グランサコネ通信2010-19
2010年8月2日
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ジュネーヴ祭りで、1日夜はレマン湖花火大会でした。
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1)諮問委員会
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国連人権理事会の諮問委員会(8月2-6日)の議題が、7月29日になってようやく国連のウエブサイトに掲載されました。やけに遅いので、何かあったのかと思いましたが、別に何もなし。2日はハンセン氏病者の権利、3日は失踪、4日は食糧の権利です。5日は新しい議題の提案などが議論されるようです。
女性の権利の議題がなくなっています。以前の小委員会時代のメインであった、戦時性暴力や、マイノリティの権利も消されたままです。ハンセン氏病は、数年前の人権委員会のときに、突如として日本財団が国連欧州本部のロビーを借りて展示を行いました。見ていると、仕事は外務官僚がやっていました。日本政府と日本財団が協力してハンセン氏病への取り組みをアピールしていました。その後、議題として取り上げられるようになり、日本政府がいかに努力しているかの宣伝の場になっています。日本財団はその後見かけませんが、来ているのかな。失踪は長年ずっと世界的な問題です。日本政府も拉致問題を取り上げるので重要議題として力を入れています。もっとも、諮問委員会で何をしたいのかわかりません。強制失踪の国連宣言はすでに10年以上前にできています。諮問委員会で取り上げるのであれば、強制失踪国際条約でも作るのをめざすのかと思うと、そうした議論はこれまでのところなされていないようです。ハンセン氏病も失踪も食糧の権利も重要課題ですが、なぜ、いま、諮問委員会の議題となっているのかがよくわかりません。戦時性暴力がなぜ議題からはずされたのかはよくわかりますが。1月会期の議題をチェックしておく必要があります。
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2)主体なき時代の権力の戯画
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それにしても、千葉景子さんと辻元清美さん、こうまでして権力にしがみつきたいものなのでしょうか。
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議論しましょうといいながら、まず殺す。この精神は、さすがに耐え難いものがあります。死刑廃止論者のはずが、なにゆえにこのような行動をなしうるのか。落選大臣であるがゆえの悲哀でしょうか。落選大臣なればこそ、「選挙民の信託を受けていないから執行はできない」と考えるべきところでしょうに。腐敗とか堕落とかいう言葉すら超越しています。私が倫理学者なら「熊本典道と千葉景子」というテーマで論文を書くべきところ。無実と思いながら死刑判決を書いた裁判官と、死刑廃止といいながら死刑執行をした法務大臣。置かれた状況には違いがありますが、倫理というものの前提を根底から覆している点では同じ。人間的知性がかくも射程の広いものであることに感嘆。
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転職屋さんとは、昔、あるパーティでお目にかかりました。たかだか5分ですが、なんと傲慢な人だろうと思いました。あとでピースボートの辻元さんだと聞いて、「そうか、これほどバイタリティがあるからピースボートを実現できたのか」と考えを改めました。傲慢と見るか、バイタリティがあると見るか。その後、彼女は転職して国会議員になり、失職したと思ったら復職し、ついには権力内部に突入、と思いきや、今度は離党。糸の切れた凧はひたすら権力を求めて飛んでいくことでしょう。バイタリティは今も健在のようですが、飛んで行くと見るか、堕ちて行くと見るか。
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政党は権力をめざして闘うのだし、政治家も権力をめぐって議論し、行動するものですが、原理原則を投げ捨てて権力にしがみついているとしか見えない政治家が多すぎ。
