1)WHO前のFUKUSHIMA
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連日快晴でしたが、3日は少し雲。快晴のときは、いつもながら98%快晴といった、見事な青空です。ただ、南方のイタリア領の山間部が雲に覆われていて、このためモンブランが見えません。国連欧州本部前の噴水では観光客が涼んでいます。2日の昼、子どもがけんかを売ってきたので、噴水の下で追いかけっこをして、びしょぬれに。でも、すぐ乾きます。
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軍縮会議はなぜかキャンセルになっています。国連国際法委員会は非公開会議中。
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世界保健機関WHOの前で、以前からチェルノブイリ問題を訴えてスタンディングをしてきたNGOのポスターに「FUKUSHIMA」とありました。2007年4月から「WHOをIAEAから独立させろ」と主張して静かなヴィジル(黙って立っている)をしてきたグループで、フランスやスイスを中心とするNGOです。
WHOは商業的利害に捉われてはならないことになっているのに、IAEA設立以後、特にチェルノブイリ以後、WHOはIAEAに従属して、チェルノブイリ周辺住民の健康を危険にさらしたまま放置してきた、と主張しています。WHOは恣意的統計によってチェルノブイリの死者を少なく見つもリ、汚染地域で被曝にさらされている子どもたちを無視しています。それゆえ、彼らは、WHOがIAEAから独立して、住民の健康を守るように主張しています。
以前から、チラシをもらったり、話を聞いてきましたが、今回はFUKUSHIMAとあったので、ご挨拶してきました。FUKUSHIMAとTOKYOの距離感がまったくわからないようでした。若いフランス人は「ドイツもスイスもイタリアも賢明な判断をしたのに、わがフランスは駄目だ。日本はどうだ?」。年配のフランス人は、隣で胡桃の実を割りながら、「あげるから食べるといい。心配ない、放射能は入っていないから」。きっと、何人にも言ってきたギャグなのでしょう。
www.independentwho.info
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2)西牟田靖『ニッポンの国境』(光文社新書、2011年)
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『僕の見た「大日本帝国」』で知られる著者は、歴史を追いかけつつ、国境を訪れてきました。
『誰も国境を知らない』に続いて本書でも、日本の領土問題を、できるだけ現地で訪れて取材して、論じるという姿勢です。北方領土には、日本政府の希望に反して、ロシアのビザを取得して訪問しています。ロシアのビザを取得するということはロシア領土と認めることになるという形式的な幼稚な主張が日本政府らしい。竹島/独島にも、韓国の独島ツアーに参加して、ただ一人の日本人の悲哀を感じながら、取材しています。もっとも、たまたま出会った人との立ち話レベル。尖閣諸島には立ち入りができませんが、飛行機で近くまで行ってみて来るという徹底振り。現地を訪れるという基本はしっかりしています。新書1冊で簡単に領土問題を理解できる本でもあります。
基本線としては、第二次大戦後の戦後処理に際して、アメリカが日本の領土をあいまいにしていたことが、現在まで禍根を残しているという視点です。アメリカは、日本と周辺諸国の間にわざと火種を残したのではないかと。
もっとも、事前の文献調査は徹底していないというか、わざと都合の悪い文献を省いているのか。例えば、竹島については、1905年当時の日本領化の話から始めています。それ以前、徳川幕府も明治政府も、竹島は日本ではないと述べていたのに、本書ではそのことは触れられていません。北方領土、竹島、尖閣諸島のいずれについても、基本文献をきちんとフォローしていません(わざと無視したのかも)。
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3)佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』(青土社、2011年)
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トミマツ・サトウ解、京都大学名誉教授、『宇宙論への招待』(岩波新書)『物理学の世紀』(集英社新書)など一般向けの科学論でよく知られる著者の最新刊です。
本書も一般向けの「量子力学からみた学問論」です。今春の『職業としての科学』ではいわば科学社会学を展開していましたが、本書は、量子力学を素材とした、しかしその専門書ではなく、一般向けの「学問論」となっています。だから比較的読みやすい。科学が、一方では知識の体系であり深く強い探究心によって支えられているとともに、一方では、現代産業に組み込まれて社会的イデオロギー的に多面的に機能しているとともに、さらに国家制度として税金の配分にあずかって成立しているといった、多面的な科学の実態を踏まえています。空想的理念的な科学物語ではありません。
