表現の自由」という論理に焦点をあて、「無制約な表現の自由を盾に差別煽動行為の規制を否定することは、必ずしも表現の自由を保障することにはならない。つまり、保障されるべき表現の自由が持つべき価値、ないし質に関する検討が阻害され、結果として何が許されない差別表現かを議論する土台が一向に築かれないという矛盾に陥っている」とする。筆者は最後に次のように述べる。「差別事件を刑事罰によってのみ対応することは、何ら問題の解決にならない。しかし、『表現の自由』を盾に問題を市民社会の『見えざる手』に全権委任することもまた、厳しい現実に直面している当事者にとっては差別の放置にしかならない。マジョリティたる『市民』の『表現の自由』を保障するため、マイノリティの人権が犠牲にされてきた側面はないだろうか」。

稲田朗子「戦前日本における断種法研究序説」は、医師による議論と優生学の広がり、法律家の反応を詳細に検討し、ここにも「新派」と「旧派」の対立があるが、真の対抗関係には立ち入っていない疑問を指摘する。

平井佐和子「ハンセン病問題と刑事司法」は、熊本県菊地市で起きたダイナマイト事件など菊地事件をとおして、ハンセン氏病患者に対する差別による隔離と「みせしめ」としての処刑にほかならなかったことを明らかにする。

森川恭剛「ヨーロッパ中世のハンセン病と近代日本の隔離政策」は、日本における隔離政策の意味を考察するために、ヨーロッパ中世における隔離思想の展開を跡付け、排除と救護と感染予防の歴史的相関関係を踏まえ、「慈善の覚醒における関心が施す側にあったことは強調されているが、そこに隔離が排除の意味に傾くというハンセン病療養所の機能転換の一因がある」と指摘する。

第三部「人間回復に向けて」では、鈴木博康「福知山線列車事故報告書をめぐって」が、業務上過失致死事件として処理された事件について、刑事責任追及型システムから原因究明型システムへの転換を強調する。

大藪志保子「フランスの薬物政策」は、薬物自己使用罪の非刑罰化をめぐってフランスの経験を歴史的に検証して、非刑罰化、非犯罪化の議論を展望する。

岡田行雄「少年司法における科学主義の新たな意義」は、少年事件における鑑別や社会調査における科学主義とは何であり、いかなる実践がなされるべきかを問い返し、新たな科学主義の構築を試みる。

以上、極めて簡潔に紹介してきたが、本書の特質は、執筆者が内田博史門下の研究者であるという人的なつながりだけによるのではない。内田刑法学に学んで、「近年における人間疎外の刑事法改革を批判的に検証し、人間回復の刑事法学への転換を提起する」という問題意識を共有しながら、各自の課題に応じて、独自のスタイルで各自の論考を書き上げたことが重要である。一つひとつの論考それぞれに学ぶべき点を列挙する余裕がないが、若手研究者中心の意欲的な挑戦に感銘を受けたことを表明しておきたい。第三部が分量的に非常に少なく、個別論文しか収録されていない点はやや物足りないが、言うまでもなくこの挑戦はこれからも続く。九州発の人間回復の刑事法学は、他の刑事法研究者に対する見事な挑発であり、それぞれの応答を求めている。より若い世代の研究者を含めて、第二、第三の挑戦が世に問われるであろうことを期待して本稿を閉じたい。

人間疎外とたたかう刑事法学の可能性(1)

『救援』498号(2010年10月)

 森尾亮・森川恭剛・岡田行雄編『人間回復の刑事法学』(日本評論社、二〇一〇年)が公刊された。内田博文(現・神戸学院大学教授)の九州大学法学研究院退官を記念して、門下生たちが編んだ論文集である。

 編者は、一九九〇年代からの刑事法改革が「厳罰化」「犯罪化」「処罰の早期化」「処罰のボーダレス化(国際化)」や、犯罪被害者の保護や司法参加、公判前整理手続き、裁判員制度の導入、公訴時効の廃止に結びついているが、これは市民の声を反映したとされているものの、「今や日本の刑事司法における人権保障はきわめて希薄化ないしは限定化され、さらには刑事法改革を評価しているはずの犯罪被害者やその遺族にさえ孤立感・疎外感をもたらす事態になっている」という認識に立っている。日本刑事法学は伝統的に欧米学説の翻訳紹介によって成り立ってきたが、内田刑事法学の方法論的関心は、「『孤人』主義化した現代社会システムはグローバルな偏在性をもっており、私たちの眼前で進行している。そうであるならば私たち一人一人がベッカリーアの目をもち、正面からこれと向き合うべきであろう。私たちの課題は、人間疎外の深刻化した現代社会において、片隅に追いやられ、声をあげることすらできない人々の苦痛や哀しみを理性と感性で受け止め、必要に応じて刑事法学から踏み出して学び、これを打開しようとすることである」とまとめられ、編著者たちはこれを自らのものとして継承し、発展させようとしている。正面切って『人間回復の刑事法学』と命名したのは、旧来の刑事法学への挑戦状とするためである。各論文に言及する余裕がないので、構成・目次を掲げておこう。

第一部は「厳罰化政策と人間疎外」をテーマに、梅崎進哉(西南学院大学教授)「厳罰化・被害者問題と刑法の存在理由」、森尾亮(久留米大学准教授)「刑事立法の活性化と罪刑法定主義」、陶山二郎(茨城大学講師)「謙抑主義に関する一考察」、福永俊輔(九州大学法学研究院協力研究員)「教唆犯規定の意義に関する一考察」、雨宮敬博(宮崎産業経営大学講師)「入札談合等関与行為防止法の処罰規定について」、春日勉(神戸学院大学准教授)「刑事弁護と防御権――司法改革で被疑者・被告人の防御権補償は拡大したか」が収録されている。

第二部は「差別の克服」をテーマに、櫻庭総(九州大学法学研究院助教)「差別煽動行為の刑事規制に関する序論的考察」、稲田朗子(高知大学准教授)「戦前日本における断種法研究序説」、平井佐和子(西南学院大学准教授)「ハンセン病問題と刑事司法――菊地事件をとおして」、森川恭剛(琉球大学教授)「ヨーロッパ中世のハンセン病と近代日本の隔離政策」を収録する。

第三部は「人間回復に向けて」をテーマに、鈴木博康(九州国際大学准教授)「福知山線列車事故報告書をめぐって」、大藪志保子(久留米大学准教授)「フランスの薬物政策――薬物自己使用罪の非刑罰化をめぐって」、岡田行雄(熊本大学教授)「少年司法における科学主義の新たな意義」が収録されている。

刑事立法と刑法原則

 近年における刑事立法の活性化は、凶悪犯罪増加キャンペーンに代表されるように、犯罪被害を恐れる市民の法感情に牽引された。立法事実の冷静な検証は割愛され、立法が社会に与えるさまざまな波及効果の測定も省略され、刑法原則との整合性も抜きに、情動的な拙速主義が貫かれていた。このことがもたらしている負の影響を的確に認識し、是正することが刑法学の課題となっている。

 梅崎進哉「厳罰化・被害者問題と刑法の存在理由」は、厳罰化・被害者問題の噴出の構造を検討したうえで、刑法学の理論的特質を分析していく。まず機能主義刑法学について、社会を形成する「価値の共有」の観点で、「機能主義刑法学は、人間が本来的に有している結合の絆をわざわざ断ち切り、『法』を多数決原理にもとづく実定法規に置き換える。それ故、結局は、価値中立の装いをこらしながら多数者による少数者の『効率的な』支配と排除に資するものとならざるをえない。今回のように、厳罰化の要求が『国民の意思』の形をとって現れた場合、機能主義刑法学にはそれを制止する論理はなく、相互不信に基づく『不安感の拡大再生産過程』に同調するしかないのである」と見る。そして一般予防論と人間疎外に関連して、「おそらく問題は、近代以降の刑法学が『国家』に秋波を送ることに熱心なあまり、人間存在への洞察をなおざりにしてきたことにあるだろう」とし、刑罰を根拠付ける応答とはいった何であるのかを問い直す。「刑罰自体の問題としては、『修復』は『目指されるべき方向』ではあっても『到達目標』ではない。刑罰の最も本質的な意味は、社会による『赦し』にある」とする梅崎は「テクノクラーティックな刑法理論を捨てて本来の共生の法則として市民のものに戻し、真の応報を超えた厳罰化や侵害原理を超えた処罰範囲拡大要求はきっぱりと拒絶すべきだ」と結論付ける。一つひとつの刑事立法の必要性や効果への疑念はもちろんであるが、これら刑事立法の活性化の根底にある思考様式と人間観の問題性を抉る論稿である。