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3)すれ違うヴォルテールとルソー
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気分転換に、以下は、ジュネーヴという町のお話。
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旅する平和学(30)
国際人権の町ジュネーヴ(一)
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スイスの西端レマン湖がローヌ川となって流れ出す河口周囲にできた町ジュネーヴは、人口僅か一八万人の小都市だが、国際ニュースの発信地として知られる。
なにしろ国連欧州本部、難民高等弁務官事務所(UNHCR)、人権高等弁務官事務所(OHCHR)、国連貿易開発会議(UNCTAD)、世界保健機関(WHO)、国際労働機関(ILO)、世界気象機関(WMO)、世界貿易機関(WTO)、軍縮会議(CD)、赤十字国際委員会(ICRC)をはじめとする国際機関が置かれている。国連人権理事会(HRC)や国際自由権規約委員会、拷問等禁止委員会(CAT)、人種差別撤廃委員会(CERD)なども開かれる。各種の国際見本市が盛んに開催される。人口の三分の一が外国人と言われる。レマン湖に加えて、アルプスのモンブラン観光の起点になっているため、目抜き通りを歩けば、世界から押し寄せる観光客がひしめいている。
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宗教改革と啓蒙
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ジュネーヴの歴史はローマ時代まで遡るといわれるが、ローヌ川の船着場周辺にできた小さな町にすぎなかった。一六四八年のヴェストファーレン条約によって独立都市として認められたが、その後、ドイツのルター、チューリヒのツヴィングリと並ぶジャン・カルヴァンの登場によりプロテスタント宗教改革の拠点となった。
フランス生まれのカルヴァン(一五〇九~一五六四年)は、バーゼルを経てジュネーヴに至り、約三〇年にわたって宗教改革と共和政統治を指導した。カルヴァンの統治は厳格で、市民生活にも厳しい戒律が適用された。カルヴァン主義は改革派協会の思想として長く影響を及ぼしてきた。もっとも、カルヴァンの思想とカルヴァン主義の関係については多様な理解がある。
今日も、カルヴァンが拠点としたサン・ピエール寺院はジュネーヴの中心街にそびえ、程近いバスティヨン公園には宗教改革記念碑が建っている。
カルヴァンの町の厳しい戒律に直面した啓蒙の騎手ヴォルテール(一六九四~一七七八年)は、郊外のフェルネの町に住んだ。もうひとりの啓蒙の騎手ジャン・ジャック・ルソー(一七一二~一七七八年)はジュネーヴ出身だが、二度にわたってジュネーヴから追われて流浪することになる。二人はジュネーヴで激しく火花を散らしてすれ違った。
一七五〇年、『学問芸術論』でディジョンのアカデミーを受賞したルソーは、一躍フランス思想界の有名人となった。後に『社会契約論』『告白』『エミール』などでフランス啓蒙思想の寵児となるルソーだが、『学問芸術論』が思想界へのデビュー作である。『人間不平等起源論』を執筆した一七五四年、ルソーは、二六年ぶりに生地ジュネーヴを訪れた。
ルソーはジュネーヴで思想形成したわけではない。それどころか一〇歳で父親が逃亡してしまい、徒弟職人としては無能者扱いされたルソーは一五歳にしてジュネーヴを立ち去る運命にあった。サヴォア、トリノ、アヌシーを転々としてパリに現れたルソーは、社交界でディドロ、フォントネル、マリヴォー、デュパン夫人と知り合う。ここから『社会契約論』のルソーへはあと一歩である。ルソーがパリを必要としていた以上に、啓蒙に突入したパリがルソーを必要としていたのだ。
二六年ぶりに戻ったジュネーヴで、ルソーは大歓迎を受ける。市長や教会の長老たちがルソーを迎えた。逃亡した時計職人の無能な息子ジャン・ジャックではなく、パリ社交界のヒーロー、ルソーをジュネーヴは暖かく迎えた。凱旋を果たしたルソーは、わずらわしいパリを去ってジュネーヴに身を落ち着けようと考えた。だが、ルソーがジュネーヴにとどまることにはならなかった--ヴォルテールがやってきたからである。
