中村泰行『大江健三郎――文学の軌跡』(新日本出版社、1995年)
1991年に『文化評論』に連載された評論を基に、大江がノーベル賞を受賞した直後に加筆して1冊にまとめたものである。第1の特徴は、民主主義文学論としての大江文学の検討であり、戦後民主主義的なものを半ば継承しながら、常にそれとは異なるベクトルも有していた大江文学を解析することで、大江批評であると同時に民主主義文学の発展を目指した批評である。第2の特徴は、1995年段階での大江の主要作品をすべて取り上げて分析し、大江の軌跡を追跡している。第3の特徴は、38年間の大江文学の前半に影響を与えた実存主義、(1995年時点での)後半に影響を与えた構造主義を批判的に問う。著者の関心は「はじめに」に次のように示されている。「社会評論における明確な戦後民主主義擁護の姿勢が、その作品世界には必ずしも貫かれておらず、読者を出口の定かでない混迷の中に引き入れ、その難解さにとまどわせてしまう場合が多いのだが、それはなぜだろうかという疑問である」。この問題意識に従って著者は大江文学を見事に分析する。つまり、前期の大江における実存主義と民主主義の相克または齟齬を鮮やかに指摘する。同様に、後期の大江における構造主義と民主主義の相克または齟齬を鋭く突く。大江の人間観や世界観がつねに矛盾し、引き裂かれているように見えるのは、実存主義や構造主義といった非合理主義」に影響を受けたためであると言う。それゆえ、生涯を持って生まれた息子との共生の課題にしても、核兵器廃絶の課題にしても、民主主義的運動によってではなく、実存的な賭けや虚無、構造主義的な「神話」への逃避によって彩色されてしまい、大江はこれらを統合することに失敗し続けたことになる。著者は最後に次のように筆をおく。「大江が小説家として『このまま』終わるのではなく、戦後民主主義者の信念を一貫させることによって『大きな問題』を解決し、『最後の小説』として真にふさわしい作品を書きあげることを期待するゆえんである。」ここで「最後の小説」というのは、大江自身が当時『最後の小説と唱えていたものであり、1995年段階では『燃え上がる緑の木』3部作をさすが、著者は、これが大江の「最後の小説」にふさわしいとはいえないと批判し、大江が本当の「最後の小説」に挑むことを期待している。民主主義文学論の立場からの大江批判は当たっていると思う。ただ、それが「批判」として意味を持つのは戦後民主主義と民主主義文学を全面肯定する立場に立った者にとってだけであることも否定できない。第1に、日本国憲法に内在する天皇制をどう考えるかは別論である。第2に、戦後民主主義はアメリカの作為によるものであり、日米安保や核の傘を民主主義論だけで超えられるかどうか。第3に、民主主義文学が大江文学の水準に到達するどころか、遥かに遠望することしか出来ないのはなぜか。そして、第4に、民主主義と実存主義又は構造主義の矛盾をそのまま作品世界に取りこんだことを著者のように裁断すればすむのだろうか。本書以後の大江文学の歩みを著者がどのように分析しているのか、大いに知りたいところだ。