Wednesday, April 14, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(171c)憲法と憲法学との微妙な関係(3)

榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)

憲法と憲法学との微妙な関係についてもう少し考えたい。換言すると、日本憲法学は日本国憲法を基に議論しているのか、という論点である。

先に書いた第1の論点は榎論文の「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」における、憲法と条約(国際法)の関係をいかに理解するかであった。

だが、それ以上に気になるのは、憲法解釈方法論である。憲法解釈に当たって、私が重視するのは次の4つである。言うまでもないが優先順である。

    日本国憲法(前文及び各条文)

    確立した判例

    日本が批准した国際条約

    慣習国際法

ここには比較法的知見、外国法情報は含まれない。

私は世界150カ国のヘイト・スピーチ法制定状況を紹介してきた。これを「前田は世界150カ国でヘイト・スピーチを処罰するから日本も処罰するべきだと主張している」と誤解する論者が少なくない。私はそうした主張をしていない。

ヘイト・スピーチの議論において、私は比較法研究や外国法研究にはあまり関心を持っていない。私が世界各国の状況を紹介してきたのは、③の国際条約、及び④の慣習国際法への関心であり、国際法の「実行例」を確認するためである。比較法や外国法研究にはその限りでしか関心がない。

榎はどうであろうか。前回見たように、榎は①日本国憲法前文、第12条、第13条、第14条に関心を示さない。そして、憲法第21条を「マジョリティの表現の自由の優越性」として位置付けているように見える。

榎は②最高裁判例を批判し、それとは異なる法理を唱える。

榎は③の国際条約、及び④の慣習国際法については、榎が考える日本国憲法に抵触しない限りでこれを認める。つまり、重視しない。日本国憲法に抵触しない限りで認めること自体は、私も賛成である。

そして、榎が重要視するのは、アメリカ法(憲法及び判例)である。榎のヘイト・スピーチに関する旧論文はアメリカ判例研究であった。本論文は日本の状況を検討しているが、その中でも前回引用したように、「これに対して、判例はアメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理を用いていないので、日本のヘイト・スピーチ規制を考えるうえで考慮する必要はないとの指摘があるかもしれない。」と述べる。この文章は短いが、榎の他の論文等を読んだ者には、榎は「アメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理」を参照するべきだと主張していることが明白である。

榎に限らず、日本憲法学の主流は、表現の自由についてはアメリカ法研究が圧倒的に多く、しかもアメリカの判例法理を日本国憲法第21条の解釈に直接持ち込んできた。イギリス、フランス、ドイツ法の研究も見られるが、圧倒的多くがアメリカ法研究である。しかも、単に紹介するのではなく、「アメリカ判例法理を適用せよと主張してきた」と言って良い。榎はアメリカ法を適用せよとは言わないが、アメリカの法理を紹介して、これを参照するべきだと言う。実際には、榎はもっぱら「アメリカ法だけを参照するべきだ」と主張してきたと言える。少なくとも、榎はアメリカ法以外を参照すべきだとは主張しない。

榎に限らず、日本憲法学の主流は、憲法第1条の解釈においてアメリカ法を研究しない。同様に憲法第9条の解釈においても、憲法第10条でも、第25条でも、第41条でも、第65条でも、第92条でも、アメリカ法を参照しない。ところが、第21条だけは絶対的にアメリカ法を参照するべきだと主張する。アメリカの判例であるブランデンバーグ法理を直接採用するように唱える論文がいくつも書かれてきた。世界でもまれに見る極端なアメリカ絶対主義であり、属国主義である。

アメリカ憲法の表現の自由と日本国憲法の表現の自由が同じ条文であるのなら、まだわからないでもないが、両者に類似性はない。日本国憲法の表現の自由の規定上の特徴は欧州諸国の憲法の表現の自由規定により近いし、国際人権規約と同じ構造を持っている。しかし、日本憲法学の主流は、理由を示すことなく(理由を示す必要があるなどと考えるまでもなく)ひたすらアメリカ法理を参照する。

日本の法学研究はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスをはじめとする諸外国の法制・判例・法学説の研究に力を注いできた。その成果は大きなものがあったし、今後もそれは続くだろう。その意義は私も認める。外国法情報が適時に多く紹介されるのは良いことだ。

しかし、憲法解釈に当たって重視するべき順序は次のように考えるべきであろう。

①日本国憲法(前文及び各条文)

②確立した判例

③日本が批准した国際条約

慣習国際法

諸外国の法制・判例

私は法解釈に当たって①②が最重要であり、必要に応じて③④を参照するべきだが、⑤はごくごく軽い参考にとどめるべきだと考える。

⑤が③④よりも優先する理由はないだろう。憲法前文は国際協調主義を強く押し出しているうえ、憲法第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と表現して、国際社会が形成・獲得してきた人権の重要性を明示している。そのうえで、憲法第98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」としている。

これに対して、榎は、前回すでに明らかにした通り、①日本国憲法(前文、第12条、第13条、第14条)を度外視し、②最高裁判例(公共の福祉論)を批判し、③④を重視せず、⑤のうちアメリカの判例法理を最重要視する。イギリスやフランスやドイツには言及しない。

榎は「憲法の規定を基準に規制の是非を判断している」と述べるが、憲法第21条の規定を根拠にしない。榎が基準として持ち出すのは、「アメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理」である。榎はこれを直接適用するとは言っていないが、憲法解釈の基準として参照するべきとしている。榎は「憲法の規定を基準に規制の是非を判断」せず、「憲法の規定を<アメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理>に置き換えている」のではないだろうか。

アメリカ判例法理を研究し、それを参照することを私は批判しない。明白かつ現在の危険の基準やブランデンバーグ法理を私は批判しない。

私が疑問を抱くのは、①日本国憲法(前文、第12条、第13条、第14条)を度外視し、最高裁判例(公共の福祉論)を批判し、③④を重視せず、のうちアメリカの判例法理を最重要視する方法論である。

余談だが、ついでに書いておくと、私は国連人権理事会や人種差別撤廃委員会などの国際人権法の紹介をしてきたが、それが私の主たる仕事ではない。私がこの四半世紀、主として取り組んできたのは、日本の状況を国連人権理事会や人種差別撤廃委員会に紹介することであった。それが主たる目的であり、主たる仕事であった。その結果として、国際人権法を日本に紹介する作業も行ってきた。日本の情報を国連に報告してきた。

日本憲法学の主流は、アメリカ法理の輸入に邁進してきたが、日本法の紹介・輸出にもっと精を出してはどうだろうか。いまや世界中の法状況がオンラインで繋がり始めている。アメリカ法の紹介は、大勢の専門研究者が取り組むまでもないのではないか。日本の法理をアメリカに輸出することこそ有意義な仕事になるのではないだろうか。