グランサコネ通信2010-24
2010年8月10日
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花崎皋平『田中正造と民衆思想の継承』(七つ森書館、2010年)
「40年以上にわたるライフワークの集大成」との宣伝文句のついた、著者の思想史研究です。全体としては田中正造を論じていますが、その「継承」では、民衆思想家と呼ぶべき前田俊彦、安里清信、貝澤正をとりあげ、自らの人生を織り込んでいます。つまり、田中、前田、安里、貝澤、花崎とつづく民衆思想家の流れを唱え、その観点から田中正造に学ぶべきことを再発掘する試みです。正造の生涯、活動、主張の全体をカバーするのではなく、前半の人生についてはよく知られているので簡潔に抑えて、天皇直訴事件以後の正造の思想の発展を中心に検討しています。天皇直訴事件だけで正造を代表させると「義人伝説」にはまってしまうが、正造の思想はその後の発展こそ重要だそうです。
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大雑把な目次は、
第一部 民衆政治家として
第1章 田中正造像の変遷
第2章 江刺県鹿角での経験
第3章 議員時代点描
第二部 治水行脚をつうじての思想の深まり
第4章 1909年の新境地
第5章 最晩年の行脚
第6章 無私、無宿、無所有の生活
第7章 愚と聖の弁証法
第8章 新井奥すいと田中正造
第三部 民衆思想の継承
第9章 瓢鰻亭 前田俊彦
第10章 沖縄の思想家安里清信
第11章 アイヌの思想家貝澤正
第12章 最後の年、臨終
第13章 田中正造の思想的可能性
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第二部の第6章と第7章が正造の民衆思想の内容検討です。「無私、無宿、無所有の生活」と「愚と聖の弁証法」の部分です。知らないことだったので勉強になりました。足尾銅山事件の行動の中の正造、「義人」としての正造だけを見るべきではなく、その後の思想の深まりに学ぶべきという指摘は重要です。また、「どぶろくをつくろう」の前田俊彦が民衆思想家としてそれほど重要な人とも知りませんでした。昔、前田俊彦の著作を読んで、私もどぶろくをつくっていました。禁止されていた時代です。公認されてしまったのでやめましたが。以前、私の研究室は「東京醸造大学」と称していたほどです。前田俊彦と並んで沖縄とアイヌの思想家が取り上げられているのも著者らしい選択です。「あとがき」では「この本で述べた田中正造の思想は、世界に、特にアジアに知られて行けば、深い浸透力や広い影響力を持ちうると思う。この思想に響き合う在地の思想を営んでいる思想家がアジアにはあちこちに存在しているにちがいないからである。そういう交響する思想圏の生成を待ちたい」とあります。
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とても勉強になる本なので、お勧めしたい面もありますが、本書の思想内容には根本的に疑問を感じるので、批判したい点の方が多いです。たくさんありすぎるので、ここでは重要な点だけ提示しておきます。その前に、著者のプロフィルを紹介しておきます。後々の議論にとって重要ですから。本書によると次のように書かれています。まず間違いなく、本人が書いたものでしょう。そうではなくても、いずれにしろ重要なので、そのまま引用しておきます。
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1931年、東京に生まれる。哲学者。北海道小樽市在住。北海道大学教員を経て、ベトナム反戦運動、成田空港や伊達火力、泊原発などの地域住民運動、アイヌ民族の復権運動への支援連帯運動に参加する。1989年ピープルズ・プラン21世紀・国際民衆行事で世界先住民会議の運営事務局に参加。現在「さっぽろ自由学校<遊>」、ピープルズ・プラン研究所の会員。著書『生きる場の哲学--共感からの出発』(岩波書店、1981)『あきらめから希望へ--生きる場からの運動』(高木仁三郎との対論、七つ森書館、1987)『静かな大地--松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店、1988/2008)『民衆主体への転生の思想--弱さをもって強さに挑む』(七つ森書館、1989)『アイデンティティと共生の哲学』(筑摩書房、1993/平凡社ライブラリー、2001)『個人/個人を超える者』(岩波書店、1996)『<共生>への触発--脱植民地・多文化・倫理をめぐって』(みすず書房、2002)『<じゃなかしゃば>の哲学--ジェンダー・エスニシティ・エコロジー』(インパクト出版会、2002)『ピープルの思想を紡ぐ』(七つ森書館、2006)『風の吹き分ける道を歩いて--現代社会運動私史』(同、2009)
