1)人種差別撤廃委員会
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人種差別撤廃条約に基づいて設置された人種差別撤廃委員会(CERD)は、批准国からの報告書を受け取り、審議を行い、一般的性格を有する勧告を提示します。委員会と政府との対話を通じて、勧告の条約履行を促進する目的です。日本政府報告書の審査は2001年と2010年に行われました。「一般的性格」というのは、裁判所ではないので、特定の事件を解決するための判決を出すわけではないということです。
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委員は18名で、批准国による推薦と選挙によって選出されます。地域バランスやジェンダー・バランスを考慮することになっていますが、CERDはジェンダー・バランスがとれていません。2012年までの任期の委員が、アフトノモフ(ロシア)、カリザイ(グアテマラ)、ダー(ブルキナファソ、女性)、ディアコヌ(ルーマニア)、ファン(中国)、ラヒリ(インド)、マルティネス(コロンビア)、ピーター(タンザニア)、プロスパー(アメリカ)。2014年までの任期の委員が、アミール(アルジェリア)、クリックリー(アイルランド、女性)、デグート(フランス)、エウオンサン(トーゴ)、ケマル(パキスタン)、ムート(トルコ)、リングレン(ブラジル)、サイード(ニジェール)、トンベリ(イギリス)。以前は「ソーンベリ」と呼ばれていたはずですが、2010年や今回はトンベリになっています。アイルランド系なのでそれが正しいのか(?)。
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ケニア政府報告書(CERD/C/KEN/1-4. 13 January 2011)--第1回の報告書で司法大臣がプレゼンテーションしました。2001年に条約を批准したが、政権が安定せず、社会問題をたくさん抱えていたので報告が遅れたということです。
憲法第70条は、個人の基本的権利と自由を、人種、部族、出生地・居住地その他の地方の関係、政治的意見、皮膚の色、信条又は性別によることなく保障されるとしています。
憲法第82条は、人種、部族、出生地・居住地その他の地方の関係、政治的意見、皮膚の色、信条又は性別による差別的取扱いを禁止しています。
刑法第63条は、違法な集会、自警団や違法な宣誓をする集団を禁止しています。政党法は、民族政党や宗教政党を禁止しています。最近、ヘイト・スピーチ法案がつくられていますが、法律にはなっていません。刑法第77条は、破壊的意図を持った行為を明文で禁じています。破壊的意図とは、異なる人種やコミュニティ間の憎悪や敵意の感情を促進するっことを意図することです。刑法第96条は、暴力の煽動や法への不服従を禁止しています。刑法第138条は、宗教的感情を損なうことを意図した文書や発言を禁じています。
国民統合法は、人種的民族的侮蔑や差別的慣行を禁じています。
ヘイト・スピーチ法案の詳しい内容は報告書からはわかりません。
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2)チューリヒ・ダダ
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週末はチューリヒへ行ってきました。目的はチューリヒ美術館のチューリヒ・ダダ。2004年に一度行ったのですが、その時はただ美術館をざっと見てきただけです。今回は、ダダにしぼってじっくり眺めるために行きましたが、ダダもシュルレアリスムもそう多くありませんでした。展示の中心が17~18世紀イタリア絵画と、印象派になっていました。また、スイス圏の画家もいちおうそろっています。ホドラー、セガンティーニ、とくにジャコメッティ一家、アルベルトの彫刻が充実。アンジェリカ・カウフマンも2点ありました。スイス圏の女性画家では一番知られているアンジェリカ、クール美術館にもありました。
土曜は夏祭りで、チューリヒ駅と湖の間は凄い人出でした。しかも、圧倒的に10~20代の若者たちが、仮装して踊っていました。チームごとにおそろいです。ジュネーヴやローザンヌにいると、スイスは年配の人が多いなと感じることがあるのですが、チューリヒ、ぜんぜん違いました。スイスは老成していない。日本のお祭りは平均年齢50~60かも。
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3)河出書房新社編集部編『思想としての3.11』(河出書房新社、2011年)
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「あの日から何が変わったのか、何がかわらないのか、何を変えるべきなのか 生、死、自然、震災、原発、国家、資本主義・・・・・・思索者たちがいまこそ問う」という宣伝文句。自称「思索者」は、佐々木中、鶴見俊輔、吉本隆明、中井久夫、木田元、山折哲雄、加藤典洋、田島正樹、森一郎、立岩真也、小泉義也、檜垣立哉、池田雄一、友常勉、江川隆男、高祖岩三郎、廣瀬純など。年齢は様々です。肩書きは哲学者としている人が多いです。個々のタイトルは「砕かれた大地に、ひとつの場処を」「未来からの不意打ち」「はじまりもなく終わりもない」「世界を愛するということ」「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」「自然は乱暴であるに決まっている」など、なかなかおもしろそうなので買いました。
もっとも、見込み違いで、不満が募ります。
死者や被災者を「利用」することを恐れると盛んに強調して、ゲーム盤に乗る気はない、拒否します、と始めながら、ズルズルと語って見せるのって、ありかよ、って思います。「正しく利用するために、責任を持って、大いに語るべきだろう」--これが私の見解。
同様に、「哲学者は正しく昼寝をしているべきだ」「巷に溢れている言説に何かをつけ加える能力など何もないからだ」と言いながら、ダラダラ書いているのって、ナンだよ、これ、って思います。だったらお昼寝してろよ。
「映画館を出たパリの街では、雑草などは本当に貧弱で」と述べ、「飛行機から見える、伊豆半島や房総半島の緑」を持ち出して、日本の緑とヨーロッパの田園とを比較したり。比較が間違ってるだろ。「映画館を出た銀座の街」と比べろよ。
かつて、反原発に反対とか、議論のための議論をしていた人間が、あわてて軌道修正しているのも見苦しい限り。自分の過去の言説の検証をしてから語れよ。
「思索者」というより「失策者」。もっとも、今や私たちの誰もが失策者なのですが。
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4)『ヨーロッパにおける表現の自由』(欧州評議会出版、2007年)
Freedom of expression in Europe, Case-law cincerning Article 10 of the European Convention on Human Rights, Council of Europe Pubkishing, 2007.
