Friday, August 13, 2010

グランサコネ通信2010-27

2010年8月13日

1)8月11日

菅首相談話、International Herald Tribunにも報道されていました。「日本、植民地支配ついて韓国に再び謝罪」。「腰抜け外交」と、首相官邸前で右翼が騒いでいたと。この程度の談話でも、一面では擁護しなくてはならないのが、なんとも。上杉聰さんが、菅談話の積極的側面を見出して、次の運動につなげる課題を提起しています。

他方、ようやく在特会の蛮行が4人逮捕につながりました。当然というか、遅すぎますが。被害者、告発側(弁護団)と警察側で水面下のやり取りがあったのでしょう。報道では詳細がわかりませんが、威力業務妨害が中心になっているようです。名誉毀損罪、侮辱罪、強要罪、器物損壊罪等々、たくさん考えられますが、威力業務妨害に絞ったのは、実行行為と被害結果、そして因果関係の立証が容易だからでしょう。その意味では合理的判断。

もっとも、家宅捜索したようですが、これは過剰な捜査です。威力業務妨害は現場で行われ、被害者証言が多数得られるし、ビデオ映像も残っていますから、証拠は十分なはずです。家宅捜索する必要性がありません。背後関係、共犯関係の解明という口実でしょうが、これを言い出せばすべての事件で家宅捜索できることになり、刑事訴訟法の任意捜査の原則が崩壊します。というか、従来すでに崩壊しています。ビラ配りやビラ貼りでの家宅捜索がそれです。ビラ配りの現場で現認し、実行者を特定して逮捕し、ビラも押収しているし、配布されたビラの回収も行われているのですから、証拠は十分すぎるほどそろっていて、それ以上の捜査は必要ないのに、これを口実に家宅捜索が行われてきました。犯罪捜査とは関係のない、弾圧と情報収集目的です。

「在特会への行き過ぎた強制捜査を許すと、市民運動、反戦運動などへの波及が怖い」という意見が出ているようですが、事実誤認で、完全にピントがずれています。同様の行き過ぎ強制捜査はずっと以前から警察・検察に愛用されてきたのです。逆に、「反戦運動に対して強行されてきた捜査手法が、在特会にも適用された」と見るべきです。問題は誰に適用されたかではなく、<そもそもこのような一般探索的な捜査手法は脱法行為ですから、批判しなくてはならないのです>。裁判官の令状審査はとっくの昔に形骸化していて、チェック機能を果していません。これまでの捜査実務そのものが、過剰であり、法原則を無視しています。

CERDは、フランス政府報告書審査。

フランス政府報告書(CERD/C/FRA/17-19. 22 July 2010)

 フランスにはいくつかの人種差別行為処罰規定があります。最近のものでは、2005年3月25日の法律2005-284号によって、刑法が改正され、公開ではない中傷、侮辱、差別的性質の教唆を犯罪とし、地方裁判所と地区裁判所の管轄としました。

 刑法624-3条は、「その人の出身、又は特定の民族集団、国民、人種又は宗教の構成員であるか構成員でない-現にそうであれ、そう考えられたものであれ-ことに基づいて、人又は集団に公開ではない中傷non-public dafamationをすれば、第4カテゴリーの犯罪に設定された罰金を課す。ジェンダー、性的志向、障害に基づく公開ではない中傷も同じ刑罰を課す」。

  刑法624-4条は、「その人の出身、又は特定の民族集団、国民、人種又は宗教の構成員であるか構成員でない-現にそうであれ、そう考えられたものであれ-ことに基づいて、人または集団に公開ではない侮辱をすれば、第4カテゴリーの犯罪に設定された罰金を課す。ジェンダー、性的志向、障害に基づく公開ではない侮辱も同じ刑罰を課す。」

(両者の特徴は、言うまでもなく、公開でない場における中傷、侮辱に刑罰を課していることです。結構珍しいパターンというか、他の国ではあまり考えられない、相当議論になる規定です。フランスでどのような議論があったのかは、報告書からはわかりません)

次に「人道に対する罪に疑いを挟む」というタイトル(「アウシュヴィッツの嘘」を含む規定)があります。2004年3月9日の法律によって、1881年7月29日の法律に、65-3条が挿入されました。差別、憎悪又は人種主義、又は宗教的暴力の教唆、人道に対する罪に疑いを挟むこと、人種主義的性質の中傷、及び人種主義的性質の侮辱は、他のプレス犯罪に設定されている時効3ヶ月に変えて、1年の時効とする。時効は、インターネットその他いかなるメディアによるものであれ、犯罪が行なわれたときから開始する。

1881年7月29日の法律14条は、外国出版物・新聞のフランス内での流通、配布、販売について内務大臣に許可権限を与えていたが、2004年10月4日の法律によって廃止された。

