Wednesday, March 28, 2012

熊本一規『脱原発の経済学』

熊本一規『脱原発の経済学』(緑風出版、2011年)
http://ryokufu.com/isbn978-4-8461-1118-2n.html


緑風出版は自然環境を守るための著作を出版してきましたので、福島原発事故以後も次々と良書を出しています。本書はその一冊。

第1章 電力自由化と発送電分離は必要か
第2章 「原発の電気が一番安い」は本当か
第3章 原発は地域社会を破壊する
第4章 脱原発社会を如何に創るか

脱原発の経済学はすでに何冊も類書がありますが、それぞれの論者ごとに特徴があって、学ぶべきことがさまざまにあります。

著者は、各地のダム、埋め立て、原発問題に直接かかわって、漁民の権利を守るために理論闘争してきた人で、現在は明治学院大学教授。著書に『埋立問題の焦点』『公共事業はどこが間違っているのか?』『海はだれのものか』『よみがえれ!清流球磨川』などがあります。

私にとって、本書で面白かったのは、2点。

第1は、第4章で、「脱原発は必要かつ可能である」として、8つの理由を掲げている中で、「原発は冷戦構造の産物である」と断定しているところです(146頁)。

第2は、脱原発と再生可能エネルギー普及の議論とを切り離して論じているところです。「脱原発と再生可能エネルギーの普及とは全く別物であり、脱原発を主張するのに再生可能エネルギーを持ち出す必要は全くない」(153頁)として、議論の筋道を整理し、両者の議論をそれぞれ展開しているところです。

Monday, March 26, 2012

外岡秀俊『震災と原発 国家の過ち――文学で読み解く「3.11」』

(朝日新書、2012年)



元・朝日新聞東京本社編集局長、ジャーナリスト、いまは退職して北海道大学大学院研究員の著者の本です。被災地を訪れて取材しながら、並行して文学作品を読み返す試みです。カミュ『ペスト』、カフカ『城』、モラン『オルレアンのうわさ』、井伏鱒二『黒い雨』、スタインベック『怒りの葡萄』などを取り上げ、そこで描かれた主題が震災や、原発事故を経た今、どのように読まれるべきなのかを考えています。冒頭に辺見庸の、震災をカミュの『ペスト』の視点でとらえ返す言葉が引用されています。NHKで語った言葉で、その番組が元になって辺見庸『瓦礫の中から言葉を』が出版されています。辺見庸と外岡秀俊。共同通信と朝日新聞。ともにジャーナリストにして文学者。外岡秀俊は新聞記者になる前にすでに小説家としてデビューしていましたが、記者になってからは小説を書いていないようです。うろ覚えですが、啄木をモチーフにした『北帰行』を30数年前に読みました。阪神淡路大震災では『地震と社会』という本も出しています。私と同じ札幌出身。

加藤典洋『3.11 死に神に突き飛ばされる』

岩波書店、2011年


加藤典洋が脱原発に転向した、と話題になりましたが、その文章が1冊にまとめられました。結論は、原発はつなぎにとどめて、代替エネルギーに力を注ぎ、将来的に原発廃止、というものです。特に核燃料サイクルについてはすぐに廃止、です。核兵器問題や原発問題では吉本隆明に従ってきた著者ですが、福島原発事故以後、自分なりの思索を深めて、吉本隆明から一歩距離を置くことになったようです。



それにしてもストレートで明快な文章には驚きました。え、これが加藤さん?という感じです。『敗戦後論』の頃は、とにかく何かひねり、ねじらせ、ずらすことが自分の任務とばかりに、屁理屈がとぐろを巻いたような文章を書いていましたが、本書は違います。原発事故、放射能、子どもたちの被害をストレートに受け止めて、それでは自分に何ができるのか、何を考えるべきなのかとまっとうな問いを立て、理路整然と論述を進めています。



それでも原発維持をと唱える寺島実郎や立花隆への批判も見事です。よくある批判のパターンも採用しつつ、そこにとどまらないのが著者です。特徴は、日本の中で考えるべきことと、世界の中で考えるべきことを腑分けし、関連付けつつ、論じていることです。おもしろいのは、アトムとゴジラの会話です。原爆被害を受けたにもかかわらず原子力の平和利用に希望を託すアトムの物語と、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニの体験をもとに原爆の恐怖を体現するゴジラの物語の対比です。戦後の被爆者運動が、なぜ原発反対に向かわず、原子力の平和利用に向かったのかを解き明かす試みでもあります。この論点では、田中利幸論文を引き、田中さんに学びながら、さらに著者なりの観点で解釈をしています。



