Tuesday, February 01, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答c

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

根本は次のように述べる。

「さらに前田朗は、ヘイトスピーチも含めて表現の自由の規制には「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し、直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」(根本論文7374頁)

「わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現というカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。」(根本論文74頁)

これが私への批判として書かれているのは、根本が「表現の自由について議論する場合はアメリカ法の考え方に従わなければならない。アメリカ法からの離脱など許されざる事態である」と信じているからである。

これは「学問」だろうか、「信仰」だろうか。根本に限らず、憲法学者の中には同様の信仰の持ち主が少なくないように思える。表現の自由の大切さを強調するのは理解できるが、その方法には疑問が少なくない。

1に、日本国憲法の解釈をするのに、日本国憲法第21条に言及することさえしない。条文の引用もしない。

根本が論及するのは、アメリカのRAV判決やブラック判決やブランデンバーグ判決である。その実質的根拠は「周知のとおり、日本国憲法制定以来、わが国の憲法学はアメリカ法の影響の下にある」(根本論文59頁)と示される。これは事実である。

しかし、「憲法学はアメリカ法の影響の下にある」ことが、「憲法がアメリカ憲法と同じである。同じ解釈を採用するべきである」ことになるだろうか。現に表現の自由に関する憲法学多数説は、最高裁判例にあまり(又はほとんど)採用されていないのではないか。70年以上にわたって判例に採用されたことのない独自の理論と言うべきだろう。憲法学は精緻な優れた理論を積み上げてきたかもしれないが、日本の現実と切り結んでいない。独自の理論をいくら唱えても、憲法の条文を書き換えることはできないし、判例に採用される可能性も低くなる一方ではないだろうか。

2に、表現の自由に関する憲法学多数説は、日本国憲法の体系的合理的解釈を排斥する。それゆえ、憲法前文、第12条、第13条、第14条にも言及しない。

根本は「まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(根本論文74頁)という。

憲法第14条の法の下の平等の「趣旨を反映」させることに明確に敵意を表明する。

3に、表現の自由に言及するが、表現の「責任」には言及しない。表現の責任を論じるべき日本国憲法第12条は次の通りである。

憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

憲法第21条の表現の自由の行使にも「責任」が伴うのは当然である。ところが、多くの憲法学者の憲法教科書では表現の自由について数十頁の記述がなされているにもかかわらず、「表現の責任」については一切言及がない。憲法教科書を10冊以上チェックしたが、表現の責任という言葉さえ登場しない。

私は長年「表現の自由と責任」を唱えてきた(前田朗『メディアと市民――責任なき表現の自由が社会を破壊する』(彩流社、2018年)。

根本は表現の自由を繰り返す一方で、表現の責任に沈黙するのはなぜなのだろうか。

日本国憲法の下でヘイト・スピーチについてどのように考えるべきか。私の『序説』『原論』『要綱』の3冊の冒頭「はしがき」の最初の一段落は全て同じである。

「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを刑事規制する。それが日本国憲法の基本精神に従った正当な解釈である。国際人権法もヘイト・スピーチ規制を要請している。ヘイト・スピーチ処罰は国際社会の常識である――本書は以上の結論の前提となる基礎情報を紹介することを主要な課題とする。」

そして、『要綱』では次のように書いた。

「憲法解釈に当たって重視するべき順序は次のように考えるべきであろう。①日本国憲法(前文及び各条文)、②確立した判例、③日本が批准した国際条約、④慣習国際法。

⑤比較法(諸外国の法制・判例を参照すること)は思考の発展にとって重要であるが、その限度でしかないだろう。法解釈に当たって①②が最重要であり、必要に応じて③④を参照するべきだが、比較法は軽い参考にとどめるべきだ。比較法が③④よりも優先する理由はない。憲法前文は国際協調主義を強く押し出しているうえ、憲法第九七条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と表現して、国際社会が形成・獲得してきた人権の重要性を明示している。その上で憲法第九八条二項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」としている。」(『要綱』121頁)

日本国憲法第21条を解釈する際に参照するべきは、憲法第21条の条文とともに、

  日本国憲法(前文及び各条文):第12条、第13条、第14

  確立した判例

  日本が批准した国際条約

  慣習国際法。

以上の順で参照するべきである(ここでは「法源」を論じているわけではない)。

  比較法(諸外国の法制・判例を参照すること)は、その後(論理的に後)である。

ところが、少なからぬ憲法学者がこうは考えない。憲法学者は、次のように考えるようだ。

  日本国憲法(前文及び各条文)は無視又は軽視する。

  確立した判例に従わない。

  日本が批准した国際条約に論及しない。一部の論者は人種差別撤廃条約第4条に言及するが、「日本政府が条約第4(a)(b)の適用に留保を付した」ことに賛成する。

  慣習国際法に論及しない。

  比較法のうち、ドイツ法やフランス法その他百数十カ国の法と法学は無視する。一部の論者だけがドイツ法、フランス法、カナダ法の詳細な研究を進めているが。

  比較法のうち、アメリカ法だけを絶対化する。

 アメリカ憲法の表現の自由と日本国憲法の表現の自由が同じ条文であるのなら、まだわからないでもないが、両者に類似性はない。アメリカ憲法修正第1条と日本国憲法第21条は似ても似つかぬ条文形式である。

日本国憲法第21条と第12条をセットにしてみれば(つまり表現の自由と責任)、日本国憲法の表現の自由の規定上の特徴は欧州諸国の憲法の表現の自由規定に類似する。また国際人権規約(市民的政治的権利に関する国際規約第192項と193項)と同じ構造を持っている。

さらに興味深いことに、憲法学がアメリカ法を絶対視するのは、表現の自由の時だけである。

「憲法学は憲法第一条の解釈においてアメリカ法を研究しない。同様に憲法第九条の解釈においても、憲法第一〇条、第二五条、第四一条、第六五条、第九二条でもアメリカ法を参照しない。ところが第二一条だけは絶対にアメリカ法だけを参照するべきだと主張する。ブランデンバーグ法理を直接採用するように唱える驚愕の論文が書かれてきた。世界でもまれに見る極端なアメリカ絶対主義であり、属国主義である。」(『要綱』120頁)

 憲法学が方法論について何を考えているのかがよくわかる。体系的な整合性・一貫性を一切考えない点では見事に一貫している。方法も時と気分で自在に変える。「学問」ではなく「信仰」ではないかと疑われてもやむを得ないのではないか。