本書の出発点はやはり、あの「観測者問題」です。客観世界と思われていた科学に「観測者」が登場し、「観測者」を登場させてはじめ意味内容が定まります。かくして、科学自体も、科学哲学も、大きな変容を遂げてきました。相対主義が再流行したり、不可知論が浮上したり、唯物論的解釈の再編が行われました。広松渉がマッハ批判のレーニンから、逆にマッハへと遡上し、「世界の共同主観的存在構造」「事的世界観」を展開したのも、「観測者問題」が一つの回路でした。その後の量子力学はコペンハーゲン解釈によって、いわばこの問題に半分ふたをしながら、実利を手にしてきたわけです。このあたりはよく知っている話ですが、本書半ば以降は、近年の量子力学の展開をもとに、情報、化学、生物学、時間、宇宙のイメージの転換が描かれています。観測者問題の解釈は今でも開かれたままの問題のようですが、いずれにしろ、「人間抜きの科学」の現実的可能性は疑問を付されたままということになります。
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4)武田徹『原発報道とメディア』 (講談社現代新書、2011年)
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ジャーナリスト、評論家で、ジャーナリズム教育にかかわってきた著者の、『私たちはこうして「原発大国」を選んだ--増補版「核」論』に続く1冊。
3.11以後の原発報道に見られた問題点を克服し、乗り越えるためのジャーナリズム論であり、ジャーナリズム教育の書です。ジャーナリズムの公共性、グレーゾーンの報道、ツイッターなどソシャルメディアの役割、「情報操作」問題などを論じて、「それでもジャーナリストになりたいあなたへ」で締めています。こういうフレーズって、少し前までは、相当大物のジャーナリストが若者向けに使っていたフレーズだと思いますが、世の中変わったのか。
本書の叙述の分かりやすさは、基本的に二項対立の図式を描いて、それをいかに乗り越えるかというスタイルになっていることです。実際に図を用いて説明しています。現象を二項対立、または四つの次元にまとめて、議論を整理しています。説明のためにはなるほど、と思いますが、こんなに単純化して大丈夫?とも感じます。その典型が本書を貫く、原発推進派と反対派の二項対立図式です。最初に「かなり乱暴にゲーム理論的な構図を採用し」と前置きをして、原発推進派と反対派を対抗させています。ゲーム理論と称しているのは「囚人のジレンマ」のことで、推進派と反対派の対立が強まり、にっちもさっちもいかなくなることです。反対運動が続くが、原発推進も続き、反対運動の妨害によって原発のための土地が買えなくなるため、一箇所の原発に複数の原子炉が集中し、事故がおきるとリスクが大きくなる(福島第一では3つの炉心溶融になった)、という議論になります。つまり、推進派にも反対派にも問題があるというわけです。同じような議論が何度か使われていますが、最後には、原発事故をきっかけに脱原発が盛り上がっているが、原発立地の住民のことをいかに考えていたか、と問いを立て、原発周辺住民の雇用確保や生活保障がなければ生活再建は困難なのに、罪なき人に「犠牲が出ていることすら気づかない残酷さ」と批判しています。日本政府批判でもなければ、東電批判でもありません。脱原発派の「残酷さ」批判です。本当に「乱暴」な議論で、論理的な脈絡がありません。そんな脱原発派がどこにいるのか、実際にいるのか、何も示されていません。
著者は原発推進派ではありません。むしろ脱原発派に近いだろうと思います。本書は推進派か脱原発派かではなく、ジャーナリズム論のためにこのような議論枠組みを採用しているのでしょうが、「倒錯」しています。因果関係など無視して、推進派と反対派を、いきなり同じ平面に並べてしまう二項対立図式に問題があるのでしょう。
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5)平和への人権専門家協議会
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人権理事会諮問委員会は8日に開会ですが、その前日、8月7日午後に、「平和への人権に関する諮問委員会委員と市民社会専門家による専門家協議会」を開催します。主催は、スペイン国際人権法協会、世界キリスト教協議会、平和への権利国際監視団です。事務局は、ダヴィド・フェルナンデス・プヤナ、笹本潤、塩川頼男、および私です。主催団体の陰に隠れて、実は日本人が3人(笑)。
主な発言者は、諮問委員会の平和への権利宣言案起草部会代表のモナ・ズルフィカー委員、宣言起草担当のヴォルフガング・ハインツ委員、スペイン国際人権法協会のカルロス・デュラン教授、ジュネーヴ大学のアルフレド・デ・ザヤス教授など。