気になったのは、人道に対する罪について、従軍慰安婦問題では人道に対する罪であるという国際的評価がなされ、2000年に女性国際戦犯法廷が開催され、民衆法廷による責任追及がなされたにもかかわらず、原爆投下については、人道に対する罪という国際的評価が定まっていないうえ、「右の例に見るようなどのような民衆法廷も、開かれて、米国の原爆投下を非難するとともに全核保有国の核抑止政策を非難糾弾するというようなことは、行われていない」(175頁)と断定していることです。著者が繰り返し引用している田中利幸さんが「原爆投下を裁く国際民衆法廷」共同代表として、広島で民衆法廷を開催したのに。私も証人として参加しました。

大島堅一・除本理史『原発事故の被害と補償』

大月書店、2012年


サブタイトルは「フクシマと「人間の復興」」



『再生可能エネルギーの政治経済学』『原発のコスト』の大島さんと、『環境被害の責任と費用負担』の除本さんの共著です。といっても、除本さんの本は読んでいませんが。オビには「東電の責任逃れを許してはならない  被害の「全面補償」とエネルギー政策の転換へ  子どもたちの今、そして未来のために」と書かれています。コンパクトですぐ読める本ですが、事故による深刻な被害をどのようにとらえて理解し、責任を明らかにし、全面補償を実現するべきか、視点が明快で、いい本です。原発事故が地域をいかに引き裂いたのか、被害構造をしっかり理解する必要があります。被害構造への想像力を欠いたインチキ科学論議がいかに堕落したものであるかがよくわかります。


法律論は、日弁連の『原発事故と私たちの権利』(明石書店、2012年)がありますが、この2冊を合わせて読むことで、補償論の骨格はできるでしょう。


Sunday, March 25, 2012

辺見庸『瓦礫の中から言葉を――わたしの<死者>へ』(

NHK出版新書、2012年





11年4月24日にNHKで放送された発言をもとに書き下ろした文章です。東日本大震災の被災地・石巻出身の著者の言葉をつかみ出す格闘が覗えます。





「故郷が海に呑まれる最初の映像に、わたしはしたたかにうちのめされました。それは、外界が壊されただけでなく、わたしの「内部」というか「奥」がごっそり深く抉られるという、生まれてはじめての感覚でした。叫びたくても声を発することができません。ただ喉の奥で低く唸りつづけるしかありませんでした。」





内面の決壊ののちに「だれも言葉を持っていないこと」を著者は徹底的に問い詰めます。メディアに登場するのは紋切り型の言葉ばかり。そして日本がんばれ、復興、ぽぽぽぽぽ~ん、日本人は素晴らしいといったたぐいのふやけた言葉ばかり。現実を全身で受け止め、現実に肉薄しようとする気概のある言葉はどこにあるのか。もちろん原発事故と原爆被爆についても著者の個的な思索を展開しています。





「わたしたち」ではなく、あくまでも「わたし」の思索です。石巻出身で、日本人で、ジャーナリストであり文学者・詩人でもある単独者の具体的な経験に根差した思索が、いかにして普遍性を持ちうるのかを、ひたすら模索しているといえるでしょう。「人類滅亡後の眺め」を、SFでもなく、単に悲観的な物語でもなく、現実とつなげて問うことは、東日本大震災と福島原発事故ののちの私たちにとって、なるほど「具体的」にさえ思えます。「私の無責任」と「人間存在の無責任」を対比する著者は、石原吉郎と宮沢賢治に寄り添うことで、次の手掛かりを探ろうとします。ここはやや理解に苦しむところですが。





Thursday, March 22, 2012

水島朝穂 『東日本大震災と憲法』

水島朝穂『東日本大震災と憲法』(早稲田大学出版部、2012年)
http://www.waseda-up.co.jp/economics/post-617.html


「早稲田大学ブックレット」の1冊。そういうブックレットがあることをはじめて知りましたが、今後、震災関連で続々と出版予定のようです。


さて、本書は、すでに日本を代表する憲法学者の一人である著者が、ホームページ「直言」で書いてきた文章などを1冊にまとめたものです。
http://www.koubunken.co.jp/mizusima/main.html