 森尾亮「刑事立法の活性化と罪刑法定主義」は、同じ問題を解釈方法論のレベルで捉え返すために、「客観的解釈としての目的論的解釈」が「国民の予測可能性」の保障を損なう帰結をもたらすことを、判例を素材に跡付ける。二〇〇六年二月二〇日の最高裁判決は児童ポルノ禁止法違反事件につき、画像データのダビング行為は同法が禁止する児童ポルノの「製造」に当たると解釈した。立法当局は、ダビング行為のような「複製」は「製造」には当たらないとしていたものを、最高裁は、処罰を求める目的論的解釈を採用して、ダビング行為は製造に当たるとしたのである。同様の解釈方法は公害罪法違反の大東鉄線事件最高裁判決にも見られる。判例の「柔軟な」方法を、学説も「国民の法意識論」を媒介に肯定してきた。森尾は「近時の刑事立法の活性化は、決して司法府における罪刑法定主義違反の抑制に繋がるものではないこと、換言すれば、これまでの通説的理解であった刑事立法の活性化によって判例の罪刑法定主義違反を抑制するという処方箋はきわめて観念的なレベルにとどまっていたものであることが明らか」であり、それ故、近代刑法原則の歴史的意義を踏まえた「現代的再構成」が求められるという。立法と司法の関係性の現代日本的形態、すなわち癒着と瞞着を射抜くと同時に、刑法学説と立法の関係性、および刑法学説と司法の関係性の、ほとんど戯画的な縺れ合いを暴露している。

  ここでは国家刑罰権によって推進される人間疎外と、国家刑罰権に添い寝して自らを貶める人間疎外とが、重層し、競合している。刑法学に求められる「内破」、それが問題である。

Monday, November 22, 2010

虚妄の民衆思想(2)

『無罪!』67号(2010年11月)/法の廃墟36

花崎平『田中正造と民衆思想の継承』(七つ森書館、二〇一〇年)に見られる花崎民衆思想とは侵略容認の民衆思想にほかならない、というのが前回の暫定的結論であった。同じことを別の視点で確認していこう。花崎は、民衆思想家として四人の男性思想家をとりあげる。男女平等が、正造の言葉でも花崎自身の言葉でも示されるが、アリバイづくりの印象を否めない。「四〇年以上にわたるライフワークの集大成」として四人の男性思想家だけを取り上げているのだから、女性思想家は取り上げるに値しないと判断したということだ。石牟礼道子、森崎和江、田中美津の名前だけは記している(二二七頁)が、人物や思想について紹介も検討もしない。その必要はないというのだ。いささか揚げ足取りであるが、このことをしっかりと確認しておきたい。次の論点にかかわるからである。

正造の「妾問題」

 江刺県官吏時代、一八七一年、三〇歳の正造は、一四~五歳の少女を妾とし、少女と同棲生活をしている。地元の人間から繰り返し批判されたが、「正造はそれらの意見、忠告を意に介さなかった」。このことは東海林吉郎『歴史よ 人民のために歩め--田中正造の思想と行動』(太平出版社、一九七四年)で指摘されているという。

花崎はその紹介した上で、東海林の本について「しばしば推測を加えた断定的な結論を下している憾みがある」と批判している(四一頁)。ところが、花崎は、正造が妾をもった事実を否定する根拠・資料について何も述べていない。正造が周囲から批判された事実を否定する事実も述べていない。東海林の著述のどこが「しばしば推測」なのか具体例を一つも指摘していない。本書の読者には何が何だかわからないようになっている。

一八七一年当時の日本社会において妾がどのように見られていたのか、妾を持つことがどのように評価されていたのかはここでは重要ではない。正造が妾を持ったことを現在の価値観から評価することも、とりあえずここでの課題ではない。

重要なのは、正造の思想と行動それ自体ではなく、二〇一〇年の現在、このような記述をしている花崎の思想である。東海林による正造への批判的言及に対して、事実に基づく反論をせずに「しばしば推測」とレッテルを貼ることによって花崎は何をしているのか。妾問題の焦点をずらしているに過ぎない。何のために焦点ずらしをしているのか。「妾問題」を前にして、精神のバランスを失っている花崎を見ることになったのは残念である。

花崎の正造「民衆思想」論の中心は、著作の第六章、第七章に詳しく紹介されている。「無私、無所有、無宿の生活」というものである。

正造は、各地を転々と訪ね歩き、支持者の家に宿泊しながら調査と活動を続けた。では、正造は、どこで何を食べて生きていたのであろうか。花崎の記述からわかることは、ほとんどの場合、正造は支持者の家で食事をしていたであろうことだ。もちろん、支持者たちは正造を歓迎し、喜んで食事を提供したであろう。正造は、農民たちのために懸命に調査と活動をしていたのだ。これは正造ほどの人物であるが故に可能となったことである。

ここでの問題は、家事労働なき正造の生活とその上に成り立っている思想を「民衆思想」と呼ぶことが適切かどうかである。これは、特権的な高等遊民の思想としか呼びようがないのではないだろうか(善し悪しを問題にしているのではない)。当時、家事労働を担ったのは誰か。封建制の残滓を色濃く残していた農民たちの生活の現実の中で、個人の判断など抜きに、女性たちが家事労働専門の役割を与えられていたことは明らかである。正造が女性たちの家事労働を搾取した、などと言いたいのではない。正造の無私の闘いに感銘を受けて、正造のために女性も男性も懸命に尽くしたであろうことは間違いない。

ともあれ、女性たちの家事労働の上に正造の高等遊民生活が可能となっていた。このことに花崎は全く言及していない。そして、「民衆思想」を語るのである。

「民衆思想」とは何か

 はたして花崎/正造の「民衆思想」とは何であろうか。花崎は「晩年の田中正造は、無私、無所有、無宿の生活に徹底していた。そこから発せられる言葉は透徹し、単純で誇り高く、一切を捨てた虚心、虚位の精神的自由の境地を現している」(九五頁)と言う。「定住する家はもちろんのこと、着替えの衣服さえ持たず、村から村へ、或いは町へ、一ヶ所に一晩以上滞在することもあまりなく文字どおり行脚する日常」(九六頁)とも言う。直訴事件以後の正造の思想の発展について、第六章、第七章で詳しく論じている。

ただちに疑問がわく。いったいどこが「民衆思想」なのだろうか。確かに正造は民衆の側に身を置き、民衆とともに闘った。正造は、日清戦争認識(侵略戦争を容認したこと)はともかくとして、基本的に民衆の平和、平穏、生活、暮らしを守り、権力の横暴を批判し、闘いつづけた。このことに疑問をさしはさむ必要はない。

しかし、正造の思想は「民衆思想」ではないと言うべきだろう。正造の生活は民衆の生活とは無縁だからである。民衆には生産があり、現実の生活がある。正造はあちこち流転し、各地の支持者の家に宿泊し、運動や調査をしながら移動して行った。高等遊民のごとく民衆の生活に寄宿していたのである。元国会議員でありながら民衆のために闘い続ける正造であるがゆえに、数多くの支持者に支えられていたのである。無私、無所有、無宿の思想は、民衆の生活実践とは関係のない思想である。民衆とともにありつつ、けっして民衆にはなれなかった正造の独自の思想である。それを高く評価するのは理解できるとしても、「民衆思想」と呼ぶのはレッテル詐欺でしかないだろう。レトリックだけなら、正造と農民全体が一つの共同体であったという形で説明することは一応はできるだろう。しかし「女性差別構造の上に乗っかった民衆思想」「女性差別容認の民衆思想」にとどまると言わざるを得ない。

