グランサコネ通信2010-21 conti.
2010年8月6日
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2)JWCHR発言の背景
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以下は春に「救援」(救援連絡センター)に書いた文章です。
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平和的生存権の国際的な展開
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法典化の試み
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三月一九日、ジュネーヴ(スイス)の国連欧州本部会議室で、NGOの国際民主法律家協会(IADL)主催のセミナー「人民の平和への権利の促進」が開催された。チャールズ・グレイブス(インターナショナル・インターフェイス)の司会のもと四本の報告があった。
塩川頼男(IADL)「高度に発展した、しかし実は発展途上国における人民の平和への権利」、コリン・アーチャー(国際平和ビューロー)「発展のための軍縮」、クリストフ・バルビー(軍隊のないスイス運動)「軍隊のない国家と平和憲法」も興味深かったが、なかでも注目されたのは、デヴィド・フェルナンデス・プヤナ(スペイン国際人権法協会)の報告「平和への権利の法典化」である。
プヤナ報告によると、二〇〇六年一〇月三〇日、スペインの専門家による「平和への権利に関するルアルカ宣言」が採択され、四年間の世界キャンペーンに取り組み、世界各地に紹介し、国連人権理事会にも報告してきた。その議論を通じて、ルアルカ宣言についての理解が深まり、追加・補充がなされてきた。これを受けて二〇一〇年二月二四日に一四人のスペインの専門家が「平和への権利に関するビルバオ宣言」を採択した。
両宣言を準備したスペインの専門家や平和運動が共有しているヴィジョンは、平和とはすべての形態の暴力が存在しないことである。直接暴力(武力紛争)、構造的暴力(経済的社会的不平等の帰結、極貧、社会的排除)、文化的暴力である。法律的見地からは、平和とは国連憲章の基礎であり、世界人権宣言その他の人権文書の指導原理であり、平和そのものが人権と考えられるべきである。
ビルバオ宣言は、今後の国際起草委員会の作業を促進するものであり、二〇一〇年五月末にバルセロナで集会を持ち、さらに同年一二月にサンティアゴ・デ・コンポステラで開かれる「平和への権利NGO国際会議」でまとめられる。最終文書を国連人権理事会に提出し、平和への権利の法典化を各国に求めていく。
スペイングループは、国連人権理事会で平和への権利決議を採択させるために努力し、理論的研究も続けてきた。国連人権理事会の次の会期に平和への権利作業部会を開くよう提案している。そのための文書提出もしてきた。人権理事会は、二〇〇八年決議八/九と二〇〇九年決議一一/四を採択し、人権高等弁務官事務所に、二〇〇九年一二月にジュネーヴで人民の平和への権利に関する専門家ワークショップを開催するよう指示し、人権理事会レベルの動きも続いている。
スペイングループなどNGOは、一九四五年の国連憲章、一九四八年の世界人権宣言、二〇〇五年の世界サミット文書、同年一二月の国連総会決議といった法的基礎を確認し、議論を続けてきた。一九八四年の国連総会「人民の平和への権利に関する宣言」や、ニ〇〇〇年の国連ミレニアム宣言も重要である。
プヤナ報告によると、人権理事会および諮問委員会におけるさらなる議論と、NGOの研究を通じて、平和への権利の法典化をさらに求めていくという。
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人権理事会決議
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プヤナ報告が触れているように、二〇〇九年六月一七日の人権理事会決議は、われわれの惑星の諸人民は平和への聖なる権利を有するとし(第一項)、その権利保護はすべての諸国の基本的責務であり(第二項)、すべての者にすべての人権を促進保護するために平和が重要であることを強調し(第三項)、人間社会が富める者と貧しい者に分断され、発展した世界と発展途上の世界の間に溝があることが、平和や人権にとっての主要な脅威となっていると強調し(第四項)、平和、安全、発展、人権が国連システムの柱石であることも強調し(第五項)、人民の平和への権利行使のために、各国の政策が、国際関係における戦争の脅威の廃絶、武力行使とその脅威の否認を要求することを強調し(第六項)、すべての諸国が、国際平和と安全の確立、維持、強化を促進すべきであることを確認し(第七項)、すべての諸国に国連憲章の諸原則と目的を尊重するよう促し(第八項)、すべての諸国に、国際紛争を平和的に解決し、国際平和と安全を維持するよう再確認し(第九項)、人民の平和への権利を実現するために平和のための教育が重要であることを強調し(第一〇項)、国連人権高等弁務官に、ニ〇一〇年二月までに人民の平和への権利に関するワークショップを開催して、この権利の内容と射程を明らかにし、この権利実現の重要性の認識を高めるための措置を提案し、各国に具体的な行動を提案するよう求め(第一一項)、その報告書を人権理事会に提出するよう要請し(第一二項)、各国にこの討論に注意を払い協力するように促し(第一三項)、この議論を継続的に行うことを決定した(第一四項)。