以前、このコーナーをもとに『同時代への直言』という本も出版されています。憲法学者と言う枠にはとうてい収まらない該博な知識と、旺盛な感心、理論と実践に、読者は圧倒されることでしょう。


本書は、「震災後間もなく、原発20キロ圏の南相馬市から大槌町吉里吉里地区まで800 キロにわたる現地取材を敢行。憲法に基づく「人権」「平和」「自治」による復興への課題と展望をつづる。」とあるように、現場の思想を展開しています。

ブックレットでちょうど100頁。文章も読みやすく、わかりやすく、写真もたくさんあります。


目次

序――その日

第Ⅰ部 現場を行く 想定外という言葉――東日本大震災から1カ月/災害派遣の本務化へ/郡山から南相馬へ/「トモダチ」という作戦 /「避難所」になった女川原発 /石巻と大船渡――被災地における新聞の役割/南三陸、気仙沼、釜石など――被災地の自衛隊/陸前高田の人々/大槌町吉里吉里

第Ⅱ部 東日本大震災からの復興に向けて――憲法の視点から
 1 震災後初の憲法記念日に
 2 大震災からの復興と憲法
 3 大震災における多様なアクターの活動
 4 災害と犠牲――補償をどうするか
 5 国会と政府はどうだったか――「政治手動」の結果
 6 足尾銅山問題とフクシマ――田中正造の視点
 7 新しい連帯の芽生え――ウルリッヒ・ベックの主張から

Monday, March 19, 2012

カナリア諸島(4)テロル









































































































































地図を見ていたら、ラス・パルマスの西方にテロルという町がありました。






テロル! 




南西のテルデまでバスで20分で、テロルも同じくらいの距離なので行ってみました。ところが、西方は山です。丘の上の高層住宅街タマラセテ(ほとんど多摩ニュータウン)を過ぎ、エル・トスコンを越え、レサーノ湖を越え、どんどん山道に入りくねくねと登って行きました。結局、二つの山を越えて1時間ほどで着きました。途中のスエルテ山が641メートル、南方のサント山が945メートルですから、テロルの町はたぶん400~500メートルの山襞にへばりついています。教会や一部の建物はかなり古く、数百年前からあったのだろうと思います。海霧が島を覆い始めると、渓谷の下のほうは真っ白で何も見えません。空は晴れているのに。






残念ながら、テロリストに会えませんでした(笑)。






ラス・パルマスでホテルの近くにカラオケがあったので、ちょっと覗いてみました。カラオケですが、やはりスペイン語の歌ばかり。英語もあり、カム・トギャザーやイエローサブマリンに続いて、サンタナのジプシー・クイーンに挑戦しましたが、挫折。お店のカルロスがブラック・マジック・ウーマンをスペイン語で歌ってくれました。追悼のためデイ・ドリーム・ビリーバーを英語と忌野清志郎の日本語バージョンを交互に、カルロスはスペイン語で。

カナリア諸島(3)ガルダー

































































































































島の西北部にあるガルダーという町を歩いた時、ガルダー山のふもとで上り下りの坂道だったため、「これだけ坂道だとさすが汗をかくな」と思いながら町中の温度計を見るとなんと30度でした。22~3度くらいかと思っていたのですが、なにしろ乾燥しているし、適度に海風が吹いているので、日本の30度とは全く違います。冬は20度、夏は26度ですが、中心部は山で、一番高いところはラス・ニエヴェス山1949メートルで、たまに雪が降るそうです。

カナリア諸島(2)ラス・パルマス














































































カナリア諸島は、アフリカ大陸の西、モロッコや西サハラの西の大西洋に浮かぶ島ですが、スペイン領です。



古くはコロン(コロンブス)が第1回航海の時に立ち寄ったことで知られ、近年では、アフリカからEUに密入国する人がここに密航することで話題になりました。スペイン領なのでカナリア諸島に入ってしまえばEUに行けるので。年間平均気温が23度で、一番寒い1月でも20度、素敵なリゾート地です。観光客がたくさん来ていました。急に思いついて、前日に航空券を手配して、次にインターネットでホテルを探したのですが、とても高いリゾートホテルがどれも満室でした。やむなく向こうについてから空港でホテルを探しました。幸い首都ラス・パルマスのカンテラス・ビーチ近くの裏通りのビジネスホテルを取れました。