 花崎は、随所で「これが民衆思想だ」と断定しているが、「なぜ」「民衆思想」であるのか説明がほとんどない。正造の思想が重要であるということは理解できるが、これが「民衆思想」であると断定されても、疑念が残る。花崎/正造の「民衆思想」とはいったい何なのだろうか。花崎は「私が知る限りの民衆思想家は、軍備全廃、戦争反対論者であり、(新井)奥邃も民衆思想家の共通の非暴力平和主義を基調に置いていた」(一六一頁)と述べている。しかし、先に紹介したように、正造は「日清戦争によって国民の正直を発見したとして『戦争、国民万歳』と日清戦争を肯定している」と書いていた(五三頁)。「戦争万歳」と言う戦争反対論者――アジアに対する侵略戦争を容認し、女性差別を容認する花崎/正造の「民衆思想」とは何なのだろうか。

Wednesday, November 17, 2010

アイヌ先住民族の権利(3)

旅する平和学(36)

人種差別撤廃委員会勧告

 九月一八日、阿部ユポ(北海道アイヌ協会副理事長)は、カトリック正義と平和協議会の第三六回全国集会においてアイヌ民族の歴史と権利について講演した。

 北海道アイヌ協会(旧ウタリ協会)は、北海道に居住しているアイヌ民族で組織し、「アイヌ民族の尊厳を確立するため、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展を図ること」を目的とする団体である。

アイヌ民族については、戦後も長い間、行政サイドでは無施策のまま過ぎ、追って生活格差是正の一環としての施策が現在まで続いている。ほとんどの日本国民がアイヌ民族は同化されたと思い込み、その誤まちにも気づかないまま、社会に「単一民族国家」幻想が蔓延していた。

北海道アイヌ協会は一九九〇年代から、国連総会、先住民族作業部会、人種差別撤廃委員会などに参加して、世界の先住民族と交流を深め、先住民族の権利の形成、そしてアイヌ民族に対する差別の是正に取り組んできた。和人とアイヌの不幸な過去の歴史を乗り越え、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践や人種主義の根絶は、人権思想を根付かせ発展させようとする国連システムの取り組みに符合する。

阿部も、長年にわたって国際人権活動に取り組んできたので、講演においても人種差別撤廃委員会の勧告を紹介した。二〇一〇年二月に開催された人種差別撤廃委員会は、アイヌ民族に関連して、日本政府に対して次のような勧告を公表した(以下、村上正直監訳による)。

       *

20.委員会は、アイヌ民族を先住民族と認めたことを歓迎し、締約国による約束を反映する諸施策(象徴的な公共施設の設置に関する作業部会の設立、および北海道外のアイヌのおかれた状況に関する調査を行なうための作業部会の設置を含む。)を関心をもって留意しつつも、以下のことに懸念を表明する。

(a)各種の協議体や有識者懇談会においてアイヌ民族の参画が不充分であること。

(b)アイヌ民族の権利の発展および北海道におけるその社会的地位の改善に関する国レベルの調査がなされていないこと。

(c)「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の実施に向けたこれまでの進展が限定的であること(第二条、第五条)。

委員会は、アイヌ民族の代表者との協議の結果を、アイヌの権利を取り扱う、明確で焦点を絞った行動計画を伴なう政策およびプログラムに結実させるべく、アイヌ民族の代表者と協力してさらなる措置をとること、および、そのような協議へのアイヌ民族の代表者の参加を増大させるよう勧告する。委員会は、また、締約国が、アイヌ民族の代表者との協議のもと、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」などの国際約束を検討し、実施することを目的とした第三番目の作業部会の設置を検討するよう勧告する。委員会は、締約国に対し、北海道のアイヌ民族の生活水準に関する国レベルの調査を実施するよう要請し、締約国が委員会の一般的な性格を有する勧告二三(一九九七年)を考慮するよう勧告する。委員会は、さらに、締約国が、国際労働機関の「独立国の先住民および種族民に関する第一六九号条約」の批准を検討するよう勧告する。

       *

 右の勧告に「第三番目の作業部会」とあるのは、日本政府がすでに二つの作業部会を設置しているからである。象徴的な公共施設の設置に関する作業部会と、北海道外のアイヌのおかれた状況に関する調査を行なうための作業部会である。いずれも必要な部会である。 しかし、問題は、日本政府が二つの作業部会しか設置しようとしないことである。

先住民族の権利から考える

 もともと「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」は、二〇〇七年に国連総会で先住民族権利宣言が採択され、日本政府がアイヌ民族を先住民族と認めたことから始まった。当然のことながら、先住民族権利宣言が保障する諸権利に照らして、アイヌ民族の権利を保障しなければならない。

 NGOの「市民外交センター(代表・上村英明)」は、先住民族権利宣言の日本国憲法上の重要な位置づけとして、条約や「確立された国際法規」を「誠実に遵守すること」が定められているとし、先住民族権利宣言は、国内法体系の中で、「参考」以上に重要な役割をもつことを確認すべきだと主張している。日本では、国連宣言に準拠して、アイヌ政策を改善することが、二〇〇八年六月六日に衆参両院で満場一致の決議として採択された。「確立された国際法規」を国内の視点で考えれば、国連宣言が、国連総会で採択された一般の宣言とは異なる重さを認めなければならない。

 それゆえ、先住民族の自己決定権、民族的アイデンティティに関する権利、文化・宗教・言語の権利、教育・情報などの権利、経済的社会的権利と参加の権利、土地・領域・資源の権利、自己決定権を行使する権利など全面点検が必要だ。先住民族の土地所有権を始めとする様々な権利や、同化を強制されない権利の観点での検証も重要である。アイヌ民族の権利状況について総合的見直しの必要性がある。

 例えば、アイヌ民族の「民族議席」に関する日本国憲法上の妥当性も検討の余地がある。 アイヌ民族が独立を主張するのではなく、日本国の内部にあって自己決定権を享受するのであれば、民族自治機関の構築問題とは別に、国会に民族の希望を反映させるための「民族議席」を設置することは当然の要求である。

 本来ならば、アイヌ民族のアイヌモシリ(北海道)に対する土地所有権返還も検証される必要がある。今さら北海道を返還するのは現実的でないと言うかもしれないが、北海道アイヌ協会は北海道全面返還を求めているわけではないだろう。幸にして北海道の半分ほどが国有地である。その順次返還を進めつつ、返還しない場合でも土地利用権を十分に保障していく方策が求められる。

 ところが、日本政府は象徴的施設と、北海道外のアイヌ調査しか考えていない。これでは先住民族権利宣言を踏み躙るものと言わざるを得ない。

 人種差別撤廃委員会は第三番目の作業部会設置を勧告した。そして、先住民族権利宣言第二条(平等の原則、差別からの自由)と第五条(国政への参加と独自な制度の維持)を特に取り上げている。日本政府は、勧告を受け止めて、誠実に対応するべきである。

アイヌ先住民族の権利(2)

旅する平和学(35)

先住民族の権利

 二〇〇七年に国連総会が採択した先住民族権利宣言は、先住民族の権利のカタログを列挙している。特に冒頭の三か条は、先住民族の権利の基本的性格を明示している。

「先住民族は、集団または個人として、国際連合憲章、世界人権宣言および国際人権法に認められたすべての人権と基本的自由の十分な享受に対する権利を有する。」(第一条、集団および個人としての人権享有)

「先住民族および個人は、自由であり、かつ他のすべての民族および個人と平等であり、さらに、自らの権利の行使において、いかなる種類の差別からも、特にその先住民族としての出自あるいはアイデンティティ(帰属意識)に基づく差別からも自由である権利を有する。」(第二条、平等の原則、差別からの自由)

「先住民族は、自己決定の権利を有する。この権利に基づき、先住民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、ならびにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する。」(第三条、自己決定権)

 以上の三カ条を見るだけでも、近代人権宣言との共通点と相違点を確認することができる。共通点の第一は、国連憲章、世界人権宣言、国際人権法における人権と基本的自由と示されているように、先住民族の権利が、近代に成立して、現代国際人権法において確認、発展させられてきた自由と人権を基礎にしていることが判明する。第二は、平等の原則、差別からの自由であり、この点も近代法における法の下の平等と同じ土俵の議論である。女性差別、人種差別をはじめとするマイノリティ差別の禁止と同じことが、先住民族についても確認されている。第三は、自己決定権である。近代法においても自由・平等・独立の市民の自由と責任が配備されているのは、自己決定権の要請である。また、二〇世紀におけるウィルソン・レーニンによる人民の自己決定権、大西洋憲章や植民地独立付与宣言などに確認された自己決定権も同様である。

