Friday, September 06, 2013
ベルン歴史博物館散歩
ベルン出身の画家アルベルト・アンカーがベルン市民の日常を作品に描いたキルヒェンフェルト橋を渡るとヘルヴェティア広場に出る。右にアルプス博物館、左に美術ホールがあり、正面にベルン歴史博物館がある。古城を思わせるつくりの博物館、のはずが、すっかり様変わりしていた。元からの建物の前に、白くてモダンな増築がなされていて、入口受付、売店、レストランになっていた。変わりように驚いたが、元の建物の前部に増築したもので、元の建物自体は残っている。この夏、ベルン歴史博物館は秦の始皇帝の展示だった。ベルン市内に「QIN」というポスターが大々的に張り出してあって、いった何かと思ったら秦の始皇帝Qin Shi Huang(紀元前259~210年)のようだ。展示は「始皇帝陵及び兵馬俑坑」で、始皇帝陵からの出土品だ。始皇帝の治績の解説はあまり多くなく、ひたすら世界遺産の出土品の凄さを体感させる展示だ。たぶん、日本でも展覧会が行われただろうが、見ていないので、ベルンでじっくりと見た。本来なら8000人が殉死するところを、8000体の人物像や兵馬俑を制作し、埋葬したスケールの大きさには驚嘆するしかない。紀元前3世紀にこれほどまでのスケールの墳墓を造営した文化の重みを痛感する。ベルン歴史博物館には、他にも常設展として、アジアの文物、ベルン地域の考古学、アインシュタイン博物館(アインシュタインはベルンの特許庁に勤務していたので、住んでいた建物は街中にあり、いまはアインシュタイン記念館となっている。歴史博物館には別途、展示がある)などがある。始皇帝展を見に来た家族連れが、他の展示も見ていた。ベルンで思いがけない中国史の勉強だった。
Wednesday, September 04, 2013
古代史のなぞ:継体天皇とは誰か
水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』(文春新書)
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古代史ファンには、邪馬台国、応神・仁徳などいくつもの謎があり、論争があり、楽しい研究が続いているが、継体天皇も楽しめる謎だ。どう考えても、王朝が交替しているので、大和で何があったのか、越前の継体がなぜ天皇になれたのか、どんな人物だったのか、は昔からよく議論されてきた。古代文献史学では論じつくされたことだが、禁煙は考古学の進展により新たな発見、新たな論点が次々と登場している。本書でも、もともと文献史学研究者の著者が、考古学研究の成果を渉猟し、文献史学と考古学研究の総合を図っている。いまや古代史研究は文献史学だけではどうにもならない。著者は、仁徳系王統はほろんだとし、その理由を単に男子継承者が生まれなかったことだけではなく、経済力や国際関係の中で検討する。王統のライバルだけではなく、大和の豪族たちの盛衰(葛城、平群、大伴、物部、蘇我など)、そして越前の豪族や九州の豪族、さらには朝鮮半島との関係(権威、文化文明など、冠と大刀等)を総合的に検討している。その力関係の推移の帰結として、継体天皇を引き立てる力がこの時期に変革を実現したものとみる。また、直接証拠はないが、継体天皇は、一時期、朝鮮半島に渡っていた可能性が高いと見る。百済文化こそが当時の力の源泉という一面もあったという。
おもしろかったのは、「氏名」のエピソードだ。第1に、著者によると、日本にはもともと「氏」と「名」がなく、名前だけだったのが、5世紀後半に百済文化の影響で「氏」と「名」ができたという。第2に、中国では古代から「李」「王」など姓が一文字だが、日本では「大伴」「物部」のように二文字だ。これは、百済文化の影響だという。百済では二次姓が多かったという。朝鮮半島の姓は「金」「李」「朴」など一文字と思い込んでいると、古代史の常識と違うことが分かる。つまり、氏名をつけることも、姓を二文字にすることも、日本は朝鮮半島をまねたということだ。これが日本の伝統!(笑)
Sunday, September 01, 2013
ヘイト・クライム禁止法(37)
ジャマイカ政府報告書(CERD/C/JAM/16-20. 5 November 2012)によれば、条約4条に関する記述はごくわずかである。前回の審査の結果として人種差別撤廃委員会は、ジャマイカ政府に対して条約4条の留保を撤回し、特に人種主義団体の禁止に関する4条(b)を尊重した立法をするように勧告した。ジャマイカ政府は、条約2条と同様に、原稿の「基本的権利と自由の憲章」の下で十分な措置が取られており、人種や出身地に関してすべての人に権利が保障されていると述べている。
