イブラム・X・ケンディ『アンチレイシストであるためには』(辰巳出版、2021年)
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著者は1982年、ニューヨーク州生まれである。90年代にサウスサイド・クイーンズで少年時代を過ごし、ヒップホップカルチャーを全身に浴びて育った。黒人文化の代表格とされるヒップホップは「とりわけ垢抜けていて芸術的にも成熟している」と感じるか、「下品な言葉で悪影響が生じる」と感じるか。文化レイシズムの問いを身をもって生きたとも言える。
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第1章で著者は基本的立場を打ち出す。さまざまな人種的不公平を生み出し、維持するためのあらゆる手段がレイシズムポリシーであり、これに対してアンチレイシズムポリシーとは、人種的公平を生み出し、維持するためのあらゆる手段になる。著者は「非レイシズム」のポリシーや、「人種中立的」なポリシーは存在しないという。ただし、人種差別ばかりに目を向けるとレイシズムの中心にあるものが見えなくなるという。中心にあるものとは権力であり、レイシズムパワーである(第3章)。
第2章「引き裂かれる心」で著者は、黒人がしばしば経験する葛藤に言及する。黒人でありたいという思いと、アイルランド人のようにアメリカ人のなかにまぎれこみたいという思いである。アンチレイシズムと同化主義の葛藤である。同化主義はレイシズムであり、それゆえレイシズムとアンチレイシズムの間で揺れ動く心に悩むことになる。「黒人の自立の問題は両刃の剣」である。白人にも分離主義と同化主義の対立がある。そして「白人のほうが優位な社会にあって、白人の内なる対立意識は、黒人の内なる対立意識に大きな影響を及ぼした」。アンチレイシストになるためには、この対立意識から解放される必要がある。
第3章で、人種とは権力がつくり出した幻想であるという。定義としては「権力が、さまざま集団に見られる違いを、集約あるいは融合することでつくりあげた概念」となる。このことを著者は植民地支配と奴隷制の歴史の中で形成された人種概念にさかのぼって検証する。そして「レイシズムポリシーの背後には経済的、政治的、文化的に強い私利私欲――ポルトガル王室や奴隷商人の場合は昔ながらの富の蓄積――がある。ズラーラの系譜につらなる有力で狡猾な知識人たちは、その時代のレイシズムポリシーを正当化するためにレイシズム思想を生み出し、その時代に存在した『人種的不公平』はポリシーではなく特定の人々のせいだと責任転嫁してきた」。
人種は幻想にすぎない、あるいは人種というものは存在しないということは、欧州でもずっと以前から語られてきた。存在しないにもかかわらず、その社会の中で何らかの理由で、つまり利益不利益の関係構造の中で人種概念はつくられる。ここでは人種が存在するか否かは本当の問題ではない。あらゆる差異が利用される。民族、言語、宗教、皮膚の色、容貌、社会的地位、世系・出身、性別、性的アイデンティティ、あらゆる差異を基に集団が作られ、差別が始まる。
いったんつくられると、人種概念は猛威を振るう。あらゆる法、制度、政策、規則、ガイドライン、文化が、優越者の利益に奉仕するように仕向けられる。レイシズムの機能をもっとも活性化させるのが、中立幻想である。「私はレイシストではない」と言いながら、中立であるかのごとく振舞い、結果としてレイシズムを放置する。差別を容認し、維持する。「私はレイシストではない」はレイシストの仮装の抗弁にすぎないことが多い。「私はアンチレイシストである」と立場を明確にするべき理由はここにある。
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この議論は、中立公平のふりをする日本の憲法学がヘイト・スピーチを擁護する時に、同じメカニズムが作動していることを教えてくれる。憲法学は、表現の内容と形式を恣意的に分離し、「表現内容中立規制は許されるが、表現内容規制は許されない」とし、「ヘイト・スピーチの規制は表現内容規制だから許されない」と言う。日本国憲法を無視して、差別と差別表現を守るためならどんな理屈でも持ち出す。「私はレイシストではない」ふりをするが、アンチレイシズムに対して猛烈な批判を繰り返す。