 このように見ると共通点が目立つと思われるかもしれないが、すでに以上の中に相違点が含まれている。「集団または個人として」「先住民族および個人」といった表現に明らかなように、個人だけの権利ではなく、集団の権利が確認されているからである。もともと個人の権利を基本としていた近代法が、人民の自己決定権以後は集団の権利をも内部に取り入れるようになってきた。先住民族の権利はまさに個人と集団の双方の権利として位置づけられている。集団の権利には、人民の自己決定権、平和的生存権、発展の権利などがあるが、先住民族の権利は特定の集団に関わる重要な権利概念である。

同化を強制されない権利

 NGOの市民外交センターによると、先住民族権利宣言は、準備過程の議論では次の九つの部分にわけられていたという。

①人権保障の原則――冒頭に紹介した三か条に続いて、先住民族権利宣言は多様な権利を掲げている。具体的な自治の権利(第四条)、国政への参加と独自な制度の維持(第五条)。

②民族的アイデンティティ全体に関する権利――生命、身体の自由と安全(第七条)、同化を強制されない権利(第八条)、共同体に属する権利(第九条)、強制移住の禁止(第一〇条)。

③文化・宗教・言語の権利――文化的伝統と慣習の権利(第一一条)、宗教的伝統と慣習の権利、遺骨の返還(第一二条)、歴史、言語、口承伝統など(第一三条)。

④教育・情報などの権利――教育の権利(第一四条)、教育と公共情報に対する権利、偏見と差別の除去(第一五条)、メディアに関する権利(第一六条)、労働権の平等と子どもの労働への特別措置(第一七条)。

⑤経済的社会的権利と参加の権利――意思決定への参加権と制度の維持(第一八条)、影響する立法・行政措置に対する合意(第一九条)、民族としての生存および発展の権利(第二〇条)、経済的・社会的条件の改善と特別措置(第二一条)、高齢者、女性、青年、子ども、障害のある人々などへの特別措置(第二二条)、発展の権利の行使(第二三条)、伝統医療と保健の権利(第二四条)。

 ⑥土地・領域(領土)・資源の権利――土地や領域、資源との精神的つながり(第二五条)、土地や領域、資源に対する権利(第二六条)、土地や資源、領域に関する権利の承認(第二七条)、土地や領域、資源の回復と補償を受ける権利(第二八条)、環境に対する権利(第二九条)。さらに、軍事活動の禁止(第三〇条)、遺産に対する知的財産権(第三一条)、土地や領域、資源に関する発展の権利と開発プロジェクトへの事前合意(第三二条)。

⑦自己決定権を行使する権利――アイデンティティと構成員決定の権利(第三三条)、慣習と制度を発展させ維持する権利(第三四条)、共同体に対する個人の責任(第三五条)、国境を越える権利(第三六条)、条約や協定の遵守と尊重(第三七条)

⑧実施と責任――国家の履行義務と法整備(第三八条)、財政的・技術的援助(第三九条)、権利侵害に対する救済(第四〇条)、国際機関の財政的・技術的援助(第四一条)、宣言の実効性のフォローアップ(第四二条)。

⑨国際法上の性格――最低基準の原則(第四三条)、男女平等(第四四条)、既存または将来の権利の留保(第四五条)、主権国家の領土保全と政治的統一、国際人権の尊重第(四六条)。

 このように先住民族権利宣言は、詳細な実体的権利のカタログに加えて、実施措置に関する規定も備えている。

日本政府は、国連総会における宣言採択に賛成投票をし、その後アイヌ民族を先住民族と認めたにもかかわらず、これらの権利を認めようとしない。二〇〇八年の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」、二〇〇九年七月、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告書、同年八月、「アイヌ総合政策室」(旧アイヌ政策推進室)設置、同年一二月には、「アイヌ政策推進会議」設置と続いているが、今のところ、北海道以外のアイヌ人口の調査や、象徴的施設の設置といった事項しか検討していない。

これではアイヌを先住民族と認めたといいながら、リップサービスにとどまっていて、レッテル詐欺といわれても仕方がない。自己決定権、伝統や慣習や言語の権利、教育やメディアの権利、土地や資源の権利、環境に対する権利など、宣言が規定する多様な権利の具体化が必要である。アイヌ民族の当事者性・主体性をしっかり確認して、本格的な協議を行なうべきである。

アイヌ先住民族の権利(1)

旅する平和学(34)

アイヌは先住民族

 二〇〇七年に国連総会で先住民族権利宣言が採択されて以後、日本政府のアイヌ民族に対する政策が大きく変化した。

 それ以前、アイヌ民族の代表や、いくつもの人権NGOが「アイヌは先住民族である」と指摘しても、日本政府は認めようとしなかった。人種差別撤廃委員会や、国連人権委員会において、「アイヌは典型的な先住民族ではないか」と指摘されても、日本政府は認めなかった。理由は「先住民族とは何かの国際法上の定義が定まっていないから、アイヌが先住民族か否かは判断できない」というものであった。およそ理由になっていない。日本政府の主張を認めると、先住民族と判断できる民族は世界のどこにもいないことになってしまう。これほど奇怪な主張をしてまでもアイヌの先住民族性を認めない日本政府の姿勢は実に頑なであった。

 国連先住民族権利宣言の採択にともなって状況が変化した。国家で、「アイヌが先住民族あることを認めるように求める決議」が採択された。これもおかしな話で、国権の最高機関である国会が「アイヌは先住民族である」と断定すればよかったのだが、なぜか行政府に「求める決議」であった。ともあれ、国会決議を受けて、日本政府もついにアイヌ民族を先住民族として認めた。

 もっとも、二〇一〇年二月二五日、人種差別撤廃委員会における日本政府報告書審査の席上、日本政府人権人道大使は「先住民族の国際法上の定義はない」などと発言して顰蹙を買っていた。どこまでも愚かな政府である。

 近代日本においてアイヌが先住民族となったのは、とりあえず、明治国家がアイヌモシリ(蝦夷地)を北海道と名づけて日本領土に組み入れ、和人の移住政策を開始したためである。移住政策は「屯田兵」という名前に明らかなように、開拓民でありつつ軍事的侵略の手先による。アイヌモシリを一方的に「国有地」とし、屯田兵に国有地を払い下げる方式が採用された。先住民族の土地に対する侵略である。

 アイヌ民族から見れば、和人による侵略はそれ以前からずっと続いていた。もっとも有名なシャクシャインの戦いは、一六六九年である。シベチャリ(北海道日高の新ひだか町静内)のチャシ(城)を拠点に、和人・松前藩の不公正な貿易やアイヌに対する差別に抗して起きた蜂起である。きっかけはアイヌ民族の内部対立の面もあったが、本質はアイヌ民族による対松前藩蜂起であった。

 シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に松前藩への蜂起を呼びかけ、日高、釧路、天塩など多くのアイヌ民族が呼応した。武器の格差や、アイヌ側の統率の乱れ、和人によるだまし討ちなどから、蜂起は失敗に終わった。これ以後、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の主導権を握った。同時に、アイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートを、いくぶん緩和するなど、和人に融和策もとらせた。

 一四五七年のコシャマインの戦いにおいても、アイヌ民族は和人による差別に抵抗し、武装闘争を敢行した。二百年後のシャクシャインの戦い、そして一七八九年のクナシリ・メナシの戦いと続く歴史は、和人による侵略と差別に対するアイヌ民族の抵抗戦争であった。アイヌ民族の抵抗を全面的に抑圧することになったのが、明治維新後の屯田兵であった。

 つまり、五百年の歴史をかけて先住民族アイヌが形成されたということになる。こう見ることによって、コロンブスに始まる近代西欧諸国による世界の植民地分割による先住民族の形成とパラレルに論じることが可能となる。明治以後の屯田兵だけを語るべきではないだろう。

先住民族権利宣言

 国連総会は、二〇〇七年九月一三日、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択した。この宣言は、先住民族に対する普遍的な人権宣言であり、歴史的、画期的なものである。先住民族が国際法の主体であると宣言された一九七七年から三〇年を経て、人権主体として確認された。国連先住民族作業部会が設置された一九八二年から二五年という長い年月をかけ、先住民族と政府の気の遠くなるような話し合いを経て採択されたのが、この宣言である。