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以上が著者のプロフィルです。私も5冊ほど読んだ記憶があります。「哲学者」です。ならば、いかなる「哲学者」であるのか。それが、以下の本題です。
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第1に、日清戦争認識です。
田中正造の「日清戦争認識」をみると、「日清戦争に勝ったのも人民の正直のゆえである。無学で正直なことを軽蔑すべきではない」という趣旨のことを書いています。著者は、これについて「日清戦争によって国民の正直を発見したとして『戦争、国民万歳』と日清戦争を肯定している」とだけ書いて、それ以上のコメントを付していません(53頁)。これは1894年のことで、正造は議員時代です。1901年の銅山事件の直訴より7年前で、正造53歳です。後の思想の深まりよりは前のものですが、53歳にしてこの認識であるということは、正造は「朝鮮植民地化戦争」を心底評価し、支持していたということです。そのことを今になってあげつらう必要はないかもしれませんが、このような正造の思想を2010年の現在、著者がどのように扱うかは別の問題です。「日清戦争を肯定している」とだけ書いてコメントをせず、しかも本書ではその後まったく取り上げられないのです。正造の自己批判は見られません。にもかかわらず、<朝鮮植民地化戦争を支持した正造の思想が、アジアに知られていけば、深い浸透力や広い影響力を持ちうる>と結論付けているのです。ここに正造ではなく、著者の思想への決定的な疑問があります。
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第2に、その後のアジア太平洋侵略認識です。
「アイヌの思想家貝澤正」の経歴中に次の一文があります。「1941年、28歳のとき、満蒙開拓移民団の団員となり、中国東北部佳木斯に入植するが民族差別事件に遭遇して幻滅し退団する」(209頁)。その内容は、「貧乏から抜け出し、広い天地で農業をしようという願いを満州開拓に託し、開拓団に入って渡満した。しかし、開拓団の実体は中国人、朝鮮人の農民を働かせて、自分たちはごろごろしているだけ。その差別はひどいものだった。団員の一人が朝鮮人と結婚し、その妻が子供を早産した。その子を開拓団の墓地予定地に埋葬したところ、それを責める団員がいた。正さんがその団員に『民族を差別するとは何事だ』と抗議したところ、『なにを生意気なこのアイヌ、ぶっ殺してやる』と銃を向けられた。正さんはこんな連中の中にいたのでは殺されるかもしれないと思い、退団した。民族差別を許さない倫理観は、若い頃からの思想信条の背骨であった」(121頁)。このエピソードは貝澤自身による回想でしょう。これには大きな疑問があります。明治初期に「屯田兵」という名の開拓移民によってアイヌモシリを奪われ、差別されてきたアイヌの貝澤は、1931年の論文で北海道旧土人保護法を批判し、アイヌ差別に抗議しています。その貝澤が、満蒙開拓移民団の団員となり、「広い天地で農業をしようという願い」で満州開拓移民となったのです。ならば、「広い天地で農業をしようという願い」でアイヌモシリに屯田兵として移民し、アイヌの土地を奪った屯田兵も正当化されることになります。貝澤は自分のことを棚に上げて、アイヌ差別を批判し続けたことになります。このことについて貝澤がどのように認識していたのか、本書からはわかりません。また、ここで重要なのは貝澤を批判することではありません。著者は、貝澤のエピソードを紹介しながら、「民族差別を許さない倫理観は、若い頃からの思想信条の背骨であった」と評価しています。満州の人々の土地を奪い、旧「満州国」を捏造し、中国人、朝鮮人を差別していた日本の侵略と植民地支配の尖兵となった貝澤に「民族差別を許さない倫理観」を見ることができるでしょうか。この点について著者は何も書いていません。貝澤は、開拓団を抜けたあとも満州に居座り続け、1943年に「肺結核治療のため帰国」しています。民族差別を批判して帰国したのではありません。そのことを著者はどう見ているのか不明です。
