内田雅敏『靖国参拝の何が問題か』(平凡社新書)
安倍首相のこっそり電撃靖国参拝によって、またしても日本の異常さ、国際常識のなさを露呈した靖国問題。戦後補償に取り組んできた内田雅敏弁護士は、あらためて靖国批判の論陣を張る。
最初のポイントは「A級戦犯合祀以後、天皇が靖国参拝しなくなった。だから、A級戦犯分祀を」と言う主張への批判である。この主張は、靖国批判側からの意見というよりも、靖国擁護側の分岐を示すものであり、最近は遺族会の一部からも出ている。しかし、著者は言う。A級戦犯合祀こそ靖国思想の中核であり、本質であり、それを抜いたら靖国神社は靖国神社でなくなる。この点は、靖国批判側にとっても、万が一、A級戦犯分祀が実現しても、それで靖国神社がまともな神社になるわけではないことを確認させる。それにしても、天皇が参拝できない靖国神社とは何か。いったい何の意味があるのか、は残るだろう。著者は靖国の「聖戦」史観を徹底批判している。
次のポイントは靖国生き残り戦略と東京裁判批判がもつ意味である。本文も興味深いが、付論1で、靖国神社「放火」犯の引き渡しを拒んだ韓国高等法院判決に見る靖国神社観を紹介している。そこでは、放火犯人を政治犯として位置付け、政治犯を日本に引き渡すことを拒んだ根拠として、韓国司法が用いた言葉が「普遍的価値」であったことだ。当時、私もこれを重視して一文を書いたことがある。その意味は、第一に、靖国神社は国際社会の普遍的価値観に反するという言であり、第二に、靖国参拝は普遍的価値観に対する挑戦であり、それゆえ第三に、日本は欧米民主主義諸国と価値観を共有していないということである。戦争翼賛神社が日本にしがみつき、何が何でも戦争を賛美する。
本書に付け加えるとすれば、次に論じるべきポイントは「英霊は靖国にいるのか、それとも南洋諸島のジャングルや海底をさまよっているのか」であろう。靖国に英霊はいない。天皇が参拝しない靖国に英霊がいるはずがない。だから、遺族たちはガダルカナルやサイパンやタラワに慰霊碑を建立してきたのだ。アジア太平洋に建立された慰霊碑は1500を超える。遺族はインチキ神社・靖国の嘘にうすうす気づいては、いるのだ。