国際人権法の端緒をつくりだした世界人権宣言は、後に二つの国際人権規約に練り上げられた。子どもの権利宣言から子どもの権利条約へ、人種差別撤廃宣言から人種差別撤廃条約へ、女性差別撤廃宣言から女性差別撤廃条約へ、拷問禁止宣言から拷問等禁止条約へ、障害者権利宣言から障害者権利条約へと、国際社会はまず基本的権利のカタログと基本思考を示す宣言をつくり、後にそれを条約にまとめ上げてきた。

その意味では、先住民族権利宣言も将来、先住民族権利条約となることが期待されるが、今はむしろ宣言の射程距離に注目するべきだろう。というのも、先住民族権利宣言は、子どもの権利宣言、拷問禁止宣言、人種差別撤廃宣言などとは大きく異なって、実に詳細な独自の権利条項を網羅しているからである。

 まず宣言の前文を見ていこう。一般的な国際文書の前文と同様に、先住民族権利宣言前文は、宣言採択に至るまでに形成されてきた歴史を確認している。

 出発点は言うまでもなく国連憲章である。そして「すべての民族が異なることへの権利、自らを異なると考える権利、および異なる者として尊重される権利」(第二段落)が確認される。先住民族権利宣言らしい規定である。「すべての民族が、人類の共同遺産を成す文明および文化の多様性ならびに豊かさに貢献すること」(第三段落)、「先住民族は、とりわけ、自らの植民地化とその土地、領域(領土)および資源の奪取の結果、歴史的な不正義によって苦しみ、したがって特に、自身のニーズ(必要性)と利益に従った発展に対する自らの権利を彼/女らが行使することを妨げられてきたこと」(第六段落)、「先住民族の政治的、経済的および社会的構造と、自らの文化、精神的伝統、歴史および哲学に由来するその生得の権利、特に土地、領域および資源に対する自らの権利を尊重し促進させる緊急の必要性」(第七段落)が確認される。

 続いて、「先住民族の知識、文化および伝統的慣行の尊重は、持続可能で衡平な発展と環境の適切な管理に寄与すること」(第一一段落)、「先住民族の土地および領域の非軍事化の、世界の諸国と諸民族の間の平和、経済的・社会的進歩と発展、理解、そして友好関係に対する貢献」(第一二段落)が強調される。

 そして、国連憲章、二つの国際人権規約、ならびにウィーン宣言・行動計画が、「すべての民族の自己決定の権利ならびにその権利に基づき、彼/女らが自らの政治的地位を自由に決定し、自らの経済的、社会的および文化的発展を自由に追求することの基本的な重要性を確認していること」(第一六段落)、「国家に対し、先住民族に適用される国際法文書の下での、特に人権に関連する文書に関するすべての義務を、関係する民族との協議と協力に従って、遵守しかつ効果的に履行すること」を述べている。

 前文を受けて、第一条以下に詳細な人権のカタログが列挙される。

日本のNGOとして、アイヌ民族や沖縄・琉球民族とともにこのプロセスに参加してきた市民外交センターがこの宣言の翻訳を行っている。さらに、市民外交センターブックレット『アイヌ民族の視点から見た「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の解説と利用法』二〇〇八年参照。

Saturday, November 13, 2010

先住民族権利宣言と日本

雑誌「統一評論」533号(2010年3月)

ヒューマン・ライツ再入門⑮

先住民族権利宣言と日本

歴史的宣言

 「先住民族は、集団または個人として、国際連合憲章、世界人権宣言および国際人権法に認められたすべての人権と基本的自由の十分な享受に対する権利を有する。」(第一条、集団および個人としての人権享有)

「先住民族および個人は、自由であり、かつ他のすべての民族および個人と平等であり、さらに、自らの権利の行使において、いかなる種類の差別からも、特にその先住民族としての出自あるいはアイデンティティ(帰属意識)に基づく差別からも自由である権利を有する。」(第二条、平等の原則、差別からの自由)

「先住民族は、自己決定の権利を有する。この権利に基づき、先住民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、ならびにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する。」(第三条、自己決定権)

国連総会は、二〇〇七年九月一三日、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択した。この宣言は、先住民族に対する普遍的な人権宣言であり、歴史的・画期的なものである。先住民族が国際法の主体であると宣言された一九七七年から三〇年、国連先住民族作業部会が設置された一九八二年から二五年という長い年月をかけ、先住民族と政府の気の遠くなるような話し合いを経て採択された。

日本のNGOとして、アイヌ民族や沖縄・琉球民族とともにこのプロセスに参加してきた市民外交センターがこの宣言の翻訳を行っている。宣言翻訳は市民外交センターのウェブサイト参照。さらに、市民外交センターブックレット『アイヌ民族の視点から見た「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の解説と利用法』二〇〇八年参照。

国際人権法の端緒をつくりだした世界人権宣言は、後に二つの国際人権規約に練り上げられた。子どもの権利宣言から子どもの権利条約へ、人種差別撤廃宣言から人種差別撤廃条約へ、女性差別撤廃宣言から女性差別撤廃条約へ、拷問禁止宣言から拷問等禁止条約へ、障害者権利宣言から障害者権利条約へと、国際社会はまず基本的権利のカタログと基本思考を示す宣言をつくり、後にそれを条約にまとめ上げてきた。

少数者権利宣言が後に少数者権利条約になるか否か定かではないし、先住民族権利宣言も将来において条約になるか否かはまだ明らかではない。しかし、右のような経過を経て採択された宣言だけあって、先住民族権利宣言は全部で四六条に及び、人権のカタログや基本思考については、すでにかなりの程度、熟した内容を持っているように見える。

市民外交センターの翻訳と資料によって、もう少し詳しく見ていこう。

宣言の思考

 一般的な国際文書の前文と同様に、先住民族権利宣言前文は、宣言採択に至るまでに形成されてきた基本思考を整理している。

 出発点は言うまでもなく国連憲章であり、「すべての民族が異なることへの権利、自らを異なると考える権利、および異なる者として尊重される権利」(第二段落)が確認される。先住民族権利宣言らしい規定である。「すべての民族が、人類の共同遺産を成す文明および文化の多様性ならびに豊かさに貢献すること」(第三段落)、「先住民族は、とりわけ、自らの植民地化とその土地、領域(領土)および資源の奪取の結果、歴史的な不正義によって苦しみ、したがって特に、自身のニーズ(必要性)と利益に従った発展に対する自らの権利を彼/女らが行使することを妨げられてきたこと」(第六段落)、「先住民族の政治的、経済的および社会的構造と、自らの文化、精神的伝統、歴史および哲学に由来するその生得の権利、特に土地、領域および資源に対する自らの権利を尊重し促進させる緊急の必要性」(第七段落)が確認される。

 続いて、「先住民族の知識、文化および伝統的慣行の尊重は、持続可能で衡平な発展と環境の適切な管理に寄与すること」(第一一段落)、「先住民族の土地および領域の非軍事化の、世界の諸国と諸民族の間の平和、経済的・社会的進歩と発展、理解、そして友好関係に対する貢献」(第一二段落)が強調される。

 そして、国連憲章、二つの国際人権規約、ならびにウィーン宣言・行動計画が、「すべての民族の自己決定の権利ならびにその権利に基づき、彼/女らが自らの政治的地位を自由に決定し、自らの経済的、社会的および文化的発展を自由に追求することの基本的な重要性を確認していること」(第一六段落)、「国家に対し、先住民族に適用される国際法文書の下での、特に人権に関連する文書に関するすべての義務を、関係する民族との協議と協力に従って、遵守しかつ効果的に履行すること」を述べている。

同化を強制されない権利

 宣言は、準備過程の議論では次の九つの部分にわけられていたという。

人権保障の原則(第一条~六条)

冒頭に紹介した三か条に続いて、先住民族権利宣言は多様な権利を掲げている。

 「先住民族は、その自己決定権の行使において、このような自治機能の財源を確保するための方法と手段を含めて、自らの内部的および地方的問題に関連する事柄における自律あるいは自治に対する権利を有する。」(第四条、自治の権利)