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ついでに、軍事基地化と環境破壊に抗議してたたかい続けた「沖縄の思想家安里清信」にも触れておきましょう。安里は、1913年に生まれ、1935年に植民地・朝鮮に渡って教員となり、1937年以後、徴兵されて「北支で悲惨な戦闘を経験」し、戦後、沖縄に戻って教員その他となり、金武湾を守る会などの闘いに取り組みました。植民地朝鮮についていかなる認識を語っていたのか。「北支」の「悲惨な戦闘」で誰と何のために戦っていたのかはここではおいておきます。住民の生存権を重視した安里は、沖縄戦で破壊され、住民が無差別に殺された経験にこだわります。「われわれは、第二次大戦という国策からでた20万人近い犠牲者の生き残りである。沖縄とは何か。沖縄人とはなんだったのかと、その痛みを耐えながら今日を成してきた。国や企業はこれを根こそぎ破壊し去る。われわれは歴史の体験に鑑みて黙っておれぬ」(191頁)。軍事基地や環境破壊と闘い、自然と暮らしを守る思想の闘いに学ぶべきことが多いのは確かです。しかし、この20万人近い沖縄県民の犠牲者は、どこで亡くなったのでしょうか。すべてが沖縄戦で亡くなったのでしょうか。違います。1942年から45年にかけて南洋群島で亡くなった日本人の多数は沖縄県民でした。日本が南洋群島を植民地(最初は国際連盟の委任統治領)として支配し、そこへ沖縄県民が植民地支配の尖兵として送り込まれたのです。このことについて安里は何も述べていません。沖縄県民すべてを「犠牲者」と呼んでいるのです。犠牲者であるのは間違いとは思いませんが、同時に侵略者であったことを忘れるべきではありません。南洋群島、朝鮮、北支・中国東北部と言葉を並べると、安里の思想の限界が見えてきます。安里を批判することが課題ではありません。ここでの課題は、著者の思想をどう見るかです。安里をただひたすら持ち上げる著者、安里の植民地認識を問わない著者、安里の植民地侵略加担を問わない著者。
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日本帝国主義による侵略や植民地支配について、著者が別の本で批判的に考察していることは言うまでもありません。しかし、「40年以上にわたるライフワークの集大成」において、著者の歴史認識が浅薄なものであることを露呈しています。朝鮮植民地化戦争を支持する正造、満州侵略の手先となって疑問を抱かない貝澤、朝鮮・北支・南洋群島認識が問われる安里--2010年になって、彼らの歴史認識を問うことなしに、「民衆思想家」と持ち上げ、アジアに「深い浸透力や広い影響力」を期待する著者。ここに侵略容認の民衆思想がくっきりと姿を現しています。
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第3に、女性についてです。
本書では、民衆思想家として4人の男性思想家がとりあげられています。本書では、男女平等が、正造の言葉でも、著者自身の言葉でも、明示されています。しかし、それはアリバイづくりにすぎません。「40年以上にわたるライフワークの集大成」として4人の男性民衆思想家だけを取り上げているのですから、著者の判断は、女性民衆思想家は取り上げるに値しないということです。著者は、石牟礼道子、森崎和江、田中美津の名前だけ記しています(227頁)が、その人物や思想について紹介も検討もするには値しないと判断しています。「心残り」とは言っていますが(228頁)。このように言うことはいささか揚げ足取りの批判であることは承知していますが、それでもこのことをしっかりと確認しておく必要があります。次の第4の論点にかかわるからです。
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次の論点に入る前に、「40年以上にわたるライフワークの集大成」と比較するのは非常に申し訳ないのですが、2年の執筆期間で世に送り出した私の本『非国民がやってきた! 戦争と差別に抗して』(耕文社、2009年)を取り上げておきます。この本の第2章「非国民群像」で取り上げたのは、井上伝蔵、管野すが・幸徳秋水、石川啄木、金子文子・朴烈、鶴彬、長谷川テルです。8人のうち女性は3人。多くはありませんが、女性ゼロの著者とは決定的に違います。著者の眼中には文子もテルもありません。40年以上もかけて、いったい何を「哲学」していたのやら。
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第4に、正造の「妾問題」です。
江刺県官吏時代、1871年、30歳の正造は、14~5歳の少女を妾とし、少女と同棲生活をしています。地元の人間から繰り返し批判されたが、「正造はそれらの意見、忠告を意に介さなかった」。このことは東海林吉郎『歴史よ 人民のために歩め--田中正造の思想と行動』(太平出版社、1974年)で指摘されているそうですが、著者はそれを紹介した上で、東海林の本について「しばしば推測を加えた断定的な結論を下している憾みがある」と反論しています(41頁)。ところが、著者は、正造が妾をもった事実を否定する事実を述べていません。周囲から批判された事実を否定する事実も述べていません。東海林の著述のどこが「しばしば推測」なのか具体例を一つも指摘していません。つまり、本書の読者には何が何だかわからないようになっています。