グランサコネ通信2010-20
2010年8月4日
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1)8月2日
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朝から終日小雨が降ったりやんだりの寒い一日。夜は布団1枚では足りず毛布を追加。
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諮問委員会(2~6日)がパレ・デ・ナシオンで開会しました。夏の会期は5日、冬は1月に5日、年間2週間(10日)です。昔の人権小委員会は夏に4週間でしたから、ちょうど半分。キスンビン議長(フィリピン)が選ばれ、まず亡くなったマルティネス委員のため黙祷。個人通報作業部会のマルティネスの後任はベンゴア委員(チリ)に決まりました。実力派マルティネスがいなくなって、ますますワルザジ委員(モロッコ)が大活躍して、大ボス状態。議題一覧を見ると、女性の権利がなくなったわけではないのですが、今会期は取り上げないようです。また、キスンビン議長は、「女性の権利」を「ジェンダー・パースペクティブ」に変えようといっていました。会場はガラガラです。優に500以上入るところに100人もいません。委員18人、事務局が20人ほど、政府はほとんど欠席で30~40人程度、メディア席に5人、NGO席には私を含めて3~5人。もちろん出たり入ったりがあり、NGOのなかには政府席のあいているところに座っている人もいるので正確なことはわかりませんが。それにしても驚くべきガラガラ状態。人権委員会が人権理事会に「格上げ」され、人権小委員会が諮問委員会に再編されたわけですが、人権小委員会の機動性が失われて、諮問委員会は人権理事会からいわれたことをやるだけの下請機関になり、議題が絞られたため、かつて押し寄せたNGOは、ほとんどいなくなりました。昼食時にレストランであったNGOメンバーは、午前中はパレ・ウィルソンの人種差別撤廃委員会に言っていたそうです。諮問委員会に期待できることが激減したためです。議題の採択の後、ハンセン氏病者の権利の議題に入りました。坂元茂樹委員が準備した報告書のプレゼンテーション。内容はハンセン氏病者とその家族に対する差別撤廃のための諸原則とガイドラインです。数年がかりでつくってきた諸原則とガイドラインが仕上がってきました。午前の終わりから午後の前半はこの議論。実に顕著だったのは、この議題で発言した政府が日本政府ただ一つだったことです。たいていの議題では10~20カ国が発言するのが当たり前なのに、この議題は日本政府専用。もちろん重要な議題ではありますが、なぜ、いま、諮問委員会でハンセン氏病かといえば、日本政府が、これは重要だ、ぜひとも一日かけて議論すべきだと頑張っているからでしょう。ハンセン氏病は現代世界で最も重要な人権問題の一つだ、戦時性暴力など議論している暇はない、というわけです。でも、発言した政府は日本だけ。
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2)8月3日
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諮問委員会午前は、失踪の議題でした。失踪問題グループのユセイノフ委員(アゼルバイジャン)とハインツ委員(ドイツ)によるイントロダクション、続いて数人の委員の発言、アルゼンチン、アルメニアなど政府発言、2つのNGO発言がありました。失踪事件に関して、国内法で恩赦をしてしまう問題をどう規制するか。国際的なモニター・メカニズムは可能か。失踪の定義は明確か、といった議論。NGOのインディアン・ムーブメント・トパク・アマルIMTAは、ラテンアメリカの軍事独裁政権による失踪は、もともとスクール・オブ・アメリカによる誘拐、殺害、拷問の訓練の結果であると厳しい批判をした上で、最近、CIAが誘拐と拷問による秘密取調べをしているのにEU諸国は知らないふりをしていると徹底批判しました。この時だけ、会場の和やかな雰囲気が消えました。最後にユセイノフ委員とハインツ委員がまとめの発言をしましたが、他の全ての発言者の名前に言及して、一つひとつリプライしたのに、IMTAの名前は出さず完全に無視しました。諮問委員会の限界が露骨に表面化しました。