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日本やアメリカと違って、差別発言を刑法的に規制している欧州の状況を知るためにざっと読みました。メディアの自由、放送、情報へのアクセス、商業言説、一般的利益の保護、個人の権利の保護、司法の権威と公平性に即して、欧州人権裁判所の判例が紹介されています。日本の研究論文で少し読んだことがある話も出ていますが、知らないことの方が多かったです。オーストリアの緑の党議員が「ナチス・ジャーナリズム」と誹謗されたワブル事件、スロヴァキアで大臣の「ファシストの過去」を批判して有罪とされたフェルデク事件、ノルウェーのある教授が本にベルゲンの警察官は残虐だと書いたので反論したところ侮辱罪で有罪となった警察官ニルセンとヨンセン事件、ウィーン市議会の議員が2つのセクトを「全体主義的性格」「ファシストの傾向」と呼ぶのを禁じられたことを訴えたイェルサレム事件など、どこにどんな事件が出ているかを見つけるのが精一杯で、内容まで把握できていません。ヘイト・クライムそのもので処罰されて欧州人権裁判所に提訴した事例は見当たりませんでした。
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5)曽野綾子『自分の始末』(扶桑社新書、2011年)
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読んだら腹が立つだろうなと思いながらも買ってきた1冊。なにしろ曽野綾子。買った理由は、上野千鶴子さんのベストセラー『おひとりさま』と比較してみようと思ったからです。しかし、予測が外れました。第1に、腹が立たない。第2に、上野さんの本と比較のしようがない。「自分の始末の意図するところは、実はたった一つ、できるだけあらゆる面で他人に迷惑をかけずに静かにこの世を終わることである。私たちは一瞬一瞬を生きる他はないのだから、その一瞬一瞬をどう処理するか、私はずっと考えてきた」ということで、「人生を楽しく畳む知恵」です。本当に「他人に迷惑をかけずに静かに」していてほしいものです。曽野綾子の小説やエッセイなど10数冊から、さまざまな文章を抜き出して並べたつくりです。まとまりがなく、ただただ並べているので、あちこち拾い読みができるというか、拾い読み以外に方法がない。そのほうが、一般の人には読みやすいのでしょう。
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6)吉田徹『ポピュリズムを考える--民主主義への再入門』(NHKブックス、2011年)
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「ポピュリストであるということは、そもそも民主主義における原初的な人々との間の約束を、再び政治の場において要求することを意味する。それは、既存の政治のなかで、忘れられ、自らの意志が政治に反映されていないと感じる人々に、政治に対する信頼と希望を再び取り戻し、民主主義に新たな息吹をもたらすものになるかもしれないからだ。徹底したポピュリズムこそが民主主義を救う。私たちの残されている唯一の希望は、ここにある。」これが本書本文最後の文章です。私たちが石原や東国原や橋下という名前とともにセットで思いなしているポピュリズムですが、著者によると、もともと民主主義は民衆、人民、国民の意志を政治に反映する制度であり、その限りでポピュリズムは不可避であり、単純に否定できるものではないそうです。日本だけでなく、サッチャー、ハイダー、ベルルスコーニなど現代西欧においても次々と登場しているポピュリズムを、それぞれの状況における政治課題の連関の中で理解し、その上で比較する作業を行ない、ポピュリズムの多面性を提示し、単に否定するのではなく、その意味を十分に理解して乗り越える方法を確立することが必要だということを、繰り返し説いています。ポピュリズムに対する一面的な理解と指摘されると、私もそういう限界を持っていたようなので、勉強になりました。特にポピュリズムとナショナリズムの結びつきについて、そういう例が多いのは確かですが、必然というわけではなく、ポピュリズムがインターナショナリズムと結びつくこともあるというのも参考になります。