拡散する精神/萎縮する表現(8)
雨ニモ負ケズ 反省セズ(三)
宮沢賢治が関東大震災朝鮮人虐殺をどう見ていたか、残された資料からは判明しない。判明しているのは、賢治が、朝鮮人迫害を煽った国柱会の熱心な会員であったことである。
国柱会は日蓮宗僧侶だった田中智学(一八六一年~一九三九年)が開設した仏教団体・右翼団体として知られる。日蓮主義運動や国体学を提唱し、軍国主義時代の世界統一のスローガン 「八紘一宇」を最初に標榜したことも有名だ。陸軍軍人・石原莞爾や日本主義の評論家・高山樗牛も会員だった。
賢治は一九二〇年一〇月に国柱会に入信した。このため信仰や職業をめぐって連日のように父親と口論している。今日ではこのことの意味がごく軽んじられているが、長子相続・家父長制の当時、祭祀を継承するべき長男が一族の宗教を投げ捨てて他の宗教に走るということはよほどのことである。父親から絶縁されたとしても不思議でない。賢治はそれほどの覚悟を以て国柱会に入信し、親友にも国柱会を推薦している。一九二一年一月二三日、家族に無断で上京し国柱会本部を訪れ、街頭布教に参加したが、妹が発病したため夏には故郷に帰っている。
賢治の伝記では、このあたり巧みに描かれている。国柱会の名前を出しても、それがどのような団体であるのか一切説明しないものが多い。国柱会の名前を消して、日蓮宗系ないし法華経の団体に入信したと書いているものもある。国柱会の機関紙「天業民報」がどのような主張を展開していたかはもちろん隠される。
田中智学と賢治についても、故意に曖昧にした文章が多い。智学の名前さえ出てこないものもある。智学との関係を隠蔽しようとしているのは明らかだ。
①賢治は智学に感銘を受け、国柱会に入会し、「天業民報」を電柱に張りまわるほど熱心な会員であった。
②賢治は友人への手紙に「智学先生に絶対服従を誓う」と書いている。
③賢治は死ぬまでずっと一貫して国柱会会員であり、死んでからも戒名を付けてもらい、骨まで捧げている。
以上のうち、①は比較的知られるようになって認めざるを得ないため、伝記でも①を認めつつ、「いや、さして影響を受けてはいない」とか、「すぐに花巻に帰った」と続けるものが目立つ。多くの伝記は②③には言及しない。なぜか。「智学はヤバイ」と思っているから、智学と賢治を切り離そうとするのだ。このため事実をごまかすことにエネルギーを使ってしまう。気持ちはわからないではないが、要するに、信じてないのだ、賢治を。これが賢治ファンなのだから、賢治も哀れと言わなくてはならない。
他の作家であれば、何を読み、誰に影響を受けたのかは、重要な研究テーマである。日記や手紙を多く残した作家であれば、何月何日に何を入手して読み、それがいつの手紙に影響を与えている、といった研究は必須不可欠である。石川啄木であれば、いつ幸徳秋水のクロポトキン訳を入手したのか、 原書を入手していたのか、いつ平出修弁護士から大逆事件記録を借りて、どこまで読んで、何を書き写したかを、啄木研究者は懸命に追跡してきた。
ところが、賢治の伝記は、智学を隠蔽するため、賢治研究が成り立たなくなってしまう。「智学と賢治」は必須課題なのに直視しようとしない。賢治について事実を知りたくない。賢治を信じていない。信じているのは、おそらく「賢治のファンである素晴らしい私」だけだろう。
智学とはいかなる存在であり、いかなる「思想」を残したのか、何をしたのかを徹底解明すること。賢治は智学にいかにして出会い、なぜ入信したのか、何を読み、いかなる影響を受けたのか。何月何日の「天業民報」を、どのようにして入手し、どのように読んだのか、日記や手紙に何らかの影響を確認できるのか。一〇年間に渡って、つぶさに調べるのが普通である。その上で、智学から影響を受けた賢治が、どのようにして自らの思索を練り上げて、あの作品世界を作り出したのか。賢治の世界観はいかにして智学をも乗り越えたのかに進むことも重要だ。そうでなければ、いつまで経っても後ろ暗い賢治のままだろう(批判的分析を試みたものとして、山口泉『宮澤賢治伝説』河出書房新社)。