Wednesday, November 02, 2011

雨ニモマケズ、反省セズ(二)

拡散する精神/萎縮する表現(7)
雨ニモマケズ、反省セズ(二)


 本誌前々号(五一一号、本年八月)に「雨ニモマケズ、反省セズ」と題して、宮沢賢治の排外主義への加担を取り上げ、次のように述べた。

 「明治生まれの天皇主義者であった賢治が<あらゆる人の幸せ>を目的としたというのは、論理的に理解できない。賢治も時代の中を生きていたのだから、天皇主義者であったことをもって批判するべき理由にはならない。しかし、天皇主義者の思想を<あらゆる人の幸せ>を目的としたと粉飾するのは疑問である。」/「『天業民報』は、警視庁が朝鮮人暴動はなかったと発表した後も、執拗に朝鮮人暴動と書きたて、朝鮮人を糾弾し続けた。朝鮮人差別の先頭を邁進する田中智学に「絶対服従」を誓ったのが賢治である。」/「自ら積極的に民族差別に加担した賢治は「利用された」のではなく「利用した」のである。このことを考えなければ、差別と排外主義への転落を繰り返すことになりかねない。」

 これに対して、ジャーナリストのK氏から、賢治の思想を曲解するものだとのご批判をいただいた。第一に、雨ニモマケズが一一月三日に書かれたと断定できず、その内容は天皇主義的ではなく、天皇主義者と断定するのは適当ではない。第二に、賢治は国柱会会員であったが、関東大震災発生前に岩手に帰っている。賢治が排外主義の「旗振り役」をしたと見るのは極端すぎる。第三に、賢治はヒューマニストであり、当時としては珍しく戦争宣伝・協力もしていない。

 せっかくの批判を手掛かりにこの問題をもう少し考えてみたい。

 一一月三日問題であるが、(一)当時の人々にとってこれは普通の日ではない特別の日である。今では普通の休日に過ぎないが、当時は違う。(二)賢治の手帳にはっきりと「11.3」と書いてある。(三)私的な手帳に書かれていたからこそ、見栄もてらいもなく、賢治の忠誠心が表明されていると読むのが普通だ。他の文学者のメモなら当然そう解釈される。

 一一月三日でないと主張するのであれば、例えば(一)「雨」が別の日に書かれたことを示す積極証拠を提出する。(二)賢治が手帳や日記や手紙で「3.19」「8.24」などと数字を書いていて、それが日付ではないという証拠を提出する。(三)賢治は手帳や手紙で、日付と違う日に文章を書きつける癖があったという証拠を提出する。(四)賢治は他の人々と違ってこの日を特別の日と思っていなかったという証拠を提出する。このような論法が考えられるが、こういう主張は皆無である。一一月三日と「推定」はできるが「断定」はできないというのは無意味である。「断定」する必要はどこにもない。「それ以外の日ではありえない」ということがはっきりしているから「推定」で結論として十分なのだ。賢治が特別に天皇主義者であったとする格段の証拠をわざわざ提出するまでもない。ひとり賢治だけが天皇主義者でなかったことの証明が先である。

(「マスコミ市民」2011年10月号、続く)