大江健三郎『憂い顔の童子』(講談社、2002年[講談社文庫、2005年])
義兄の映画監督・伊丹十三をモデルにしたことで話題になった『取り替え子(チェンジリング)』に続く、長編3部作の第2作である。
前作との関係では、長江古義人と映画監督・吾良の青春時代に起きた出来事、「アレ」と呼ばれる事件について、文芸評論家から「ユニーク」な解釈が提示されたが、本作において大江は反発し、批判している。作者自身を含む実在の人物をもとに作中の人物を造形してきた大江にとって、現実と創作の間の差異を見失った文芸評論には慣れたもののはずだが、やはり批判せずにはいられなかったのだろう。ただ、そうなると、創作を批判された現実をふたたび創作の中に取り込むことで、現実と創作の関係がさらに複雑化する。にもかかわらず、現実に対する応答としてストレートに読まれることにもなる。大江の「引用癖」は有名だが、「引用癖」と言うにとどまらず、現実への介入が現実の反応を引き起こすことが繰り返される。
本作では、長江古義人が、四国の森に帰るところから物語が始まる。大学進学のために故郷を離れ、学生時代に作家デビューして以後、長年、東京に暮らした著者、そして長江が、息子の光、アカリとともに故郷に帰る。郷土が生んだノーベル賞作家であるが、故郷が長江を快く迎え入れるわけではない。故郷の伝承を創作したり、改変して小説化してきた長江は、その改変や、故郷の人々についての記述ゆえに、疎まれてもいる。他方、ノーベル賞作家という有名人を利用しようとあれこれ画策が始まる
。そうした故郷の歓迎と反発に遭遇した長江の「活劇」は「ドン・キホーテ」を素材とすることで、まさにパロディとして進行するが、パロディへの自己言及の反復により、滑稽さが強調される。60年安保の闘いをさなかに生み出された「若いニホンの会」のパロディとしての「老いたるニホンの会」は、その中に大江自身がいた若き文芸集団に対する半世紀後の批評でもあるが、悲惨なデモの顛末には大江の時代認識が込められている。
近代の歴史を背負った現代人である作家の時代批評と自己批評が交錯するパロディ小説だ。