Tuesday, January 30, 2018

目取真俊の世界(2)沖縄戦の記憶と戦後の記憶


目取真俊『水滴』(文藝春秋、1997年)
目取真俊の作家デヴューは1983年の「魚群記」(琉球新報短編小説賞)から86年の「平和通りと名付けられた街を歩いて」(新沖縄文学賞)の頃だが、全国レベルで知られるようになったのは97年の芥川賞の「水滴」だろう。私が最初に読んだのは「水滴」だった。
主人公の足が肥大化し、そこからあふれ出る「水」がもたらす悲喜劇を独特の文体で仕上げた「水滴」には、沖縄戦の記憶と、戦後の沖縄の暮らしと記憶が鮮やかに組み込まれている。滑稽な不条理というか、もの悲しい可笑しさを帯びた風景は、沖縄ならでは、である。沖縄という場が持つ力と言えば、言えるかもしれないが、目取真俊でなければ、こうはいかない。初めて読んだ時の印象は確かに強烈だったが、私の読解力では十分太刀打ちできなかったのかなと、今になって思う。
「風音」も、沖縄戦の記憶に憑りつかれ、そこから逃れられない生きた死体と死んだ生体のぶつかり合う軋み音を通じて、沖縄のいまを問う。そのいまは、1997年当時の「いま」であるが、おそらく2018年の「いま」でもあるだろう。特攻隊の若者のしゃれこうべと万年筆。怪我ゆえに特高に散ることを奪われ、戦後のテレビ界に生きた人生。米軍の攻撃する森を夜陰に走り抜けた少年の戦後。記憶が交差し、もつれながら、ひそやかに風音の彼方に消えていく。
「オキナワン・ブック・レビュー」では、架空書評記の体裁をとって、沖縄戦、米軍基地、天皇制の輪舞を浮かび上がらせる。天皇制と天王星。ユタとユタ州とユダヤ人。言葉遊びを繰り返しながら、沖縄の「いま」を、米軍による民衆殺戮という文学的想像力の所産として哄笑ととともに打ち出す。「米軍基地を追い出すためには、沖縄が米軍にとって安楽な場所ではないことを思い知らせる、最低の方法しかない」と述べる現在の目取真俊と、ベクトルは違うが、意匠は同じであろう。
かくして目取真俊の世界が一気に提示された。沖縄戦、米軍基地、天皇制というターム、手あかの付いたモチーフに新鮮な鋭角を刻むその手つきの鮮やかさに、かつて驚かされた読者としては、ここから始まる目取真の世界を隅々まで体験する楽しみと同時に、あらゆる差別と負担を押し付けている本土の人間の一人として恥と罪の総体を再検証する責任を痛感するしかない。