2条に関する部分で、「憲章」は憲法第3章改正を含むもので、検証13条3項(i)は、男女の別に基づいて、又は、人種、出身地、社会階級、皮膚の色、宗教並びに政治的意見に基づいて、差別されずに自由権を享受できるとしている。13条は差別や権利はく奪を容認するような法律を認めないことも明らかにしている。
ジャマイカ報告書は5条に関する記述が非常に長く、各論は充実しているが、4条に関してはそっけない。
Saturday, August 31, 2013
領土問題を地元住民・漁民の立場で考える
岩下明裕『北方領土・竹島・尖閣、これが解決策』(朝日新書)
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3島返還案を提出して北方領土をめぐる議論に新しい地平を開いた『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』(中公新書)から8年、著者は領土問題、「国境学」の第一人者として領土研究をリードし、多くの編著を出すとともに、現実政治に介入して議論の一翼を担ってきた。今回は北方領土だけでなく、竹島、尖閣も含めて日本の領土問題を広い視野からとらえ返す試みである。まず、領土問題は実は日米同盟の従属変数として機能するしかなかった歴史を直視し、アメリカ頼り、アメリカ絡みの議論では解決しないこと、日本が自律的に周辺諸国に向き合う必要があることをセリする。そのうえで、第1に、「歴史問題」と「領土問題」を切り離して、歴史問題はそれとしてきっちり議論するフォーラムをつくり、領土問題は別途解決を探るべきとする。第2に、ロシアと中国が実践したようにフィフティ・フィフティ方式で解決する。第3に、地元住民や漁民の立場を十分に理解して、その声に耳を傾ける中から解決策を探るべきだという。第3の点は、本来当たり前のことであるが、領土問題、国境問題となると、どうしても中央政府同士の交渉となり、ナショナリズムが先走り、地元住民の利害が忘れ去られる。著者は、それぞれの問題について、地元住民や漁民がどのような生活をし、どのような意識を持っているかを重視する。その際、著者は「国境学」、ボーダーズスタディーズの専門家として、世界的な議論を踏まえて、論述を進める。また、フィフティ・フィフティといっても、具体的な事案ごとに意味や方法は異なるので、北方領土をモデルとしつつ、それぞれに応じた具体案を提起する。そこでは、歴史問題と領土問題の区分けとともに、海の空間管理、住民の生活圏、漁業水域などの諸論点を総合的にとらえる姿勢を明示する。とかくナショナリズムの対立が激化し、過熱している問題だけに、具体的な提案をすれば、あちらこちらから石が飛んでくるものだが、著者なりの基本ポリシーを丁寧に説明し、より良い解決策を提案する工夫をしている。その意味でとても参考になる本だ。
もっとも、細かな点では疑問がないわけではない。著者は北方領土、竹島、尖閣がすべて本来は日本領と考えているようだがその理由は、北方領土以外は、必ずしも説明されていない。また、ナショナリズムに走るのではなく、冷静なが「国境学」の成果を踏まえた議論のはずなのに、「尖閣を譲れば、次は沖縄をとられる」式の議論が使われている。それならば、著者の言う3島返還論にしても「択捉を譲れば、次は色丹だ、歯舞群島だ。最後は北海道までとられる」という極論を否定できないのではないだろうか。また、引用文献を見ると、竹島について、基本文献というべき内藤正中、朴炳渉、池内敏の著作が参照されていない。下條正男の文献が2点もあげられているのに。
レーティッシュ博物館散歩
グラウビュンデン州都のクールの旧市街はかつて城壁に囲まれていたが、いまは城壁がなく、周囲の近代的な町並みとつながっている。駅前通りを歩いて100メートルほどのところにある交差点でグラーベン通りを渡ると旧市街になる。クールの町中に「120分で5000年」という観光客向け歴史ツアーのポスターが貼ってあった。5000年というのは、紀元前3000年頃にはすでに集落が出来上がっていて、スイス国内で確認されている最古の町だからだ。ライン川に面した山間の谷につくられた町だ。なぜライン川に接してつくらなかったのかと不思議に思うが、少し離れた谷のほうが外敵からの防衛に便利だったのかもしれない。紀元前15年にローマ帝国の支配下にはいり、後にクールという名前になった。旧市街をざっと歩くのに2時間ということだろう。ポスト通りにはスイス国旗、グラウビュンデン州旗、クール市旗がはためく。やがて正面に見えてくるのがザンクト・マルティン教会で、その裏にクール・レーティシュ博物館があり、さらにその裏にカテドラルが聳える。