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午前の最後に、キスンビン議長の許可を得て、日本政府が前日のハンセン氏病者に関連して発言しました。なんだか妙な発言だなとは思っていましたが、途中、ガイドラインの5.5の修正案だと言って、修正案を読みあげようとした瞬間、ワルザジ委員がポイント・オブ・オーダー。「このガイドラインは昨日のセッションで採択して決定したのに、なぜ今日になって突然、こうした修正案が出るのか理解できない」と議長に抗議(ワルザジさん、はっきり怒っていました)。議長もあわてて、「日本政府がgeneral commentを求めたので許可した。修正案の提案とは知らなかった」。シツルシン委員(モーリシャス)も、「採択が終わってから修正案というのは聞いたことがない。昨日、発言の機会があったのに」。議長が「私も同じsentimentだ。委員はみなワルザジさん、シツルシンさんと同じsentimentだと思う。日本政府は、別のしかるべき場所で発言していただくことにして、本日はこれで終了します」。日本政府が手を上げていましたが、無視されました。いったい何だったのかよく分かりませんが。
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3日午後、諮問委員会は非公開だったので、レマン湖畔のパレ・ウィルソン(人権高等弁務官事務所ビル)へいって人種差別撤廃委員会CERDを傍聴しました。今会期最初の報告書審査はエルサルバドルでした。
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3)湖畔の読書
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鈴木邦男・北芝健『右翼の掟 公安警察の真実--日本のタブー、二大組織の謎を解く』(日本文芸社、2010年)
一水会の鈴木さんと、元警察官作家の北芝さんによる1冊。鈴木さんはこのところ『愛国の昭和』『愛国と米国』『右翼は言論の敵か』『失敗の愛国心』など続々と出しています。特に『愛国の昭和』は非常に重要な名著です。非国民にとっても必読書です。北芝さんの本は読んだことがありませんが、かなり良く売れているらしいことは知っていました。両者激突の本なので少し期待したのですが、期待はずれ。前半の鈴木さんによる右翼の解説は、すべて鈴木さんが何度も書いてきたことの繰り返しです。公安警察についての北芝さんの解説も、一部ご本人の体験の部分は別として、公安警察の組織についてはすでに知られていることばかりです。それでも、後半の2人の対談は、と期待しました。元公安警察官ならではの発言もたしかにあります。しかし、冒頭に鈴木さんが「こんな本を出して大丈夫なのか。危ない。出版をやめてもらおうかと真剣に悩んでいる。迷っている。いや、怯えている。でも、もう手遅れだろう。何事にも限度がある。危険水域がある。タブーがある。しかし、それを突破してしまった。慌てて伏字にしてもらった所も多い・・・・・」と書いていますが、いささか羊頭狗肉。本書の伏字は、たとえば、「どこかのプロダクション」が自民党のある政治家に「某女優」を斡旋した話ですが、政治家の名前が伏字になっています(239頁)。でも、もともと「どこかのプロダクション」が「某女優」を、となっているので、要するに、そのテの世界では良く語られている噂話と変わりません。情報価値ゼロです。もう一つ例を挙げると、北芝さんの解説文の中で、「国益に反する、反日有害活動を行う外国人組織も監視対象だ」とあり、その次に3つ伏字となっている言葉が並んでいます。一つ目は4文字で最後だけ「連」(146頁)。2番目は2文字でうしろが「団」、3つめも2文字でうしろが「湾」。そのあとに中国が出てきます。これって伏字の意味があるのでしょうか。朝鮮総連、民団、台湾です。公安の監視対象である/だったことを知らない人はいません。誰でも知っている周知のことです。「日本のタブー」「新右翼の重鎮と元刑事が明かす」「命を懸けた者たちの暗闘の実態が明かされる」という宣伝文句で売り出している本が、これでは、ちょっと。
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島田裕巳『葬式は、要らない』(幻冬社新書、2010年)