「先住民族は、国家の政治的、経済的、社会的および文化的生活に、彼/女らがそう選択すれば、完全に参加する権利を保持する一方、自らの独自の政治的、法的、経済的、社会的および文化的制度を維持しかつ強化する権利を有する。」(第五条、国政への参加と独自な制度の維持)

さらに第六条(国籍の権利)が続く。

民族的アイデンティティ全体に関する権利(第七条~一〇条)

第七条(生命、身体の自由と安全)に続く第八条は「同化」批判である。

1. 先住民族およびその個人は、強制的な同化または文化の破壊にさらされない権利を有する。

2. 国家は以下の行為について防止し、是正するための効果的な措置をとる:

(a) 独自の民族としての自らの一体性、その文化的価値観あるいは民族的アイデンティティ(帰属意識)を剥奪する目的または効果をもつあらゆる行為。

(b) 彼/女らからその土地、領域または資源を収奪する目的または効果をもつあらゆる行為。

(c)彼/女らの権利を侵害したり損なう目的または効果をもつあらゆる形態の強制的な住民移転。

(d) あらゆる形態の強制的な同化または統合。

(e) 彼/女らに対する人種的または民族的差別を助長または扇動する意図をもつあらゆる形態のプロパガンダ(デマ、うそ、偽りのニュースを含む広報宣伝)。」(第八条、同化を強制されない権利)

 そして第九条(共同体に属する権利)、第一〇条(強制移住の禁止)である。

③文化・宗教・言語の権利(第一一条~一三条)

第一一条(文化的伝統と慣習の権利)、第一二条(宗教的伝統と慣習の権利、遺骨の返還)、第一三条(歴史、言語、口承伝統など)である。

④教育・情報などの権利(第一四条~一七条)

第一四条(教育の権利)、第一五条(教育と公共情報に対する権利、偏見と差別の除去)、第一六条(メディアに関する権利)、第一七条(労働権の平等と子どもの労働への特別措置)。

⑤経済的社会的権利と参加の権利(第一八条~二四条)

第一八条(意思決定への参加権と制度の維持)、第一九条(影響する立法・行政措置に対する合意)、第二〇条(民族としての生存および発展の権利)、第二一条(経済的・社会的条件の改善と特別措置)、第二二条(高齢者、女性、青年、子ども、障害のある人々などへの特別措置)、第二三条(発展の権利の行使)、第二四条(伝統医療と保健の権利)が続く。

 ⑥土地・領域(領土)・資源の権利(第二五条~三二条)

 「先住民族は、自らが伝統的に所有もしくはその他の方法で占有または使用してきた土地、領域、水域および沿岸海域、その他の資源との自らの独特な精神的つながりを維持し、強化する権利を有し、これに関する未来の世代に対するその責任を保持する権利を有する。」(第二五条、土地や領域、資源との精神的つながり)

 第二六条(土地や領域、資源に対する権利)、第二七条(土地や資源、領域に関する権利の承認)、第二八条(土地や領域、資源の回復と補償を受ける権利)、第二九条(環境に対する権利)と続く。

 さらに、第三〇条(軍事活動の禁止)、第三一条(遺産に対する知的財産権)、第三二条(土地や領域、資源に関する発展の権利と開発プロジェクトへの事前合意)。

⑦自己決定権を行使する権利(第三三条~三七条)

第三三条(アイデンティティと構成員決定の権利)、第三四条(慣習と制度を発展させ維持する権利)、第三五条(共同体に対する個人の責任)、第三六条(国境を越える権利)、第三七条(条約や協定の遵守と尊重)

⑧実施と責任(第三八条~四二条)

第三八条(国家の履行義務と法整備)、第三九条(財政的・技術的援助)、第四〇条(権利侵害に対する救済)、第四一条(国際機関の財政的・技術的援助)、第四二条(宣言の実効性のフォローアップ)。

⑨国際法上の性格(第四三条~四六条)

第四三条(最低基準の原則)、第四四条(男女平等)、第四五条(既存または将来の権利の留保)、第四六条(主権国家の領土保全と政治的統一、国際人権の尊重)と続く。

日本への影響

宣言以後、アイヌ民族をめぐる動きが急速に展開している。

かつて日本政府はアイヌ民族の権利をなかなか認めようとしなかった。かつての「北海道旧土人保護法」は論外だが、アイヌ民族の運動によって前進をめざした「アイヌ文化保護法」も文化に関する法律であって、権利を認めるものではなかった。日本政府はアイヌ民族を先住民族として認めない発言を繰り返した。二〇〇一年の人種差別撤廃委員会でも、「先住民族の国際法上の概念が確立していないからアイヌ民族を先住民族といえるかどうか判断できない」といった逃げの姿勢であった。

人種差別撤廃委員会や、国連人権理事会の人種差別問題特別報告者は、アイヌ民族を先住民族と認めて、権利保障するよう勧告してきた。

頑なな日本政府だったが、最近は大きく様子が変化した。

先住民族権利宣言採択の翌〇八年六月、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を衆参両院が採択した。国会決議によって行政に対して、アイヌの先住民族性の認知を求めたのである。国権の最高機関である国会なのだから「アイヌ民族は先住民族である」と確認・決議すれば足りるのだが、従来の経緯から、行政に認定を「求める」という形になった。ともあれ大きな一歩を踏み出した。これが画期となった。

翌七月、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が設置された。三名の委員中、アイヌ民族委員が一名選ばれた。かつてアイヌ文化保護法制定前後の懇談会等にはアイヌ代表が選ばれなかった。大きな変化である。

有識者懇談会は、二〇〇九年七月、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告書を提出した。

そして、二〇〇九年八月、「アイヌ総合政策室」(旧アイヌ政策推進室)が設置された。

二〇〇九年一二月には、「アイヌ政策推進会議」が設置された。一四名の委員中、アイヌ民族委員は五名である。二〇一〇年一月、推進会議が活動を開始した。

このように先住民族権利宣言が採択されてから僅か三年で日本政府の姿勢は一大転換を遂げた。

こうした経過を、アイヌ民族の権利を求めて活動してきた市民外交センターの上村英明(恵泉女学園大学教授)は、先住民族権利宣言の精神から、そしてその延長に位置づけて評価する。有懇報告書は、「大和民族」史観からの脱却と植民地主義への反省につながるからである。現状と今後の課題を重ね合わせて次のように述べている(二〇一〇年一月三一日、東京・新川区民館における講演より)。

第一に、アイヌ民族の視点からの歴史枠組みの転換である。アイヌ民族に関する歴史を知ること、アイヌ民族の視点から歴史観を転換することである。

第二に、近代史の枠組みの転換である。日本はどうやって近代国家になったのか。こう問うことは、明治政府の責任(植民地化、制度的差別、強制同化政策)を浮かび上がらせる。また、日本はどうやって「民主主義国家」になったのか。ここでは戦後政府の責任(「単一民族国家」幻想)が問われる。基本に立ち返るならば、日本の植民地主義はどうなったかであり、非植民地化プロセスはいかに辿られたのかである。このことは日本政府に問われているだけではない。日本国民に問われている。

第三に、それでは「具体的政策」とは何か。国民の理解の促進(教育・啓発)、広義の文化に関する政策の推進(国連宣言の遵守という視点から)、推進体制の整備(審議会・行政窓口の設置、法制化など)がすすめられるべきである。

 遅ればせながらも、日本政府が転換を遂げた現在、課題は具体的政策の策定と履行であり、社会的差別の是正である。

 なお、先住民族権利宣言の射程は沖縄/琉球にも及ぶはずである。さらなる議論が必要である。

Tuesday, November 02, 2010

平和的生存権のグローバル化

「法と民主主義」452号(日本民主法律家協会、2010年10月)

平和的生存権のグローバル化

――国連人権理事会における議論

  今年のジュネーヴ(スイス)も涼しい快適な夏だった。

  レマン湖の大噴水が青空に突き刺さり、白煙となって舞い落ちる。たまにしか見えなかったが、モンブランの偉容が彼方に聳える。カルヴァンが暗躍した旧市街サンピエ-ル寺院のステンドグラスを堪能して、ジャン・ジャック・ルソー生家前のレストランで昼食をとる。モンレポ公園では地球環境保護の路上アートが人気だった。国連欧州本部(パレ・デ・ナシオン)正門前の平和広場の噴水の下を子どもたちがびしょ濡れになって駆け回る。夜は郊外の林の中の宿舎で布団をかぶってお休みだ。