賛成は三二カ国(アンゴラ、アルゼンチン、アゼルバイジャン、バーレーン、ボリヴィア、ブラジル、ブルキナファソ、カメルーン、チリ、中国、キューバ、ジブチ、エジプト、ガボン、ガーナ、インドネシア、ヨルダン、マダガスカル、マレーシア、モーリシャス、メキシコ、ニカラグア、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、カタール、ロシア、サウジアラビア、セネガル、南アフリカ、ウルグアイ、ザンビア)。反対は一三カ国(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、オランダ、韓国、スロヴァキア、スロヴェニア、スイス、ウクライナ、イギリス)。棄権はインド。
平和的生存権は、一九六〇年代、自衛隊基地をめぐる恵庭訴訟、長沼訴訟の闘いのなかで平和運動・弁護士・憲法学者が、憲法前文と第九条をもとに主張し、理論化し、平和の闘いの武器とした。それが今日でも平和運動の一つの柱となっている。二〇〇八年四月の名古屋高裁におけるイラク自衛隊派遣違憲訴訟判決にもその射程が及んでいる。
しかし、スペインの法律家たちは、そのことをあまり知らないようである。もちろん欧州の平和運動家たちは第九条をよく知っている。日本政府が第九条をまったく守っていないことも知られている。同時にヒロシマ・ナガサキもよく知られている。
しかし、日本における平和的生存権の議論自体はあまり知られていないようだ。プヤナ報告者も、第九条のもとで様々な議論が行われているであろうことを一般的には知っていた。しかし、日本における平和的生存権の思想と論理をよくは知らなかった。
いま、国際人権法分野で平和への権利が体系化されようとしているのに、第九条はあまり貢献していない。ルアルカ宣言やビルバオ宣言の運動の中で、第九条は参考にするべき法律文書として掲げられていない(もっとも、作業過程において参照されたことがあるか否かは不明である。どこかの時点で参照されたのではないかと推測しているが)。
それどころか、日本政府は、ニ〇〇九年の国連人権理事会決議一一/四に、反対投票している。政治家も学者もNGOも監視していないから、外務官僚が勝手に決めている。今からでも遅くはない。第九条が「平和への権利の法典」に貢献できるように、平和運動の努力が求められている。
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3)オーランド・新渡戸裁定の絵
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オーランドの絵を見つけました。
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いや、オーランド諸島を描いた絵ではなく、オーランド諸島を非武装自治の島と決めた国際連盟会議の様子を描いた絵です。パレ・デ・ナシオン(国連欧州本部)の旧館(国際連盟時代の建物)と、新館(国際連合になってから増築された建物)をつなぐ渡り廊下のすぐそばの、廊下にかけられていました。何度も通った場所なので驚きました。知識のないときには見過ごしていた絵です。非武装・中立・自治の島、オーランド諸島のオーランド平和研究所が発行した本『平和の島オーランドIslands of Peace, Aland Islands』に写真が掲載されています。そして、首都マリエハムンのオーランド政府の建物の壁にレプリカが飾ってあります。実物はジュネーヴの国連欧州本部にあると聞いてきました。その絵を、ようやく見つけました。ようやく、は嘘で、たまたま見つけました。国際連盟の会議の様子を描いたもので、中心で立って説明しているのがたぶん新渡戸稲造・国際連盟事務次長です。新渡戸裁定によってオーランドは稀有の非武装・中立・自治の島になりました。窓の外にはレマン湖が描かれています。遠く向こうにモンブラン。この絵の場所は、たぶん現在、パレ・ウィルソン(国連人権高等弁務官事務所ビル)のある場所です。
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以下は、かつてオーランドについて書いた文章の一部です。
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旅する平和学(12)