1871年当時の日本社会において妾がどのように見られていたのか、妾を持つことがどのように評価されていたのかはここでは重要ではありません。正造がどのような価値判断をしていたかも重要ではありません。正造が妾を持ったことを現在の価値観から評価することも重要ではありません。ここで重要なのは、当時の正造の思想と行動ではなく、2010年の現在、このような記述をしている著者の思想です。東海林による正造への批判的言及に対して、事実に基づく反論をせずに、「しばしば推測」とレッテルを貼ることによって著者は何をしているのでしょうか。正造の妾問題の焦点をずらしているに過ぎないのです。著者は何のために焦点ずらしをしているのでしょうか。ここに、著者の「妾認識」が明らかになっていると思うのは私だけでしょうか。
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(ここで思い出すのは、日本軍「慰安婦」問題、日本軍性奴隷制問題に関する著者と徐京植さんの論争です。著者が、日本軍「慰安婦」問題での日本国家の責任追及についてなぜ後ろ向きな議論を展開していたのか。当時、鶴見俊輔の議論もそうですが、戦後民主主義だの市民だの社会運動の思想だのと称しながら、実は、家父長制オヤジの悲哀を露呈していました。戦後民主主義的知識人(もちろん「知識だけある知識人」という意味です)がなぜ「アジア女性基金」という犯罪的行動に出たかの心理学的説明が可能となります。このことと、妾問題とを合わせて考えると、著者の思想の限界が見えてくるのではないでしょうか。ただし、ここではこれ以上立ち入りません。本書では日本軍「慰安婦」への言及がありません。ここでは本書で言及していることだけを取り上げます。著者のライフワークが何であるのかだけを問題にします。)
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第5に、民衆思想とは何かです。
著者は、「晩年の田中正造は、無私、無所有、無宿の生活に徹底していた。そこから発せられる言葉は透徹し、単純で誇り高く、一切を捨てた虚心、虚位の精神的自由の境地を現している」(95頁)といいます。「定住する家はもちろんのこと、着替えの衣服さえ持たず、村から村へ、或いは町へ、一ヶ所に一晩以上滞在することもあまりなく文字どおり行脚する日常」(96頁)とも言います。直訴事件以後の正造の思想の発展について、第6章、第7章で詳しく論じています。ただちに疑問がわきます。これのいったいどこが「民衆思想」なのでしょうか。確かに正造は民衆の側に身を置き、民衆とともに闘いました。確かに正造は、日清戦争認識はともかくとして、基本的に民衆の平和、平穏、生活、暮らしを守り、権力の横暴を批判し、闘いつづけました。このことに疑問をさしはさむつもりはありません。しかし、上記の正造の思想はけっして「民衆思想」ではありません。なぜなら、正造の生活は民衆の生活とは無縁だからです。民衆には生産があり、現実の生活があります。正造はあちこち流転し、各地の支持者の家に宿泊し、運動や調査をしながら転々と移動して行ったのです。高等遊民のごとく、民衆の生活に寄宿していたのです。天皇直訴事件、元国会議員でありながら民衆のために闘い続ける正造であるがゆえに、数多くの支持者に支えられていたのです。無私、無所有、無宿の思想は民衆とは関係のない思想です。民衆とともにありつつ、けっして民衆にはならず、なれなかった正造の独自の思想を高く評価するのはよく理解できますが、それを「民衆思想」と呼ぶのはレッテル詐欺でしかありません。
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第6に、著者の「知と権力」論、つまり「大学」論です。
著者の民衆思想論の出発点は、全共闘の大学批判でした。当時、北海道大学助教授であった著者は、全共闘の問題提起と闘いに出会い、大学という「知と権力」のあり方について考え直し、ついに北大を辞職して、全共闘の闘いを支援しました。その後の著者の社会運動の歴史とともに、著者の著作で何度も何度も書かれていることです。本書でも、北大全共闘事件と、著者の特別弁護人としての活動が書かれています(23~24頁)。「知と権力」批判もあちこち散見されますが、例えばつぎのように述べています。「大学知識人は西欧思想の流行を追うことにいそがしく、足元の民衆思想には目もくれないか、その価値を認めても、西欧思想理解の枠組みにはめ込んで評価する解釈の立場を離れない。/民衆思想は現場の思想であり、実践と経験を熟考し、練り上げたものであるから、みずからも現場を持ち、そこで生きることのなかで味わい、咀嚼し、栄養にすべきものである。/私は実践の現場に密着したところで思索し、自分自身の問題として田中正造の思想的可能性を問うことにつとめてきた」(236~237頁)。そして、著者が「民衆思想の基本の立場」を「はっきりと意識した」のが全共闘の大学闘争であったといいます(238頁)。正造の民衆思想を論じた本書の冒頭と最後に、全共闘事件、著者の北大助教授辞職が繰り返し取り上げられています。民衆思想と「知と権力」論、「大学」論は密接不可分なのです。このことは他の著作でも何度も何度も繰り返しかかれているので、よくわかります。しかし、ここでも疑問が沸々とわいてきます。