自称宗教学者の本です。日本は葬式大国で世界一お金をかけているそうです。平均費用231万円。その歴史的な理由が分析されるとともに、こうした「贅沢」はこれからなくなるだろうと葬式無用論を展開しています。昨年、母親、今年、父親の葬式を済ませ、7月にお墓も立てた私としては、無用なことにお金を使ったと思わされる1冊です。お金が掛かるのは葬儀だけではなく、例えば戒名料もあります。著者によると、戒名は仏教の教えとは何の関係もないそうです。僧侶は戒名のつけ方を勉強することもないそうです。知りませんでした。さらに、破戒僧に戒名を授ける資格があるのか、とか。戒名は自分でつけることもできるそうで、作家の山田風太郎は自分で「風々院風々風々居士」とつけたそうです。いいことを教わりました。両親の戒名はお寺さんにつけてもらいました。2字ほど私の希望の文字を入れてもらいましたが。私の時は自分でつけようか。ついでにお寺さんの戒名をつけてあげようかしらん(笑)。
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宮下規久朗『ウオーホルの芸術--20世紀を映した鏡』(光文社新書、2010年)
元都美館学芸員でカラヴァッジョ研究者の著者は、ウオーホルの研究もしていました。都美館には、東京5美大展でお世話になってきたので、どこかですれ違ったことがあるかもしれません。「孤独なトリックスター」ウオーホルは、毀誉褒貶が激しく、関連本は多いものの、その芸術を正当に評価したものがないそうで、本書はその試み。「マリリン・モンロー」「プレスリー」「毛沢東」で有名なウオーホルですが、単に有名人を取り上げたのではなく、底流に流れる一貫したテーマは、「死」でした。初期のモンローの時点ですでに「聖と俗」がテーマであり、やがて「死の恐怖」に向かい「死と惨禍」シリーズにつながります。現代都市における突然の事故死に注目が集まります。さらに公権力による死として、電気椅子、人種暴動に際しての警察暴力、凶悪指名手配写真が取り上げられ、ウオーホルはアメリカのトップ・アーティストになります。アヴァンギャルドであり、サブカルチャー復権のアンダーグラウンド芸術であり、なおかつトップ・アーティストであり、マルチメディア・アーティストだそうですが、一面ではポリティカル・アートの草分けともいえます。本書では、美術と芸術、美術とデザインの区別がなされていません。美術とデザインを総合した造形を標榜してきた造形の観点から見ると、ウオーホルは、美術の時代からデザインの時代への発展期に、その境界で多彩な作品を仕上げていたといえます。キャンベル・スープ缶やコカコーラ壜が典型ですが、商業デザインを絵画に取り込み、その「絵画」を大量生産・販売した手法は、完全にデザイン的発想です。ファイン・アートからは反発が出ます。このあたりをもう少し掘り下げて欲しかった。
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4)菅政権への要請書
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MLに韓国併合100年の日の政権の声明に関する要請書が流れていました。重要なので貼り付けておきます。歴史偽造教科書を作る会は、菅政権による声明を阻止する行動を呼びかけています。
要 請 書
2010年 7月 28日
内閣総理大臣 菅 直人 様
日本軍「慰安婦」問題解決全国行動2010
〒169-0051東京都新宿区西早稲田2-3-18 AVACOビル2F
e-mail:ianfu-kaiketsu@freeml.com fax: 03-3202-4634
戦時性暴力問題連絡協議会
e-mail:lippo.forCW@gmail.com
今年も8月が近づいてまいりました。戦後65年目を迎える今年の8月は、韓国併合から100年目の8月でもあります。この8月に、日本政府がどのような立場を表明するのか、アジアが、そして世界が注目しています。私たち日本の市民の間でも、民主党が政権の座にある今年こそ、長年の宿題を果たす絶好の機会という期待が高まっています。
