Wednesday, November 05, 2014

エリート・レイシズムを考える

チュン・ファン・ダイクの「エリート・レイシズム」という論文がある。1995年に出版されたリタ・カーク・ウィロックとデイヴィド・スレイデン編『ヘイト・スピーチ』に掲載された。著者はアムステルダム大学の研究者で、本論文は1990年9月にドイツのハンブルクで開催された「欧州のレイシズムに関する国際会議」での報告に基づく。
Teun A. van Dijk, Elite Discouse and the Reproduction of Racism, Rita Kirk Whillock & David Slayden(ed.), Hate Speech, SAGE Publications, 1995.
ファン・ダイクは「エリート・レイシズム」に焦点を当てる。ファン・ダイクはエリートの態度が白人低階層の人々や極右に影響を与える、という。以下、その一部を紹介する。
白人集団メンバーと白人の制度が、日常的に、白人の支配を表明し、確乎たるものにする。社会的な語りや、子ども時代に読む本も、マスメディアや政治において語られるのも、マジョリティたる白人の語りである。そこにおいてマイノリティに関する語りが規制されている。社会的認知は民族的に方向づけられており、偏見が確立する。
エリートは社会権力構造の中で生まれ、政府、議会、行政の長、指導的政治家、企業経営者、指導的研究者らが、社会に影響を与える決定とその実施を統制している。
メディアについてみると、メディアに雇用されるのはマジョリティのエリートである。メディアへのアクセスは一方向的であり、マイノリティにはチャンスがごく僅かしか配分されない。マイノリティ・ジャーナリストがごくわずかなので、メディアが取り上げるトピックスもマジョリティの利害と関心に左右される。レイシズムに鈍感なため、レイシズムに直面してもその事実を否定したり、反転させる。結果としてマスメディアはレイシズムの温床となる。
同様のことは、教科書についても言える。教育課程と教科書は、マジョリティのエリートによって編集・作成される。教科書には、マイノリティに関する情報が掲載されなかったり、掲載される場合にはマジョリティの視線によって構築されたマイノリティ像が掲載されることが多い。移民や人種問題が犯罪と逸脱行動に関する事項に記載されることも少なくない。
専門研究や政治議論においても同様のメカニズムが働き、無自覚のうちにレイシズムが強化される。エリートは自分が持つイメージを撹拌することなく、既存のイメージに安住してしまうことによってレイシズムの強化に加担することになる。
以上を参考に日本におけるエリート・レイシズムについて考えたい。日本の場合、国家が積極的に朝鮮人差別政策を推進してきたので、国家レイシズムを問う必要があるが、国家レイシズムの中核をなすのがエリート・レイシズムといえよう。
日本社会のマジョリティである大和民族、日本国籍、男性、いわゆる健常者で、高学歴の政策決定エリートの価値観が、日本社会の価値観の基本を成している。それは知らず知らずのうちにレイシズムを強化する。
政策決定エリートは、日本国憲法の解釈権限を占有するため、日本国憲法を歪曲して、マジョリティによるマイノリティに対する差別を「表現の自由」という口実で正当化してしまう。
日本国憲法前文の平和主義と国際協調主義を基に考えれば、日本国憲法第21条の表現の自由は、かつて戦争宣伝や民族差別を煽った歴史を反省して、表現の自由と責任をバランスよく考慮することが求められる。
ところが、政策決定エリートは、何の根拠もなくこれを転覆し、日本国憲法第21条を理由にして、差別表現の自由を規制できないという倒錯した理屈を構築する。

この社会のレイシズムとヘイト・スピーチの根本問題は、ザイトクにではなく、エリート・レイシズムにあるのではないだろうか。