Tuesday, April 09, 2019

桐山襲を読む(4)叛逆の叙情詩はどこへ行くか


桐山襲『スターバト・マーテル』(河出書房新社、1986年[河出文庫、1991年]


連合赤軍事件から12年後の山荘に住む32歳の女性の記憶と夢のあわいで起きる、よみがえった革命戦士達との出会い。

山岳ベースに至る途上で死骸を埋め隠した場所で、12年後に発見された8個の<穴>。

――私とその友人達が、ある夜、語り継いだ物語は、連合赤軍事件から12年後の「現在」における鎮魂の「スターバト・マーテル(たたずめる聖母、悲しみの聖母)」。

表題作で、桐山は連合赤軍事件による悲劇の受難者たちをモデルに、時代の混迷と悲哀を描く。陰惨な叙事詩ではなく、叛逆の叙情詩を送り出した桐山への批評が分かれたようだ。例えば菅野昭正のように、叙情詩よりも叙事詩をこそ描くべきだとする文芸批評もあったからだ。

なるほど正しい。だが、桐山が、なぜ、叙情に固執したのか、その理由こそ重要だ。


韓国の移動サーカス団を舞台とする「旅芸人」で、桐山は、団長、小人、占い女、火男、歌手、息子たちの生きられなかった生を通じて、権力と抵抗の火花を描く。


最終作「地下鉄の昭和」で、桐山は読者を靖国神社に誘う。登場人物は2人。1人は上品な小豆色のお召しを来た女で、夫は魚雷攻撃のため溺死し、あの戦争から帰ってこなかった。もう1人は、決戦を目前としての玉音、敗戦によって時間が止まってしまった元隊長。互いに見知らぬ2人は、出会うこともなく、それぞれが地下鉄の乗客として靖国へ向かう。「<昭和>という時代の中で完璧に疲れ果てた一対の老夫婦のように」。

「それというのも、天皇のために死んだ者たちは必ずその場所に集まるものであると、彼らが繰り返し教えられていたからだった。実際、もしも天皇が死者たちを祀らなかったならば、そこは首都の中の単に殺風景なだけの広場であるにすぎなかった。」


<昭和>という鬼胎が私たちの眼前に提出した天皇制、靖国神社、戦争、植民地・朝鮮、連合赤軍事件という一連の地獄図絵に、叛逆のレクイエムを。