そのような中、去る7月7日には仙谷由人官房長官が日本外国特派員協会での記者会見で、韓国との戦後処理について質問を受け、「一つずつ、あるいは全体的にも、この問題を改めてどこかで決着を付けていくというか、日本のポジションを明らかにする必要があると思っている」と述べ、日韓請求権協定で消滅したとされる個人の請求権について「法律的に正当性があると言って、それだけで物事が済むのか」と発言されました。私たち日本軍「慰安婦」問題の解決を望む市民は、この発言を心から支持、歓迎すると共に、このような姿勢が8月に政府の見解として明確に示されることを切に願うものです。とりわけ世界が注目する「慰安婦」問題に関して、解決へのメッセージが盛り込まれることを切望しています。
民主党は、野党時代の2000年4月に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を参議院に提出し、翌2001年(第151国会)以降は社民党、共産党と共に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を8回にわたって提出、この間、日本軍「慰安婦」問題解決のために先頭に立って尽力して来られました。
そのような民主党の長年の努力は、アジアの被害者たちの心を打つものでした。民主党政権がこの8月に、これまでの姿勢を貫く決意を表明するならば、自民党政権時代に凍り付いた被害者たちの心にもあたたかな日差しが射すものと確信します。また、国連各機関をはじめとした国際社会に対しても、過去を直視し人権を尊重する国家としての認知を促し、東アジア共同体という未来を拓く一歩にもなるはずです。
そしてその機会は、謝罪し補償すべき対象の存命中にしか得ることはできません。韓国では、これまでに確認された「慰安婦」被害者234人中、わずかに83人が生存しているだけとなりました。中国、台湾、フィリピン、インドネシアなど各国から被害者の訃報が届く度、焦燥感にかられます。
「過去の戦争の責任を取らなかった国」という負の遺産を次の世代に負わせるわけにはいきません。とりわけ韓国併合100年、戦後65年を迎える今年こそ、きちんとしたけじめを付けなければ、もう機会は残されていないと考えます。
アジア各地で日本政府の誠実な対応を待ち望んでいる「慰安婦」被害者たちに希望を与えるメッセージを発信していただきますよう、切に要望いたします。
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5)デュナンと赤十字
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旅する平和学(31)
国際人権の町ジュネーヴ(二)
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ルソーとヴォルテールが去ったジュネーヴを国際都市に押し上げることになったのは、赤十字国際委員会が設置されたことに一因がある。主役はアンリ・デュナンである。
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デュナンの着想
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一八五九年六月二四日、ミラノ(イタリア)の東にある田舎町ソルフェリーノで、デュナンは戦争の悲惨を目の当たりにした。イタリア統一戦争の一コマである。近代国家イタリアを創出するために、サルディニアのエマヌエル2世は、フランス軍の支援を受けて、ヨーセフ皇帝のハプスブルク・オーストリア軍に挑戦した。
当時の戦争では、兵士は文字通り「使い捨ての駒」にすぎなかった。負傷しても助けはほとんどなく、放置された。倒れた味方を乗り越えて敵陣へと突入していく兵士。救護の手が差し伸べられたのはごく一部だ。救護班は味方の兵士しか救護しない。
ソルフェリーノで悲惨な現実を目撃したデュナンは、地元の村人に呼びかけて、放置された負傷兵の救護活動を行なった。故郷ジュネーヴに戻ったデュナンは、一八六二年、『ソルフェリーノの思い出』を出版した。戦場の負傷兵に関する人道問題を検討したデュナンは、国際救護団体を組織して、敵も味方も区別なく負傷兵を救護すること、そして救護者に対しては両軍とも攻撃してはならないと訴えた。
アンリ・デュナンは、一八二八年にジュネーヴに生まれた。父親は実業家で、スイス連邦政府の議員やジュネーヴの裁判官も経験した。デュナンは、ポール・ルラン・エ・ソーテ銀行に就職し、後にアルジェリアに派遣されて製粉会社設立に携わった。ソルフェリーノの戦いに遭遇したことで、デュナンの人生は激変した。実業家から赤十字への転進である。『ソルフェリーノの思い出』は、ヨーロッパに大きな反響を呼んだ。そして、ジュネーヴ公益協会のモアニエ会長は、総会でデュナンの提案を採用し、国際救護団体問題を検討する五人委員会設立を決定した。