1936年1月10日の法律は、その出身、又は特定の民族集団、国民、人種又は宗教の構成員であるか構成員でないことに基づいて、人又は集団に対する差別、憎悪、暴力を教唆したことにより訴えられた、又は、同じ差別、憎悪、暴力を正当化する考えや理論を広めたと訴えられた結社、又は事実上の団体に解散を命じる権限を大統領に与えている。

この規定により、2000年以後、3つの団体が解散命令を受けた。Unite Radicale(2002年8月6日)、Elsass Korps (2005年5月19日)、Tribu Ka (2006年7月28日)。

1949年7月16日の法律14条は、青年向けの出版物に関する1987年法律によって改正され、18歳未満の者に提供、贈与、販売されるための出版物が、人種差別や憎悪を含んでいるために、青年にとって危険な場合、出版を禁止する命令権限を内務大臣に与えている。大臣命令によって公開展示や広告も禁止される。2000年以後、この命令が出されたことはない。

フランス政府は、プレスの自由に関する1881年7月29日の法律24bis条によって規定された修正主義の犯罪を、刑法によって規定された人道に対する罪の全てに、つまり、第二次大戦時に行われた人道に対する罪だけではなく、国際裁判所の最終判決で確定した人道に対する罪に拡張することに反対しなかった。

(ナチスの犯罪だけでなく、旧ユーゴ法廷判決で確定した旧ユーゴにおける民族浄化を否定することなどが対象となります)

2008年11月、フランス政府は「人種主義と外国人嫌悪」に関する枠組み決定を採択し、国際刑事裁判所ICCの最終判決で確定した犯罪を否定したり、まったく取るに足りないものとすることに刑罰を課すこととし、今後、そのために国内法を改正するであろうとしている。

2)8月12日

泥棒にあいました。被害はなし。夕方、モンブラン橋のたもとを歩いていたところ、右後ろから自転車に乗った青年がぶつかってきて、よろめいた私が左側の人物にぶつかり、「すみません」とか言っていると、その人物は私を助けて支えながら、しかし、胸元辺りを物色して、何もないので、突然振り向いて走り去っていきました。見ると、自転車青年も並んで走っていきました。2人の後姿を見て、ようやく気づきました。20歳になったかどうかの青年2人組窃盗団です。なかなか手馴れたチームワークでしたが、未遂に終わったのは、私が作務衣を着ていて、内ポケットがどこにあるかわからなかったからです。内ポケットの財布はおへその少し下にあるので、外から盗むのはかなり困難なのです。リュックサックは、両方とも肩にかけていました。日本にいるときは片方しかかけていませんが、旅行先では必ず両肩にかけています。ジュネーブも物騒になったものです。モンブラン橋は町のど真ん中で人が多いところです。人気のないところだと強盗に変身するかもしれません。聞いた話では、自転車組とスケボー組は要注意だそうです。

CERDは、スロヴェニア政府報告書審査でした。内容は後日。

夜は久々に嵯峨野で山かけ、冷奴、お寿司、ヴァレーの白ワイン。ちょっと贅沢。

3)モンレポ公園の読書

ローランド・バーク『脱植民地化と国際人権の発展』(ペンシルヴァニア大学出版、2010年)

 表題を見て直ちに飛びついて買いましたが、内容は1960年代、70年代までのもので、最近のポストコロニアルへの関心は、著者にはもちろんあるのですが、本書では前面に出ていません。著者のプロフィルはラトロブ大学La Trobe Univesityで教えている、ということしかわかりません。謝辞によく出てくるのはメルボルン大学、ミシガン大学の教授たち。

序文:脱植民地化政策と国際人権プロジェクトの発展

1.人権と第三世界の誕生:バンドン会議

2.「目的を手段に変える」:第三世界と自己決定権

3.スタンプを押し返す:アパルトヘイト、反植民地主義、普遍的請願権の偶然の誕生

4.「とてもぴったりだ」:シャーのイランにおける自由の祝福、第1回世界人権会議、1968年テヘラン

5.「それぞれの文明の規範に従って」:文化相対主義の台頭と人権の衰退

結論

2まではとんとん拍子に読めたのですが、3から分かりにくくなり始め、4と5を飛ばして結論を読みましたが、世界人権宣言制定期の世界構想、人権構想や、ICERDの理念に触れているものの、それが現在とどう繋がるのか、そこまで書いていない、とても謙抑的なので、やや不満。後日再読の必要あり。

Roland Burke, Decolonization and the Evolutin of International Human Rights, PENN, 2010.

スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義--はじめは悲劇として、2度目は笑劇として』(ちくま新書、2010年)

 <20世紀末に「歴史は終わった」と高笑いしたリベラル民主主義の時代はこの10年で終わったはずだった。だが彼らはいまだ危機をあおってわれわれを欺こうとしている。今こそ資本主義イデオロギーの限界と虚妄を白日の下にさらし、世界を真に変革へ導く行動原理を、まったく新しいコミュニズムを語らねばならない--。闘う思想家ジジェクが、この10年の混迷を分析。21世紀を生き抜くための新しい革命思想を問う。>との宣伝文句。ソ連東欧社会主義の崩壊から20年。ネオリベとネオコンの対立(=共犯)席巻した90年代は、21世紀に入り、ブッシュ政権のもとで高笑いしつつ、自ら作り出した恐怖に怯え、そして自滅していきました。にもかかわらず、21世紀の初頭10年を経て、ネオリベとネオコンに変わりうる勢力が十分に現れていません。ラテンアメリカにおける変革の波はあるものの、世界はますます混迷し、日本は周回遅れというか、自滅すらできない呆然と思想の退廃というか。マルクス主義・共産主義政党が一つも存在しない日本で、時代の展望を切り開いていくために、「新しいコミュニズムを語る」というジジェクに学ぶことは重要かもしれません。「恐れるな、さあ、戻っておいで! 反コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ!」。ちょっと元気の出る本です。

宮下誠『逸脱する絵画--20世紀芸術学講義 I』(法律文化社、2002年)

 残念ながら急逝した、気鋭の中の気鋭、俊秀の中の俊秀の美術史家の異色の、型破りの、前代未聞の芸術学テキストです。「方法叙説、或いは方法蛇足。本講義の性格を素描するに当たって、もっとも相応しい手続きは「引き算」だと思います。「~していない」の羅列によって、本講義の「レゾンデートル」が炙り出される・・・・・・・ 1.「普遍的」、「客観的」な「20世紀西洋美術史」を書こうとして「いない」 2.20世紀西洋美術の傑作、重要作「さえ」網羅しては「いない」・・・・・・」などと、ちゃかり書いてしまえる、そしてそれを堂々と通用させてしまう、饒舌と、ユーモアと、諧謔と、憶測と、飛躍の溢れる鮮やかな、ついでにいささかあざとい、素敵なテキスト。著者には、『迷走する音楽--20世紀芸術学講義II』(法律文化社)、『20世紀絵画』、『20世紀音楽』、『ゲルニカ』(光文社新書)があり、遺著『越境する天使 パウル・クレー』があります。そうです、著者はドイツ美術史、とりわけパウル・クレー研究者です。本書は全18講義から成りますが、10~14講はクレー研究です。ベルンのクレー・センターで再読するのに、『越境する天使』は春に読んだばかりなので、本書を持ってきました。毎日1~2講義読みながら、本日最後に第18講義「補講、或いはモダンアートの展開II」。著者のパウル・クレー研究の出発点そして結論に至る基本的問題意識は次のように語られています。

「クレーは自ら抽象乃至非対象絵画と目される作品を残しながら、並行してその晩年に至るまで画面に具象的形象を置くことをやめなかった。抽象を描くことの必然性に相応の確信と根拠を持つ画家が、一方で具象的形象を描いていることに対する極めて素朴な疑問が本稿構想の出発点にはある。その具象的形象を19世紀的リアリズムの枠組みの中で解釈することは不適当であるし、また不可能でもあろう。ではいったい抽象の問題に直面しつつ具象的形象を描くことをやめなかったクレーにとって、具象的形象は何を意味するのであろうか。」

おもしろいのは第12講義で、音楽家・音楽批評家クレーを取り上げていることです。クレーはベルンでバイオリニストとして活躍し、音楽家になるか画家になるか悩んだ末に画家になりましたが、当時、たくさんの音楽批評も書いています。絵画の革命児クレーですが、音楽の趣味は保守的で、当時台頭しつつあった無調音楽や、12音技法音楽には向かわず、モーツアルト、バッハ、ブラームスを愛好していました。同時代の音楽家、ブルックナー、マーラー、シェーベルクらにはやや冷たい批評を残しています。第13講義では、シュールレアリストではないのに、パリのシュールレアリスト(ブルトン、アラゴン、エリュアール、エルンストら)に引っ張り出され、あたかもシュールレアリストの先駆者に祭り上げられたクレーですが、そのあたりの交流が詳しく描かれています。本書では書いていませんが、別の本で著者は、「クレーはシュールレアリストではなかったが、シュールレアリストに持ち上げられることで作品が売れる(値があがる)ので、流れに任せていた」という趣旨のことを書いています。バウハウスに就職するまでは必ずしも成功した画家とは言えず、家族を養えなかった自信喪失の家父長パパのクレーとしては、売れるに越したことはなかったのです。

というわけで、私は本日午後から、宮下誠『20世紀絵画』を片手に、ベルン、パウル・クレー・センターへ。