クール・レーティシュ博物館はグラウビュンデン州の歴史博物館で、以前見た時には展示品が単純に並べて置かれていたように記憶しているが、今はきちんと整理して、見学者に配慮した丁寧な展示になっている。案内パンフレットは二〇一一年の作成になっている。パンフレットは『調査発見』『労働とパン』『権力と政治』『信仰と知識』の4部構成だ。『調査発見』は、一六世紀に始まり、二〇世紀に本格化したグラウビュンデンにおける考古学の解説から始まる。スイスにおける石器時代、青銅器時代、鉄器時代、ローマ帝国時代、前期中世(五~九世紀)に分けて、概略が説明されている。展示『労働とパン』では、農業時代に始まって、商業、工業、交通業、観光業、移住と移民という構成で、それぞれの時代に人々がどのように生計を立てていたかを示す。展示『権力と政治』では、軍隊と戦争、領主と城、三国同盟、司法の暗い側面などのテーマごとの展示である。司法の暗い側面では、拷問器具や処刑についての解説がなされている。また、グラウビュンデン地域で権力的な地位にあった人々の写真が掲示され、83人の名前が掲げられている。15世紀のジャン・ジャコモ・トリヴルチオ、18世紀のヨハネス・パウル・ベーリ・フォン・ベルフォート、19世紀の宗教者ヴィルヘルム・マリア・リッジなど地元の政治や宗教上の指導者が並ぶが、他方で、政治とはかかわりのなかった画家ジョバンニ・セガンティーニや女性画家アンゲリカ・カウフマンも登場する。有名人や歴史上の人物ということだろうか。展示『信仰と知識』では、神と神々、伝承伝説、象徴と奇跡、生誕と死、教育などのテーマが設定されている。神と神々というのは、キリスト教以前は、太陽、泉、水、木々、畑などに宗教的観念を抱いた自然信仰の時代があったとされ、多神教から一神教の時代へという流れになるからだ。キリスト教の伝播は、4世紀半ばに聖ルジウスと使節団が布教し、380年にローマ帝国がキリスト教を国教として認知したことで一気に広まり、9世紀にはクール市況が異教を禁止したという。もっとも、その後もクールでは、マーキュリー像、商取引の神像、狩猟神像などさまざまな異教の観念が残っていたという。
クールは最古の町だけあって、スイスらしいが、スイスらしくない面もあり、おもしろい。グラウビュンデン州はロマンシュ語を話す地域でもある。スイスの公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語に加えて、第4のロマンシュ語があるが、これはダヴォスやサンモリッツなどグラウビュンデン州、エンガディン地方の言葉である。
Thursday, August 29, 2013
取り除ける放射能は取り除ける
児玉龍彦『放射能は取り除ける――本当に役立つ除染の科学』(幻冬舎新書)
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2011年7月の国会参考人演説で厳しい批判の声を上げ、被災者救済を訴えた著者の、『内部被曝の真実』に続く新書である。南相馬市を中心に福島の除染に携わってきた現場の体験と専門家の知識を総動員した本で、しかもとてもわかりやすい。除染に対する政府や東電の無責任ぶりが際立つだけに、「除染はできない。移染しているだけだ」という批判をしがちだが、きちんとした科学知識をもとに、現地の生活者の視線で、できる限りの除染を進めるべきだという著者の立場は、実践的に優れている。街中の生活空間、とりわけ子どもたちが通う幼稚園や学校の除染の正しい在り方が説明される。他方で、森林の除染は効果が出にくい。福島の農業を復興させるために、農地の除染はどのように進めるべきか。水は大丈夫か。こうした基本を丁寧に説明している。「除染できるところ、住めるところの環境を目一杯よくしていく。それとともに、10年以上も住めないという地域では、新しい町の構想を住民のコンセンサスでつくりあげていく。それが第一歩でないだろうか。」著者は、非科学的な議論を排除するとともに、現場で生活する「当事者主権」を強調し、上から官僚主導で進める除染や復興の虚偽を厳しく批判している。除染を「点」から「線」へ、そして「面」へとつなげていく息の長い、計画的で、政府の責任による除染計画の必要性が明らかにされる。
Wednesday, August 28, 2013
キルヒナー美術館散歩
