大江健三郎『持続する志』(文藝春秋、1968年)
1965年の『厳粛な綱渡り』に続く「全エッセイ集第二」である。第一部「あらためて戦後的なるものについて」では、紀元節、憲法9条、戦後体験について問う。第二部「『ヒロシマ・ノート』以後とわれわれにとって沖縄とはなにか」では、被爆者の自己救済運動、原民喜、沖縄の戦後世代、核基地に生きることの意味が語られる。第三部「政治的想像力」では、「期待される人間像」批判、アメリカのイメージ、民衆の虚像に焦点があてられる。第四部「文学と文学者」では、大岡昇平、安部公房、井上光晴、中野重治、野間宏、井伏鱒二などを論じるとともに、自作についてコメントしている。第五部「維新にむかって、また維新百年後の今日の状況についての観察的なコラム」では、東京オリンピック、明治維新百周年などにかかわっての日本論が収められている。
お茶の水にあった大学図書館の開架式書庫で『厳粛な綱渡り』に続いて読んだが、当時の関心は第四部に集中していたと思う。実際には安倍公房『砂の女』と野間宏の『暗い絵』『真空地帯』を文庫本で読んだだけだったし、当時の私の知識ではそれらを読みこなすこともできていなかった。まして、大岡昇平や井上光晴を読んでいなかった。後に大江健三郎『同時代としての戦後』(講談社)を導きの糸として戦後文学を読み直すことになった。大江健三郎を経由して戦後文学に向かう読み方をした人は当時他にも多かったのではないだろうか。
今回ざっと読みなおして、当時はさして関心を持たなかったエッセイに一番目を奪われた。「『危険な思想家』と卑しい思想家」という短いエッセイである。「戦後を殺そうとするものたちを告発した」山田宗睦『危険な思想家』を素材にした文章であるが、「むしろ安全な思想家とは、その本来の機能を衰弱させた、つまらない、いわば死にかけている、そういう思想家であろう」とし、「もしぼくが、だれかを告発するとしたら、ぼくは危険なという形容詞のかわりに卑しいという言葉を用いるだろう。その時はじめて、評論は、より危険な衝撃力をもつであろう」という。大江は恩師・渡辺一夫に依拠して、カルヴァンとカステリヨンの逸話を紹介する。「危険な思想家」とされた「安全な思想家」カステリヨンが追放され、不遇の死を迎えたのはなぜか。
エッセイから半世紀、大江はまさに「危険な思想家」の役割を引き受けて、「卑しい思想家」を告発してきた。声高にではなく、静かに、遠回しに、時に諧謔的に。今日でも、沖縄戦における集団死をめぐる裁判で、稚拙な誤読を重ねて大江を非難してきた曽野綾子や、それに引きずられて大江を非難した歴史修正主義者たちがいる。彼らは思想家でもなんでもないから、「卑しい思想家」には当たらないのだろうか。福島第一原発事故にもかかわらず、被災者の安全と回復など考慮せず、放射性廃棄物の処理も考えず、金もうけのために原発再稼働をすすめようとする政治家や企業人がいる。彼らもおよそ思想家ではないので、論じるに値しない。とすると、告発するべき「危険な思想家」はどこにいるのだろうか。残念なことに、弾劾するべき危険な思想家がどこにもいないのではないだろうか。権力に奉仕する卑しい思想家ばかりのこの国には。