カナリア諸島は、七つの島からなります。東側のグラン・カナリア、フエルテヴェントーラ、ランサロテが、ラス・パルマス州です。西側のテネリフェ、ラ・ゴメラ、ラ・パルマ、エル・ヒエロが、サンタクルス・デ・テネリフェ州です。スペイン本土からは1350キロ離れています。日本本土と沖縄の関係に近いかなと思います。ただし、カナリアには米軍基地はありません。スペイン海軍基地はあるようです。



岩山のような島で、水が不足していて、緑も少ないため、あちこち乾燥した岩や砂がむき出しになっています。

カナリア諸島(1)9条の碑









































カナリア諸島に行ってきました。



一番の目的は日本国憲法9条の碑です。ジャーナリストの伊藤千尋さんが紹介しているように、テルデという町にヒロシマ・ナガサキ公園と9条の碑があります。スペイン人にテルデに行くと言ったところ「そういう町は聞いたことがない。テイデなら知っている」ということでした。ネットで調べてもすぐには見つかりませんでしたが、Teldeで、グラン・カナリア島にありました。現地の人たちに聞いてみると、「テルデ」と「テイデ」の間くらいの発音で、日本語では表記できません。以下、他の地名も表記は正確ではありません。





ヒロシマ・ナガサキ公園は、町の東端にあります。グラン・カナリア島の北東隅にある首都ラス・パルマスから、最南端のプエルト・デ・モガンまでつなぐ高速道路が島の東側を南北に走っています。その真ん中あたりに空港があります。テルデは空港の西北部で、ラス・パルマスからはバスで20分です。高速道路から抜けて、西に走るとロータリーがあり、これがテルデ中心部の東の入口です。西の入口まで徒歩10分ほどで、そちらにもロータリーがありました。もっとも、町はその外側にずっと広がっています。ぐるぐる歩き回ってもそれらしいものが見つからないので、聞いてみたら、最初のロータリーのすぐ隣にヒロシマ・ナガサキ公園がありました。小さな小さな公園です。そして、9条の碑がありました。タイルが1枚はがれていました。割れたのでしょう。伊藤千尋さんが紹介しているところでは、たしか1999年ころ、この道路とロータリーを造成した時に少し土地が余ったので、市長が平和の広場を作ろうと考え、それならということでヒロシマ・ナガサキと9条にし、議会が賛成して出来上がったということです。当時、日本に連絡があったのかどうか。日本から誰かがここに来たのかどうかはわかりません。私が知っているのは、伊藤千尋さんの本と、昨年、国際人権活動日本委員会の人権活動家たちがここに来たことだけです。




テルデは小さな町です。中心部にはラス・パルマスのような高層ビルもありません。行政庁舎もせいぜい5階まで。グラン・カナリアの首都ラス・パルマスは人口38万、ふつうのスペインの都会で、10数階のビルが林立しています。他方、グラン・カナリア第2の都市テルデは、ラス・パルマスの南西に隣接して、人口10万人ですが、町の中心部を歩いた時の印象は人口1~2万の田舎町です。というのも、中心部だけではなく、周辺に広がる元・農村地帯だったということです。いまはラス・パルマスの郊外となって、この地域がカナリア諸島の人口(85万)の半分を抱えています。テルデは元農業地帯で、サトウキビ、ぶどう、バナナ、トマトなどを栽培していました。今は畑が徐々に住宅地に変貌しつつあり、高速道路沿いには工場が建設され、島の工業センターとなっています。




テルデは歴史的には、モロッコの西方にあるためモロッコ地域と同様の人々が住んでいたようで、先住民族はDoramasと呼ばれ、モロッコの人たちはここをテドラーと呼んでいたようです。テルデの先住民族推定人口は14000人です。なお、カナリア諸島全体はタマランと呼ばれていたそうです。ラス・パルマスがつくられたのは1478年、カスティヨ軍隊の指揮官フアン・レホンがレアル・デ・ラス・パルマスと名付けたとか。スペインがカナリアを植民地にしたのは1483年。1492年にコロンブスが来ました。テルデの町は、1483年にガルシア・デル・カスティーヨ一族が、イグレシア・デ・サン・フアン・バウチスタ・デ・テルデという教会を建設したことにはじまります。セヴィリヤ・ポルトガル・ゴチック様式の教会は今もあります。

人権理事会2012







国連人権理事会における各国政府代表が発言を求めるプレート提示のシーン。