ダヴォス・プラッツ駅からタル通りを北東にしばらく歩くとスポーツセンターに出る。左折してクルガルテン通りの坂道を登るとキルヒナー美術館だ。サンモリッツのセガンティーニ美術館が石塔で、小さいながら荘厳な印象を与えるのに対して、キルヒナー美術館は都市を描いたキルヒナーにふさわしいモダンな建物である。
ドイツ表現主義の代表格のエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880~1938年)はバイエルン出身のドイツ人で、ミュンヘンで絵画を学び、ドレスデンで「グループ「ブリュッケ」を創設し、新しい絵画を目指した。「ブリュッケ」には、ヘッケルやカール・シュミット(政治学者ではない)、ペヒシュタインがいた。後に、カンディンスキーやマルクらの「青騎士」にも加わっている。ベルリンなど都市の通りと人々を描いた作品で有名だ。「街」(1913年)「街の5人の女」(1913年)「兵士としての自画像」(1915年)などは有名だ。下記のサイトの上の3作品もその時代のものだ。
http://pro.tok2.com/~art/K/Kirchner/Kirchner.htm
下記には多数の作品が無秩序に並んでいる。
http://www.kunstkopie.de/a/kirchner-ernst-ludwig.html/&pid=999?gclid=CNmf0a_poLkCFYRP3godQCsABQ
しかし、第一次大戦後、病気療養のためスイスのダヴォスに移った。いまは世界経済フォーラムという世界資本の談合会議が開かれることで知られるダヴォスは、結核などのサナトリウムの町だったからだ。キリヒナーは生涯ダヴォスに住むことになった。ダヴォス移住後も、画風は基本的には同じと言えるが、それ以前は都市の表通りと華やかな人々を描いていたのが、ダヴォスを中心としたグラウビュンデンの風景画を多く描くようになった。人を描く場合も、アルプス地方の地味で落ち着いた女性を選ぶようになった。もっとも、同様にアルプスの景色と人々を描いたセガンティーニと比べると、キルヒナーは農民や牧人など地元の働く人々を主題としていないようだ。キルヒナーは宗教的題材を選ばなかったし、女性ヌードを多く描いた点でもセガンティーニとは異なる。
キルヒナー美術館にはダヴォス時代の作品が20点ほど展示されていた。「山のアトリエ」(1937年)はキルヒナー自身のアトリエだろう。壁に絵画がかけられ、一瞬、隣の部屋かと思わせる。「バルコニー」(1935年)の背景はダヴォスの町だ。「スタフェ・アルプスに登る月」(1917年)、「冬の月夜」(1919年)、「黒猫」(1924年)、「乗馬する女性」(1931年)、「アーチェリー」(1935-37年)。
おもしろかったのは、「3人の老婦人」(1925/26年)だ。110✕130cmの作品だが、中央に3人のコートを着用した老婦人が並んで立っている。背景は特定できないが、ダヴォス周辺の山だろう。左上に小さく描かれた山はアルプスを意味している。3人の老婦人のポーズは単に立っているだけ。いずれも黒いコート姿。帽子も同じ黒だが、形が違い、一つはつば広だ。そして、3人の顔つきと表情が描き分けられている。いったい何を意味しているのか。老女たちの人生や物語があるのだろうか。キリヒナーは何を意図したのか。いろいろ思案したが、わからなかった。ところが、受付で販売している絵葉書の中に、「3人の老婦人」のモデルの写真が売られていた。マルグレート、ドローテ、エルスベート。なんと、まったく同じだ。背景は違うが、3人の老婦人のポーズ(コートだけでなく、手の位置も)、帽子、顔つきと表情も、写真をそのままえがいている。これには笑った。キルヒナーは特に何かを意図して顔つきや表情を選択したのではなく、モデル写真そのままに描いただけなのだ。まいった。キルヒナー、深い。
若い時代、1912年に「青騎士」に出品していたので、パウル・クレーとの距離が気になった。当時は出会っていないようだが、美術館に掲示された年譜を見ると、1930年代半ば、つまり晩年にクレーの展覧会を見にいって、批評をしたと書いてあった。ナチス・ドイツによる「退廃芸術展」でも、クレーとキルヒナーはやり玉にあげられた仲間である。ともに、ナチスに迫害され、キルヒナーは1938年、クレーは1940年に世を去った。クレーはナチスとの精神の闘いの中、天使シリーズを遺した。キルヒナーは残念ながら自殺に追い込まれた。
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