  毎年八月はジュネーヴで過ごし、暑い日本に向けて「こっちは涼しいよ」と、嫌がらせのEメールを送るのを愉しみにしてきたが、今年は尋常ならざる猛暑だったので、本当に恨みを買う怖れがあるため、嫌がらせメールを控えざるを得なかった。

人権理事会諮問委員会で

  八月五日、筆者は、ジュネーヴの国連欧州本部で開催された国連人権理事会・諮問委員会第五会期で、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR)を代表して、発言した。発言趣旨は、次の通り。

  「人権理事会が諸人民の平和への権利の議論を始めたことを歓迎する。諸人民の平和への権利に関してNGOが提出した共同文書を支持する。日本では、二〇〇八年五月に9条世界会議を開催した。三三、〇〇〇人の参加者、海外ゲスト二〇〇名という大規模な会議で、日本国憲法9条が、軍縮と平和の文化の促進にとって重要であると決議した。9条は日本の法律だけでなく、世界各国の憲法に盛り込むべき平和条項である。二〇〇九年六月、コスタリカで同様の会議を開催し、9条とコスタリカ憲法12条の意義を再確認した。国連人権機関が、諸人民の平和への権利の個人的局面と集団的局面に着目して研究を続ける必要がある」。

  諮問委員会は、国連人権理事会(四七カ国の政府代表)のもとに設置された専門家委員会(一八人の専門家)である(註1)。かつての人権委員会のもとにあった人権小委員会と似た位置づけであるが、権限は弱体化されている。今回「諸人民の平和への権利」が、はじめて諮問委員会の議題となった。

  国際人権活動日本委員会(JWCHR、議長・鈴木亜英)は、一九九〇年代から、職場における思想・信条差別など、主に社会権に関連する人権問題を国連人権機関にアピールしてきた、国連NGO資格を保有するNGOである。不当解雇、賃金差別、男女昇格差別などを取り上げるとともに、歴史教科書問題、従軍慰安婦問題や朝鮮人に対する差別問題も取り上げてきた(註2)。

諮問委員会決議

 他に四つのNGOが発言した。中心的役割を果たしたのは、スペイン国際人権法協会(AEDIDH)である。五つのNGOは事前に相談して、発言が重複しないようにした。

  最初に、デヴィド・フェルナンデス・プヤナ(David Fernandez Puyana. AEDIDH)が、これまでの取り組みを踏まえて、人権理事会と諮問委員会の検討を通じて諸人民の平和への権利の概念内容を明確に規定し、国際文書を作るよう訴えた。プヤナは、キャンペーンを組織したAEDIDHの事務局メンバーである。

続いて、アルフレド・デ・ザヤス(Alfred de Zayas. 国際人権協会)が、平和への権利の射程の広さを強調して、すべての人権を支えるものとして人権体系に位置づける発言をした。デ・ザヤスはジュネーヴ大学名誉教授で、著名な人権研究者であり、国連人権機関でのNGO活動も豊富である。

ミシェル・モノー(Michel Monod. 国際友和会)は、テロとの闘いにふれ、テロ対策には戦争ではなく、平和への権利の定式化こそ重要と訴えた。モノーは「軍隊のないスイス」運動のメンバーで、以前から八月九日にジュネーヴの国連欧州本部正門前で長崎原爆追悼会を主催してきた。

次に筆者が発言し、最後にクリストフ・バルビー(Christoph Barbey. 国際良心・平和税)が、紛争解決の思想と方法としての平和への権利について述べた。バルビーは「軍隊のない国家二七カ国」の研究者で、二〇〇五年と二〇〇八年に講演のため来日経験がある。

  諮問委員会は作業グループを設置し、議論を行なった結果、決議を採択した(註3)。人民の平和への権利について、さらに議論する必要性を認めて、二〇一一年一月の第六会期で議論を続けることになった。

スペインNGOの挑戦

  これまでの経過を振り返ってみよう(註4)。

二〇〇六年一〇月、スペインの法律家たちが「平和への権利するルアルカ宣言」採択し、NGOが世界キャンペーンを始めた。国連人権理事会に持ち込んで、平和への権利の議論を巻き起こし、各国政府に要請行動を行い、二〇〇八年以後、関連する決議を獲得してきた。諸国・地域のNGOにも呼びかけた。キャンペーンの中心を担っているのはAEDIDHである(註5)。

二〇一〇年二月、今度は「ビルバオ宣言」採択した。ルアルカ・ビルバオ両宣言のヴィジョンは、平和とはすべての形態の暴力が存在しないことである。直接暴力(武力紛争)、構造的暴力(経済的社会的不平等の帰結、極貧、社会的排除)、文化的暴力である。法律的見地からは、平和とは国連憲章の基礎であり、世界人権宣言その他の人権文書の指導原理であり、平和そのものが人権と考えられるべきである。諸人民の平和への権利という表現は一九八四年の国連総会決議に由来する。

  NGOによるロビー活動の結果として、人権理事会は、二〇〇八年決議8/9と二〇〇九年決議11/4を採択し、平和への権利の研究を始めた。スペイン・グループは、二〇一〇年六月、ルアルカ・ビルバオ宣言を踏まえて「バルセロナ宣言」をまとめた。欧州やラテン・アメリカを中心に賛同NGOが続々と増えてきた。同月、人権理事会は決議14/3を採択し、さらに研究を続けることになった。以上の決議は、毎回賛成ほぼ三〇カ国、反対一三~一四カ国で採択されている(人権理事会は四七カ国で構成)。

二〇〇九年人権理決議

二〇〇九年六月一七日の人権理事会決議11/4は、次のように述べている(註6)。

われわれの惑星の諸人民は平和への聖なる権利を有し(第一項)、その権利保護はすべての諸国の基本的責務であり(第二項)、すべての者にすべての人権を促進保護するために平和が重要であることを強調し(第三項)、人間社会が富める者と貧しい者に分断され、発展した世界と発展途上の世界の間に溝があることが、平和や人権にとって主要な脅威となっていると強調し(第四項)、平和、安全、発展、人権が国連システムの柱石であることも強調し(第五項)、諸人民の平和への権利行使のために、各国の政策が、国際関係における戦争の脅威の廃絶、武力行使とその脅威の否認を要求することを強調し(第六項)、すべての諸国が、国際平和と安全の確立、維持、強化を促進すべきであることを確認し(第七項)、すべての諸国に国連憲章の諸原則と目的を尊重するよう促し(第八項)、すべての諸国に、国際紛争を平和的に解決し、国際平和と安全を維持するよう再確認し(第九項)、諸人民の平和への権利を実現するために平和のための教育が重要であることを強調し(第一〇項)、国連人権高等弁務官に、二〇一〇年二月までに諸人民の平和への権利に関するワークショップを開催して、この権利の内容と射程を明らかにし、この権利実現の重要性の認識を高めるための措置を提案し、各国に具体的な行動を提案するよう求め(第一一項)、その報告書を人権理事会に提出するよう要請し(第一二項)、各国にこの討論に注意を払い協力するように促し(第一三項)、この議論を継続的に行うことを決定した(第一四項)。

 賛成は三二カ国(アンゴラ、アルゼンチン、アゼルバイジャン、バーレーン、ボリヴィア、ブラジル、ブルキナファソ、カメルーン、チリ、中国、キューバ、ジブチ、エジプト、ガボン、ガーナ、インドネシア、ヨルダン、マダガスカル、マレーシア、モーリシャス、メキシコ、ニカラグア、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、カタール、ロシア、サウジアラビア、セネガル、南アフリカ、ウルグアイ、ザンビア)。

反対は一三カ国(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、オランダ、韓国、スロヴァキア、スロヴェニア、スイス、ウクライナ、イギリス)。棄権はインド。

 二〇〇九年決議に基づいて、同年一二月、ジュネーヴで人権高等弁務官事務所主催の平和への権利に関する専門家ワークショップが開催された。

二〇一〇年人権理決議

  二〇一〇年一七国連人権理事会決議14/3採択された(註7)投票結果は次の通りである。

  賛成は三一カ国(アンゴラ、アルゼンチン、バーレーン、バングラデシュ、ボリヴィア、ブラジル、ブルキナファソ、カメルーン、チリ、中国、キューバ、ジブチ、エジプト、ガボン、ガーナ、インドネシア、ヨルダン、マダガスカル、モーリシャス、メキシコ、ニカラグア、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、カタール、ロシア、サウジアラビア、セネガル、南アフリカ、ウルグアイ、ザンビア)。