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すれ違う巨人
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一七五四年暮にジュネーヴにやってきたヴォルテールは、郊外のサン・ジャンに土地を入手し「レ・デリス(無上の快楽)」と名づけ、ここで夕食会を開いた。
ヴォルテールはルソーより一八歳年長であり、フランス啓蒙の代表者であった。文学、哲学、法学など多面的に活躍したスーパースターである。ヴォルテールがジュネーヴにやってきた頃、ルソーはデヴューしたばかりの新人であった。ヴォルテールにすれば、ルソーなど勝手なことを言っている若者にすぎなかったかもしれない。
ジュネーヴ上流階級の人々は、フランス啓蒙の闘う思想家ヴォルテールの館に集まった。レ・デリスでは芝居の上演も行った。ジュネーヴじゅうの市民が集まったという。しかし、カルヴァンの町ジュネーヴでは当時、演劇自体が禁止されていた。ジュネーヴ市宗務局はヴォルテールに演劇は禁止だと通告した。
ところが、ヴォルテールもしたたかである。ジュネーヴのすぐ北にあるフランス領フェルネに館を建てて、住み着いたのである。ジュネーヴ市民相手に啓蒙を広め、演劇を行うが、当局の規制があればフェルネに逃れるのだ。一七六一年の冤罪カラス事件、一七六二年のシルヴァン事件、一七六五年のラ・バール事件――ヴォルテールはこれらの冤罪を批判し、再審運動を進め、刑事司法改革をリードしていった。
他方、ヴォルテールとの直面を避けたルソーは、一七五六年、パリ郊外のモンモランシーの森にあるレルミタージュに新築されたデピネ夫人の「隠れ家」に住んだ。ジュネーヴ図書館の名誉館員を提供されても固辞している。『人間不平等起源論』に対してヴォルテールは厳しい批判を加え、ルソーは反論の手紙を書いた。二人の反目は続き、一七六〇年六月、ルソーはヴォルテールに絶縁状を送り、決定的に決裂した。
ルソーは『新エロイーズ』や『エミール』を続々と発表したが、一七六二年、『エミール』はパリで有罪判決を受け、ルソーに逮捕状が出た。ルソーはスイスに逃れるが、ジュネーヴでも『エミール』は禁止された。故郷ジュネーヴに戻ることのできないルソーは、一七六三年、「恩知らずの祖国」ジュネーヴの市民権を放棄した。こうしてルソーは生涯に二度、ジュネーヴを追われたのである。
二人は決別しながらも、同じ闘いを、奇しくも一七七八年の死去に至るまで生涯かけて闘いつづけた。それは拷問を許容し、予断と偏見に基づいて有罪判決を出してきた刑事司法制度との闘いであり、近代民主主義を確立する闘いであった。
二人が去ってから一一年後、一七八九年のパリを啓蒙と革命――自由、平等、博愛の嵐が吹き抜けることになる。
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4)読書の時間
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安田浩一『ルポ差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書、2010年)
『外国人研修生殺人事件』『JALの翼が危ない』『JRのレールが危ない』の著者による外国人労働者の現場ルポです。第1部「中国人が支える、日本の底辺重労働」では、今や有名な「外国人研修生」のインチキなからくりを徹底解明しています。ここまで破廉恥な実態がありながら、日本政府はいまだに改善しようとしません。著者の「怒り」がよくわかります。中国政府にも問題があることも。第2部「日系ブラジル人、移民たちの闘い」でも、日系ブラジル人の現状が詳しく紹介されています。リーマンショック以後の仕事のない状態で苦境に陥った人々のルポ。さらに、かつてのブラジルへの移民の歴史を踏まえて、送り出す側と受け入れる側の齟齬を明らかにしています。アマゾンのトメアスまで取材に行ってしまうところが凄い。中国人研修生にしても日系ブラジル人にしても、日本の労働現場で奴隷状態、低賃金で酷使され、使い捨てられている現実は、よく知られているようで、まだまだ知られていないのが実情です。悲惨な現実が続きますが、本書の最後では、一部ながらも、成功例や裁判の勝訴例が紹介されて、少しだけほっとします。
