Sunday, March 25, 2012

辺見庸『瓦礫の中から言葉を――わたしの<死者>へ』(

NHK出版新書、2012年





11年4月24日にNHKで放送された発言をもとに書き下ろした文章です。東日本大震災の被災地・石巻出身の著者の言葉をつかみ出す格闘が覗えます。





「故郷が海に呑まれる最初の映像に、わたしはしたたかにうちのめされました。それは、外界が壊されただけでなく、わたしの「内部」というか「奥」がごっそり深く抉られるという、生まれてはじめての感覚でした。叫びたくても声を発することができません。ただ喉の奥で低く唸りつづけるしかありませんでした。」





内面の決壊ののちに「だれも言葉を持っていないこと」を著者は徹底的に問い詰めます。メディアに登場するのは紋切り型の言葉ばかり。そして日本がんばれ、復興、ぽぽぽぽぽ~ん、日本人は素晴らしいといったたぐいのふやけた言葉ばかり。現実を全身で受け止め、現実に肉薄しようとする気概のある言葉はどこにあるのか。もちろん原発事故と原爆被爆についても著者の個的な思索を展開しています。





「わたしたち」ではなく、あくまでも「わたし」の思索です。石巻出身で、日本人で、ジャーナリストであり文学者・詩人でもある単独者の具体的な経験に根差した思索が、いかにして普遍性を持ちうるのかを、ひたすら模索しているといえるでしょう。「人類滅亡後の眺め」を、SFでもなく、単に悲観的な物語でもなく、現実とつなげて問うことは、東日本大震災と福島原発事故ののちの私たちにとって、なるほど「具体的」にさえ思えます。「私の無責任」と「人間存在の無責任」を対比する著者は、石原吉郎と宮沢賢治に寄り添うことで、次の手掛かりを探ろうとします。ここはやや理解に苦しむところですが。