  反対は一四カ国(ベルギー、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、フランス、ハンガリー、イタリア、日本、オランダ、ノルウェー、韓国、スロヴァキア、スロヴェニア、ウクライナ、イギリス、アメリカ)。棄権はインド。

 決議に反対しているのが、EU諸国、日本、アメリカであることに注目しておくべきである。現代世界における戦争勢力は誰なのか、民族自決権を踏み躙っているのは誰なのかを考えるためにも参考になる。アフガニスタンとイラクを見れば明らかなことだが。

  決議の主な内容は、二〇〇九年決議を踏襲したものである。わが地球の諸人民が聖なる平和への権利を持つことを確認し、平和への権利の履行の促進が各国の義務であるとし、平和への権利はすべての者のすべての人権にとって重要であるとし、平和・安全・発展・人権を国連システム内で統合することをめざし、国際平和と安全保障の維持・確立が全ての国家の責務であるとし、すべての国家が国連憲章に従って平和的手段で紛争を解決する義務があるとし、平和への権利の実現のために平和教育が重要であるとし、諮問委員会にこの問題について議論し報告書を提出するよう求め、二〇一一年の人権理事会で継続審議すると決めている。

 人権理事会が諮問委員会に報告書提出を求めたので、冒頭に紹介したように本年八月の諮問委員会で審議が行なわれた。

諸人民の平和への権利とは

  今回の議論の焦点の一つは、平和への権利を個人の権利と見るか、集団の権利と見るかである。冒頭に紹介したように、筆者は「国連人権機関が、諸人民の平和への権利の個人的局面と集団的局面に着目して研究を続ける必要がある」と述べた。これは、直前になってプヤナから依頼されたからである。

  というのも、六月の人権理事会で、アメリカ政府が「基本的人権は個人の権利であって、平和への権利を集団的権利と見るのは権利概念に反するから認められない」と発言した。これに対する反論をしておく必要がある。しかし、プヤナが用意していた発言では他の多くの論点に触れなければならない。時間的にも間に合わない(NGOの発言時間は僅か五分である)ので、筆者の発言に追加することにした。

  なるほど近代法のタテマエは、自由・平等・独立の個人が法主体として登場するのであり、思想信条の自由も表現の自由も個人がもつ基本的な自由と人権と理解されてきた。労働者の団結権や争議権をはじめとする社会権であっても、集団的権利としてではなく、原理的には個人が持つ権利とされている。

  他方、二〇世紀に登場した権利の中には、その性質上、集団的性格を有するものが散見される。人民の自決権はその典型である。植民地から独立して政治的経済的自治を獲得するのは、個人の権利ではなく、人民の権利とされてきた。人民の自決権を、近代的個人の人権と対比して捉えるべきではないとする理解もあるが、国際人権規約共通第一条第一項は、「すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」とし、第二項は「すべて人民は、互恵の原則に基づく国際的経済協力から生ずる義務及び国際法上の義務に違反しない限り、自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない」としている。

  また、環境権や発展の権利も、個人だけの権利として理解するには困難があり、むしろ一定の集団の権利であると理解されてきた。

  その意味では、国際人権法の分野では、個人的権利に加えて集団的権利が唱えられ、理論的検討を加えられてきたといってよい。

  これと同様に平和への権利も、単に個人を主体とする平和への権利ではなく、諸人民の平和への権利と理解するほうが自然であろう。

なお、「諸人民平和への権利right of peoples to peace、実質的「平和的生存権right to live in peaceとほぼじである日本国憲法前文は「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」としているので、単なる個人的権利ではない。権利の主体、具体的権利内容、前提となっている平和概念など、詳細については憲法学的な検討を要するが、ほぼ同じ内容を有するものと言ってよいだろう。

日本からの情報発信

  いよいよ「国連・諸人民の平和への権利宣言」の可能性が見えてきた。

  ところが、残念なことに、国連で諸人民の平和への権利が重要議題として審議されているのに、日本国憲法前文や9条があまり貢献していない。スペイン・グループは日本国憲法9条を知っている(全然守られていないことも)。しかし、日本の平和的生存権の議論をよく知らない。言葉の壁は大きい。この間の議論に加わってきた日本人もごく僅かだ。日本政府は断固反対を貫き、日本のマスメディアは報道しない。日本とは無関係に平和的生存権の議論が進むことになりかねない。

 この間、議論に加わってきたのは「国際民主法律家協会(IADL)/日本国際法律家協会(JALISA、会長・新倉修)」である。

例えば本年三月一九日、国連欧州本部会議室で、IADL主催のセミナー人民平和への権利促進」開催されたチャールズ・グレイブスインターナショナル・インターフェイスの司会のもと四本の報告があった

塩川頼男(IADL)「高度に発展した、しかし実は発展途上国における人民の平和への権利」は、日本国憲法に関する情報を提供するものであった。単に9条の宣伝をするだけではなく、表題に「高度に発展した、しかし実は発展途上国」とあるように、日本の現実を報告した。コリン・アーチャー(国際平和ビューロー)「発展のための軍縮」は、現代世界における軍事主義と軍拡が、政治・経済・社会・文化・環境に深刻な影響を与えていることから、軍縮の緊急必要性を指摘した。クリストフ・バルビー「軍隊のない国家平和憲法」は、世界の軍隊のない国家二七カ国のうち四カ国(リヒテンシュタイン、コスタリカ、キリバス、パナマ)にある平和憲法を紹介し、さまざまな平和憲法をいかに増やしていくかを語った。デヴィド・フェルナンデス・プヤナ「平和への権利の法典化」は、スペインNGOの努力の経過報告である。

 IADLはその後も同様の企画を続けている。

国連宣言を求めて

  憲法9条を世界に広める課題は、オーバービー氏の9条の会や9条連などの平和運動によって担われてきた。さらに、二〇〇八年には「9条世界会議」が開催された。こうした経験をもとに、今後の国際的議論に日本からも加わっていく必要がある。

例えば、二〇〇八年四月一七日のイラク自衛隊派遣違憲訴訟名古屋高裁判決は、平和的生存権の具体的権利性を認めた公文書である。おそらく世界史上画期的な文書のはずだから、国連に報告していく必要がある(註8)。

一九七三年九月七日の長沼訴訟一審札幌地裁・福島判決も、燦然と輝く記念碑的判決だ。

これらの判決を、核兵器投下の違法性に関する原爆訴訟東京地裁下田判決と同様に世界に広める必要がある。

  今後のスケジュールは、本年一二月一〇日頃、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ会議が予定されている。そして二〇一一年一月中旬に、ジュネーヴでの国連人権理事会・諮問委員会第六会期、同年三月、人権理事会第一六会期で議論が続く。日本の法律家による組織的な対応が求められる。

(1)国連人権理事会の組織と権限については、戸塚悦朗『国連人権理事会』(日本評論社、二〇〇九年)。

(2)JWCHRのウェブサイトhttp://jwchr.s59.xrea.com/

(3)Advisory Committee 5/2. Drafting group on promotion of the right of peoples to peace.

(4)経過につき、前田朗「平和的生存権の国際的な展開」救援』四九三号(二〇一〇年)参照。なお、前田朗「レマン湖の平和的生存権」『青法協東京支部ニュース』九二号(二〇一〇年)、同「いま平和的生存権が旬だ!」『アジア記者クラブ通信』二一八号(二〇一〇年)、同「平和的生存権国連宣言を!」『9条連ニュース』二〇一〇年一〇月号(予定)。本稿は、これらを再構成し、加筆したものである。

(5)AEDIDHのウェブサイトhttp://www.aedidh.org

(6)二〇〇九年人権理事会決議A/HRC/RES/11/4.

7二〇一〇年人権理事会決議A/HRC/RES/14/3.

(8)韓国における平和的生存権の議論について、張慶旭「平和的生存権の意義」「歴史認識と東アジアの平和」フォーラム・東京会議編『東アジアの歴史認識と平和をつくる力』(日本評論社、二〇一〇年)参照。