非武装・中立のオーランド(一)
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バルト海のオーランド諸島(フィンランド)は非武装・中立・自治の島として知られる。朝鮮半島の非武装地帯とはまったく意味が違う。国際社会の支持を受け、周辺諸国の承認のもとにある「平和の島」である。フィンランド領なのに、独自の中立政策を認められているのはなぜだろうか。
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アーキペラーゴの要塞
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ストックホルム(スウェーデン)からオーランド諸島の首都マリエハムン行きの大型遊覧船に乗る。小さな子どものいる家族連れの客が目立つ。一日観光に出かけて、船の中の免税店でお土産(酒、煙草、化粧品など)を大量に買って帰るのだ。オーランドにはフィンランド本国とは異なる関税制度がしかれて格安のためスウェーデン客が押し寄せる。オーランドの観光収入となる。遊覧船には子ども向けの施設もあるから遊ばせておけばいい。大人はデッキでビール片手に生バンド演奏を楽しめる。
船はストックホルム海域のアーキペラーゴ(群島)を抜けて進む。オーランドもアーキペラーゴの海/島だ。地図で見るとデンマーク北部、ノルウェー、スウェーデン南部、そしてフィンランドにかけて同じような海/島が続く。オーランドはアーキペラーゴそのものだ。陸地面積は沖縄より一回り大きい一五〇〇平方キロなのに、島の数は六五〇〇もある。日本列島の島が三三〇〇だから、その多さがよくわかる。一軒の家屋建物がポツンと建っているだけの島、小さな灯台があるだけの島、何もない吹きさらしの岩などが続く。島というよりも岩といったほうが適切なものが多い。ともあれ全体でオーランド諸島である。
一七世紀、スウェーデンは「バルト帝国」とも呼ばれる勢力を誇って近代化の道を歩んでいた。オーランドはスウェーデン領であり、スウェーデン語を話すスウェーデン人が居住していた。ところが一八世紀初頭、ロシアがスウェーデンに攻撃を仕掛け大北方戦争となり、ロシアはフィンランドとオーランドを獲得した。その後、オーランドはフィンランドの一部としてロシアの支配を受けた。
オーランドはバルト海の奥、ボスニア湾の入口にある。バルト海域諸国にとってはまさに要衝の地である。ロシアは一八五〇年代、オーランドに要塞建設を始めた。現在の首都マリエハムンから車で三〇分ほどの海峡に面した、巨大な要塞ボーマルスンである(日本では英語読みのボマースンドという表記が用いられてきた)。
一八五三年、ロシアとトルコのクリミア戦争が始まると、イギリスとフランスは、ロシア封じ込めのためにトルコ側についた。一八五四年、英仏艦隊はボーマルスンに総攻撃をかけた。建設途中のボーマルスンは徹底破壊され、廃墟となった。
ボーマルスン遺跡を訪れると、大半が崩壊した石壁を見ることができる。砲台の壁には当時の爆撃痕も残されている。無残な遺跡がアーキペラーゴの海を見つめている。近年、遺跡の調査・研究が進んでいる。
一八五六年、イギリスとスウェーデンが中心となったパリ講和時の協定は、ボーマルスンを含むオーランドの非武装化を決定した。オーランド非武装・中立化の第一段階である。
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新渡戸裁定
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一九一五年、第一次大戦の渦中、ロシアは再びオーランドに軍事施設を建設しようとした。ここでも利害が錯綜する。ロシアはドイツの進出を恐れた。オーランドはストックホルムの沖合にあるので、スウェーデンにとってはロシア軍の存在が脅威となる。フィンランドから見ればスウェーデン軍が脅威となる。こうした中、オーランド島民は、当時の民族自決権の高まりの影響を受けて、フィンランドからの分離、スウェーデンへの編入を求めた。オーランド島民はスウェーデン人である、と。
ロシアの要塞建設はロシア革命のために終わったが、オーランド帰属問題が残された。スウェーデンとフィンランドの対立が激しくなる。民族自決権をたてにするスウェーデンに対抗して、フィンランドは一九二〇年、オーランド自治法を制定し、領土を確保しつつ住民自治を認めた。しかし、頭越しの法律をオーランド島民は受け入れなかった。
紛糾を見かねたイギリスが間に入り、スウェーデン=フィンランド紛争を、発足間もない国際連盟に付託して、その判断を仰ぎ、両国はその決定を受け入れるとの約束を結んだ。
