Tuesday, January 02, 2018

希いをこめた批判の声に

徐京植『日本リベラル派の頽落 徐京植評論集Ⅲ』(高文研、2017年)
<昭和天皇の死去(1989年)に際して、戦争責任・植民地支配責任と向き合う最大の好機を逃した日本社会はいま、1990年代後半の右派によるバックラッシュ、「911同時多発テロ」「福島原発事故」を経て長い反動期に入っている。
今回の衆院選でも「排除」=「リベラル潰し」の高波が打ち寄せた。
「戦後民主主義」を担ってきたリベラル派の溶解を目の当たりにしてきた著者30年に渡る思索の軌跡を綴る。>
Ⅰ 国民主義批判
他者認識の欠落─―安保法制をめぐる動きに触れて
憲法九条、その先へ──「朝鮮病」患者の独白
梟蛇鬼怪といえども…… ──辺見庸『決定版 1★9★3★7』への応答
あいまいな日本と私
ヨーロッパ的普遍主義と日本的普遍主義
日本知識人の覚醒を促す──和田春樹先生への手紙
国家・故郷・家族・個人──「パトリオティズム」を考える
のちの時代の人々に─―再び在日朝鮮人の進む道について
Ⅱ 植民地主義的心性
第四の好機──「昭和」の終わりと朝鮮
もはや黙っているべきではない
  ――なぜ私は、「憂慮する在日朝鮮人 アピール」への賛同を呼びかけるのか
母を辱めるな
「日本人としての責任」をめぐって──半難民の位置から
「日本人としての責任」再考──考え抜かれた意図的怠慢
あなたはどの場所に座っているのか?──花崎皋平氏への抗弁
秤にかけてはならない──朝鮮人と日本人へのメッセージ
『植民地主義の暴力』(2010年)、『詩の力――「東アジア」近代史の中で』(2014年)に続く第3評論集である。著者は、現代日本の政治・社会・文化を貫く植民地主義を批判的に検討してきたが、批判の矛先は、反動的な歴史修正主義だけではなく、日本リベラル派にも向けられる。戦後改革と日本国憲法における平和主義と民主主義にもかかわらず、70年の歳月を振り返るならば、かつての侵略戦争と植民地支配への反省はほとんど忘却され、異様なまでに自己中心的な日本礼賛、愛国主義、排外主義、ヘイト・スピーチが蔓延する現実を相手にせざるを得ない脱力的な状況が続く。日本列島にも朝鮮半島にも、植民地主義の残滓にとどまらず、むしろその戯画的な再生産が続く。半世紀に及ぼうという著者の反知性主義との闘いは、ますます「孤立」を余儀なくされている。その最大にして最悪の根源は日本植民地主義そのものであるが、本書が取り上げるのは、むしろ「日本リベラル派」である。
日本軍「慰安婦」問題をはじめとする歴史的課題に正面から向き合うことを回避し、小手先のごまかしを繰り返し、つねに事態を先送りしてきた日本リベラル派は、1990年代からの四半世紀、変質と後退を常態としてきた。その典型例が、アジア女性基金から日韓「合意」に至る破廉恥な遊泳術である。和田春樹という「知性」がはまり込んだ闇の深さは、思想や論理で把握し得る範疇にはないと言わざるを得ない。上野千鶴子、加藤典洋、花崎皋平という「知性」があっけなくも無残に崩れ去った現実を前に、著者は、それでも日本社会の応答を希いながら言葉を紡ぐ。
本書の記述のほとんどすべてに納得する私だが、著者の批判は私自身に向けられている。十分な応答をしてきたとは言い難いからだ。それ以上に、そもそも植民地主義者でありたくない私には、日本植民地主義との闘いが主要な思想的課題であり続けているからだ。
前田朗編『「慰安婦」問題の現在』(三一書房、2016年)には、著者に「日本知識人の覚醒を促す──和田春樹先生への手紙」を寄稿してもらった。
著者は、民衆思想を代表する花崎皋平に「あなたはどの場所に座っているのか?」と問う。私自身、尊敬すべき花崎の民衆思想の限界を指摘してきたが、乗り越えることができたわけではない。
2018年、著者の問いに少しでも応答できるようにしたいものだ。とりあえず、その第1弾としてのヘイト・クライム批判をまもなく共編著として出版することができる。