(1)まず、著者の「民衆/大学」の二項対立思考様式そのものが果たして有効なのでしょうか。著者は両者を絶対的に切り離して、対立させ、大学助教授を辞職したことで民衆の側に立つことができた自分を語っています。奇妙ではありませんか。なるほど旧帝国大学に代表される大学、日本に限らず西欧近代の大学という制度が、すぐれて権力的であり、権力維持に向けられ、操作された存在であることは間違いありません。しかし、民衆の側から大学に入り、権力に取り込まれず、あくまでも民衆の立場で研究し発言し続けた例はないのでしょうか。つねに二項対立図式で語らなければならないのでしょうか。
(2)次に、大学全入時代といわれ、進学率が50%にもなっている時代の大学の現実が著者に見えているのでしょうか。40年以上も前の著者の議論がいちおう正しかったとしても、今でも同じことを語っているのは滑稽なことのように見えます。進歩がないというか、現実が見えていない。
(3)さらに、著者の議論の立て方自体が、実は「知と権力」に寄りかかっているのです。著者は40年間、何度も何度も、北大助教授を辞職したことをもって自らの民衆思想の正当化にあててきました。この回路が著者の限界でしょう。旧帝国大学助教授として権力の側でも立派にやっていけた私が、あえて助教授を辞職してまで、民衆思想を論じ、発展させてきた、という論理は、旧帝国大学の権威抜きには成立しないのです。そうでなければ、40年もたっているのですから、北大辞職など持ち出さずに、自らの民衆思想そのものを持って民衆思想を語って見せればよいのですが、著者はそうはしません。北大という権威を象徴的に利用することで正当性を獲得する「民衆思想」。
(4)著者は、大学という知の制度の権力と権威を批判します。その批判は、少なくとも、あの時代には「正しかった」ことでしょう。では、近代国家・社会が作り出した知の権力と権威は「大学」だけなのでしょうか。メディア、出版もその一つであることは常識ではないでしょうか、しかし、著者はこれには絶対に触れようとしません。冒頭のプロフィルに示しただけでも、著者は、この30年間に10冊の著作を出版し、本書が11冊目です。これが権力や権威と無縁ということは考えられません。北大辞職という印籠を掲げても、著者が近代における知の権力と権威に寄りかかっていることは隠せません。出版という営みもまた権威の源泉の一つなのです。このことに自覚的なのかどうかが問われますが、本書からは何も明らかになりません。換言すると、著者の権力批判、権威批判は、ご都合主義的に引いた線のこちらから向こう側を批判しているだけであって、この批判は恣意的な線引きなしには成立していないのです。
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最後に、本書には誤植が目立ちます。序文からして、「を述べのち、」(8頁)とあります。「を述べたのち、」です。江刺県を「江差県」(40頁に2箇所)、「天保元(1830)年から四(1834)年にかけて」(42頁)、「つけのとしての精神」は「つけとしての精神」(108頁),「第一実世界大戦」(162頁)、「ベラウ共和国」(205頁、この国の名称は「ベラウ」=「パラオ共和国」であり、ベラウだけでパラオ共和国の意味。ベラウ共和国とすると「パラオ共和国共和国」になってしまいます)。誤植は出版にはつきもので、徹底的に校正して、もう大丈夫と思っても、後でミスがみつかったりするものです。しかし、著者の場合、活字の誤植はたいした問題ではありません。本当の問題は、思想の誤植にあります。
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以上、今や社会運動と民衆思想の権威であり、全国にたくさんの教徒をもつ著者の「40年以上にわたるライフワークの集大成」を読んできました。正造、前田、安里、貝澤の思想のそれぞれに学ぶべきところがたくさんあることは、著者が紹介している通りでしょう。しかし、民衆とは何かを考えた時、民衆が民衆であるが故に正当であるという発想は厳しく戒める必要があります。民衆はファシズムの担い手になることもあれば、侵略の手先になることもあるのです。「侵略容認の民衆思想」「女性差別実践の民衆思想」--このことに自覚的であり、自ら問い続けることがなければ、無残で滑稽で危険な民衆思想しか生まれようがありません。