こうして舞台はジュネーヴの国際連盟に移った。国際連盟理事会は、①オーランドの主権はフィンランドにある、②オーランドには自治権が認められる、③オーランドを非武装・中立とする、という裁定を下した。この提案は、国際連盟初代事務次長であった新渡戸稲造によるものだという。理事会の様子を描いた絵画が国連欧州本部に残されていて、理事会の席で立ち上がって演説をしている日本人の姿が確認できる。窓の向こうにはレマン湖とモンブランが見えるので、現在のパレ・ウィルソン(人権高等弁務官事務所)の会議室だろうか。連盟裁定は新渡戸裁定とも呼ばれる。
国際連盟理事会にオーランド島民は招請されず、再び頭越しの決定であったが、フィンランド政府は、オーランド島民のスウェーデン語や伝統・文化を尊重することにし、オーランド島民はオーランド自治法を受け入れることにした。
一九二一年、スウェーデン、フィンランド、ドイツ、フランス、エストニア、ラトヴィアなどがオーランド諸島非武装中立化の協定を締結した。これにより、①フィンランドはオーランドに軍事施設を置くことも、武器弾薬の製造・搬入・搬出も禁止された。②特別な場合に海軍が一時寄港する例外を除いて、陸海空軍の駐屯も禁止された。③オーランドは中立地帯であり、いかなる軍事利用も禁止された。フィンランドは、紛争の際にもオーランドを戦争の局外に置くことになった。ロシア革命政府はこれを認めなかったが、一九四〇年にフィンランド=ソ連邦条約で確認された。これがオーランド非武装・中立化の第二段階である。
さらに、オーランド島民は兵役を免除されている。一九二〇年の自治法がすでに島民に兵役代替制度を認めていた。兵役免除は非武装化の帰結であるとともに、自治権としての居住権と結びつき、スウェーデン語の尊重と関連すると理解されている。
スウェーデンへの帰属を求めたオーランド島民は当初は不満を持ったが、その後、非武装・中立・自治にオーランド・アイデンティティを見いだすようになり、「平和の島」を唱え、紛争予防・紛争調停の「オーランド・モデル」を語るようになった。今日でもオーランド自治政府や平和研究所が、世界に向けて平和研究のメッセージを発信し続けている。
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4)8月4日
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諮問委員会は、食糧の権利の審議でした。ジーグラー委員、ベンゴア委員、ズルフィカー委員が主に議論。大土地所有のもとのさとうきびなどの農場に関連して、先住民族の土地の剥奪、モノカルチャーによる一国経済の混乱、貧農などの労働権の喪失などが取り上げられ、流通メカニズムも含めて富の偏在と貧困の強制が問題だとして議rんが盛り上がっていました。ひいては資本主義生産様式そのものの問題性になるはずですが。ただ、議論がどんどん大きくなっていくばかりで、実体的権利としての食糧の権利が空中分解しかねませんが。
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5)8月5日
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諮問委員会は、人民の平和への権利と、国際分野における人権の協力の審議でした。人民の平和への権利は当初の予定議題には含まれていませんでしたが、2日の開会後の議論で、6月の人権理事会決議を受けて諮問委員会でも議論するべきとのことで議題となりました。諮問委員会での特別報告者はハインツ委員、他に担当が鄭鎮星委員、ズルフィカー委員、デコー委員。特にめぼしい議論はありませんでしたが、カルタシュキン委員が、平和への権利は、政治用語としてはわかるが、法律用語としては熟していないと盛んに強調していました。NGO発言は、冒頭にデビド・フェルナンデス・プヤナ(スペイン国際人権法協会)が、これまでのルアルカ宣言、ビルバオ宣言、今年6月のバルセロナ宣言を踏まえて諮問委員会に提出したNGO文書を紹介。アルフレド・デ・ザヤス(国際人権協会)が、プヤナ発言を受けて、集団的権利としての人民の平和への権利について論じ、ミシェル・モノー(国際友和会)が、反テロと平和の権利について話し、次に国際人権活動日本委員会が、NGO文書を支持し、加えて9条世界会議の紹介。最後にクリストフ・バルビーが軍縮と軍備撤廃へ向けた世界の動向について触れました。前日の謀議で、発言が重ならないように調整。
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6)のんびり読書
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江刺昭子『樺美智子--聖少女伝説』(文芸春秋、2010年)