一八六三年二月一七日、ギュスタヴ・モアニエ(法律家)、アンリ・デュフール(将軍)、ルイ・アッピア(医学博士)、テオドル・モノワール(医学博士)、そしてデュナンからなる五人委員会の最初の会合が開かれた。この日が赤十字誕生の記念日とされている。
続いてヨーロッパから一四カ国の代表が集まったジュネーヴ会議で、五人委員会の提案が検討され、各国に救護団体を設立することを取り決めた赤十字規則(ジュネーヴ国際会議決議)が採択され、各国に委員会を設置し、開戦の場合にあらゆる手段をもって軍隊の衛生に助力すること、委員会は戦時において当該国軍のために救護することになった。組織のシンボルとして、白地に赤の赤十字が採用された。赤十字発祥の地であるスイス国旗を逆にしたものである(イスラム諸国では赤新月が使用されている)。赤十字設立が各国で進められることになった。しかし、救護団体をつくるだけでは十分ではない。救護者を攻撃しないことを各国に守らせなければ赤十字の活動は成り立たない。そこで、一八六四年、「戦地軍隊傷病者の保護に関するジュネーヴ条約」が採択された。戦地における病院は局外中立とみなすこと、負傷者は保護することを宣言し、救護者を局外中立とした。さらに、国籍を問わずに救護すること、敵の負傷者も救護することも確認された。赤十字は国際条約の裏打ちを得た組織として成立した。
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人道の原則
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赤十字国際委員会は、一五以上二五人以内のスイス人によって構成されることになっている。戦争、内戦や国内の騒乱事件の犠牲者に対して人道支援を行い、赤十字の基本原則が守られるように監視し、ジュネーヴ諸条約の理解を求め、国際人道法の普及に努力している。
一方、国際赤十字・赤新月社連盟は、各国の赤十字・赤新月社の国際的な連合体である。第一次世界大戦終了後に、米英仏伊日の赤十字社代表が、赤十字を国際連盟に匹敵する組織に連合することを決めた。連盟は、各国の赤十字・赤新月社の人道支援活動を推進し、各国間の連絡調整を行い、災害被災者への救援を行う。各国赤十字・赤新月社は、紛争や災害時の傷病者救護、平時における災害対策、医療保健、国際人道法の普及に努力している。
赤十字の最高決定機関として赤十字・赤新月国際会議が開かれる。赤十字国際委員会、連盟、各国代表に、ジュネーヴ条約加入国政府代表を加えた構成であり、政治的性格をもつ討論は行わず、人道援助と救護に関する基本方針を議論する。一九六五年の「赤十字基本原則」に明記されている。
①人道――赤十字の目的は生命と健康を守り、人間の尊重を確保することにある。すべての国民間の相互理解、友情、協力および堅固な平和を助長する。
②公平――国籍、人種、宗教、社会的地位または政治上の意見によるいかなる差別もしない。ただ苦痛の度合いにしたがって個人を救護することに努める。
③中立――すべての人から信頼を得るため、戦闘行為の時いずれの側にも加わることを控え、いかなる場合にも政治的、人種的、宗教的性格の紛争には加わらない。
④独立――各国の赤十字・赤新月社は、その国の政府の人道事業の補助者であり、その国の法律に従うが、つねに赤十字の原則に従って、その自主性を保たなければならない。
⑤奉仕――赤十字・赤新月社は、利益を求めないヴォランタリーな奉仕をする救護組織である。
⑥単一――ひとつの国にはひとつの赤十字・赤新月社しかありえない。赤十字・赤新月社はすべての人に門戸を開いている。
⑦世界性――赤十字・赤新月社は世界的機構であり、各社は同等の権利をもち、相互援助の義務を持つ。
デュナンという個人の着想に始まり、ジュネーヴ市民が欧州諸国に呼びかけた赤十字を、国際社会が認知したのである。国際人道法のはじまりは市民の手によるものであった。ジュネーヴ条約といえば赤十字であり、赤十字は国連とは別な立場で人道活動を展開してきた。国際人道法分野でも、ハーグ法と並んでジュネーヴ法が大きな位置を占める。第二次大戦後、一九四九年のジュネーヴ四条約が締結され、さらに一九七七年に二つの追加議定書が整備され、現在の国際人道法体系が成立した。