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加藤聖文『「大日本帝国」崩壊--東アジアの1945年』(中公新書、2009年)
日本、朝鮮、台湾、満州、樺太、千島、南洋群島がそれぞれ迎えた8.15をデッサンして、大日本帝国とは何であったのかを、その崩壊過程に見る試みです。かつての大日本帝国について議論するにしても、今日の東アジア共同体について議論するにしても、大日本帝国の崩壊の歴史をつぶさに検討することは重要です。その課題に一人で挑んでいるところがえらい。南洋群島にも視線を送っているところもさすが。欲を言えば、第1に、崩壊過程に入る前に、そもそも大日本帝国がそれぞれの地で、それぞれの人々に何をしたのかを、やはりきちんと描いて欲しかった。そうでないと、8.15の終戦工作や、人々の思いにばかり焦点があてられ、一面的になります。もっとも、260頁の新書でそこまで書くのは困難ですが。第2に、近代の帝国の崩壊過程についても論を及ぼして欲しかった。そうでないと、大日本帝国の「特殊性」で終わってしまいます。近代の植民地帝国との比較で大日本帝国を見ておく必要があります。1966年生まれ、『満鉄全史』の著者の次の本に期待。
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吉川節子『印象派の誕生--マネとモネ』(中公新書、2010年)
30年、印象派を追いかけてきた著者の最新刊。導入は、ファンタン・ラトウールの「バティニョル街のアトリエ」に描かれたマネ、モネ、ルノワール、ゾラ(文豪)、バジール、ショルデレル、アストリュック、メートルの紹介。あの時代の印象派の傑物たちが、どのように交流し、交錯し、印象派を形成していったのかの一端が鮮明に示されています。本書前半は、ボスであるマネ論。おもしろかったのは、「草上の昼食」の解読です。当初はスキャンダルで有名になった絵ですが、マネにはそれなりの計算があったこと。そして、画面左下の蛙がどういう意味を持つか。恥ずかしながら、蛙について、まったく考えたことがなかったので新鮮でした。「オランピア」や「フォリー・ベルジェールの酒場」も。本書後半は、光の画家モネ論。マネの印象とモネの「印象」の対比が面白く読めます。2010年春、東京は印象派の大ブームでしたから、本書はタイムリーでした。マネとモネに集中していて、他の画家がおまけの扱い、特に私の好きなシスレーはほとんど無視されているのが残念ですが、220頁の新書ではやむをえません。
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河野太郎『私が自民党を立て直す』(洋泉社新書、2010年)
自民党幹事長代理の本です。オビには、<「自民党の中で一番外れているから自民党の冥王星だ」といわれた私が、党を変えてみせる! 競争の中で強い経済をつくりあげる「新しい中道右派」がこの国には必要だ!>とあります。従来の国会運営がいかにダメであるかを次々と批判し、改善策を提案しています。ダメなのは自民党がやってきた部分ばかりではないかと指摘されても、だから自民党を改革するのだ、と言えば事足りるようになっています。民主党政権の事業仕分けも、河野太郎が始めたのだと唱えて、自ら「元祖事業仕分け人」と名乗っています。ふ~ん。個別にはなるほどと思うところもいくつかありますが、基本は遅れてきたネオリベにすぎません。繰り返し、成長、成長、そのための法人税引き下げ、そして消費税増。そうしないと、この国がダメになるそうです。第2の特徴は、歴史認識をパスしていることです。日本の侵略と植民地支配に関する歴史認識が示されないだけではありません。それ以前に、21世紀の激動の時代に挑む政治家としての歴史認識が、ない。経済成長、自民党建て直し、政権獲得の話しか、ありません。ついでに揚げ足取りをしておくと、「1936年にはかつての東ドイツがやや生産性で西ドイツに勝っていた」(47頁)などと述べています。アホか。1936年とあるのは単なる誤植ですが。また、民主党と自民党を取り違えています(173頁)。自分が何党の幹事長代理なのかもわからなくなっているのでしょう。こういうお粗末な政治家に、仕分けなどされたら、この国が本当にダメになりそう。まっ、いいか(笑)。