60年安保の際になくなった樺美智子の伝記です。著者の関心は、美智子が亡くなったことで60年安保の象徴となり、その後の左翼運動の象徴ともなり、伝説のヒロインに祭り上げられたため、実像とはかなり違うイメージが語られてきたのではないかというものです。家族、高校時代の友人、大学時代の友人、特にブントの関係者などに取材し、ノートや手紙など美智子が残した文章をもとに、美智子の青春を描きます。ブント関係者には、50年たっても語ることを避ける人もいたそうです。ノンポリの一女子学生が殺されたというのは事実ではなく、美智子は共産党に入党し、その後、立ち上げ時のブントの事務局を積極的に担っていたということで、亡くなった後に両親が公表した文章では、そのあたりがあいまいにされていたそうです。勉強熱心で、篤実で、革命意欲に燃えて社会主義文献を読み漁り、かなり教条主義的な発言を繰り返し、20歳の誕生日に共産党に入党し、しかし、60年安保へ向けての激動の中で共産党に見切りをつけた青年たちがブントを結成するや初期の事務局を担ったそうです。帰宅が遅い娘を心配して共産党に入っているのかどうを質問した母親に、「党員なんかじゃないわ」と答えて安心させたのは、嘘ではないが、この時すでに共産党を抜けてブントだったということです。シミタケ、カロウジ、シマ、アオキ、シノハラ、クラタなど60年安保で活躍した当時の若者たちがたくさん登場するので、多くの年配読者が懐かしさに浸ることのできる本です。葉山岳夫(現・弁護士)と救援連絡センターの名前も登場。あの時代の雰囲気を知らない世代にも面白く読めるのかどうか、わかりませんが。なぜか六全協を1956年のことにしています(99頁)が、1955年の誤り。
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常石敬一『原発とプルトニウム--パンドラの箱を開けてしまった科学者たち』(PHPサイエンスワールド新書、2010年)
8月6日の読書。レントゲン、キュリー夫妻、モーズリー、チャドウイック、ボーテ、フェルミ、ハーン、マイトナー、ボーア、フリッシュ・・・20世紀前半の科学者たちの真摯で熱情的な研究が、第一次大戦から第二次大戦にかけての時期に進められ、戦争に巻き込まれていく経過、つまりマンハッタン計画による原爆製造への道をたどります。731部隊研究でも知られる著者の概説。科学者たちの肉声や個性も描きながら、巨大科学が科学を生み出した人間に敵対的となっていく現実を描いています。タイトルは「原発とプルトニウム」ですが、前半は科学史の発展、半ばから原爆製造の話で、原発のことは第7章の「原子力の平和利用」の部分で語られるだけですが、日本が32トンものプルトニウムをためこんでいることの異常さがよくわかります。この種の本は何冊も読んではきましたが、理科系は苦手のためかすぐに忘れてしまいます。時々読んでおく必要があります。「このとき米国は英国からレーダーなどの軍事技術の技術移転を受けた。受けたのだ、有益な情報提供を米国が英国から受けたのだ。」(184頁)は校正ミスか? PHPサイエンスワールド新書は、知りませんでした。本書が17冊目ということでまだ新しいようですが、一般向けの科学啓蒙書です。講談社ブルーバックスが群を抜いていますが、PHPが対抗しようとしているようです。
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7)国連人権理事会
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旅する平和学(32)
国際人権の町ジュネーヴ(三)
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ルソーとヴォルテールがすれ違ったジュネーヴは、デュナンと赤十字国際委員会の町となった。ついで国際連盟本部が設置されたことによって、パリ、ハーグ、ブリュッセルなどと並ぶ国際法の都の一つになった。赤十字関連条約が締結され、軍縮会議が開かれ、ジュネーヴという名は国際法の不可欠の要素となった。
そして、国際連盟本部は、第二次大戦後、国連欧州本部となった。国連欧州本部はパレ・デ・ナシオンと呼ばれ、ジュネーヴ郊外に置かれている。すぐ隣には赤十字国際委員会や国際労働機関がある。国連欧州本部正門前には平和広場があり、横切る通りも平和通りと名づけられている。
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人権委員会の歴史
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国連経済社会理事会は下部機関として人権委員会を設置した。国連は「経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」を目的としているからである(国連憲章第一条三項)。もっとも、二一世紀に入ってからの国連改革の中で、人権委員会は改組され、人権理事会になった。まず人権委員会の歴史をかいつまんでみておこう。
人権委員会は一九四六年に、世界人権宣言起草のために経済社会理事会のもとに設置された。続いて、二つの国際人権規約(市民的政治的権利に関する国際規約、経済的社会的文化的権利に関する国際規約)を起草し、その後も各種の人権条約などを起草した。人権委員会の主な任務は「国際人権基準の設定」と理解された。人権条約に基づく委員会の任務が、各国における条約の履行状況の審査であるのに対して、人権委員会は人権基準の定立を念頭に置いていた。
人権委員会が起草し、後に国連総会で採択された主な人権基準は、世界人権宣言(一九四八年)、ジェノサイド条約(一九四八年)、人種差別撤廃条約(一九六五年)、二つの国際人権規約と選択議定書(一九六六年)、戦争犯罪時効不適用条約(一九六八年)、アパルトヘイト禁止条約(一九七三年)、女性差別撤廃条約(一九七九年)、拷問等禁止条約(一九 八四年)、スポーツ・反アパルトヘイト条約(一九八五年)、市民的政治的権利に関する国際規約第二選択議定書(死刑廃止、一九八九年)、子どもの権利条約(一九八九年)、移住労働者家族権利保護条約(一九九〇年)、女性差別撤廃条約選択議定書(個人通報、一九九九年)、子どもの権利条約選択議定書(子ども買春・ポルノ禁止、二〇〇〇年)、障害者権利条約(二〇〇六年)など多数ある。人権委員会は「人権の促進・伸張」を掲げ、条約以外にも多くの宣言、基準、ガイドライン、決議をまとめてきた。「国際人権教育の十年」のように、個別テーマでの国際キャンペーンも展開してきた。
さらに、人権委員会は「具体的な人権侵害状況への対応」にも取り組み始め、各地での大規模人権侵害に際して調査を行い、人権侵害の抑止、被害者の救済のために努力を重ねてきた。人権基準を定立するためには、現実の人権状況を具体的に把握する必要がある。まずテーマ別の研究が行われた。奴隷制、拷問、人種差別、子どもの権利、女性に対する暴力などのテーマごとに研究が進められた。他方で、国別テーマも設定され、大規模人権侵害が発生した場合に対処してきた。日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)問題も「女性に対する暴力」のテーマで激しい議論の対象となった。
人権委員会は国連組織の一つであるから、人権と同時に国際政治の論理で物事が動いていく。純粋に人権だけで動くわけではない。とりわけ冷戦期には東西対立のために、政治的な非難合戦が行われることも珍しくはなかった。それでも世界人権宣言や国際人権規約という明確な基準が存在したので、人権の論理につねに立ち返る場でもあった。
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人権理事会の創設
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冷戦終結後の国際政治の変動の中で、人権委員会にも変化が求められた。東西対立の影響がなくなり、欧米のリーダーシップが強まった。第三世界における重大人権侵害多発の一方、二一世紀にはいって相次いだ戦争(アフガニスタン、イラク)などの事態に、国連は十分な対応ができなかった。かくして国連改革が迫られた。
日本では安保理事会改革ばかりが注目され、国連改革全体が見落とされがちであった。日本政府は安保理事会常任理事国入りを目指して盛んに努力したが、失敗に終わることは誰の目にも明らかだった。日本政府は安保理以外の国連機関を軽視しているという印象を与え、中国や韓国の反感を買うような政策を推進したため、日本の理事国入りは国際社会から認められなかった。
日本では注目されなかったが、人権委員会改組も大きな改革課題であった。大きな枠組みでは、二一世紀における国連の役割再編という課題であった。他方、アメリカの思惑が大きな影響を与えた。アフガン戦争、イラク戦争などで一国主義的に振る舞ったアメリカへの反感が大きく、ついに人権委員会選挙においてアメリカが落選するという衝撃が、アメリカをして一時は人権委員会軽視に向かわせたが、それでは事態が改善しない。アメリカは逆に人権委員会改革を提案した。人権委員会に相応しくない人権侵害国家が選出されていることを批判するとともに、人権委員会がより機能的、効果的になるべきだとの提案が改革推進の柱となった。
二〇〇六年三月、人権委員会第六二会期は六〇年にわたる委員会の閉幕を宣言した。続いて二〇〇六年六月、人権理事会第一会期が召集された。人権委員会は五三カ国だったのに対して、人権理事会は四七カ国で構成された。年間一回六週間だった会期が、三回以上合計十週間以上となり、特別緊急会期も開催しやすくなった。そして、普遍的定期審査(UPR)が新設された、すべての国連加盟国の人権状況を相互に検証し、改善勧告をまとめる特別手続きである。日本の人権状況も二〇〇八年のUPRで審査を受けた。UPRはすべての加盟国を順次取り上げている。
一方、二〇〇八年末に始まったイスラエル軍によるガザ攻撃について特別緊急会期が召集され、戦争犯罪調査団が設置され、その後、調査が行われ、報告書が公表された。大規模人権侵害に迅速に対処する体制が徐々に整えられている(人権理事会について詳しくは戸塚悦朗『国連人権理事会』日本評論社参照)。