李恩子『日常からみる周縁性――ジェンダー、エスニシティ、セクシャリティ』(三一書房)
https://31shobo.com/2022/02/22002/
<私にとって「在日」として生きることは社会運動でも研究でもない。
私にとって「在日」として生きることそれ自体が研究/思考であり、運動だ。>
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Ⅰ部 アイデンティティをめぐる物語
第1章 名前とアイデンティ
第2章 民族文化とアイデンティティ
Ⅱ部 セクシャリティをめぐる出会いと記憶
第3章 セクシャリティについての想い
第4章 往復書簡対談 セクシャリティから考える「在日性」
Ⅲ部 植民地主義がもたらしたもの
第5章忘れられたもう1つの植民地─旧南洋群島における宗教と政治がもたらした文化的遺制
第6章 今私たちに問われていること─関東大震災時朝鮮人虐殺80周年
第7章 韓日条約は在日同胞に何をもたらしたか―ポストコロニアル的一視点
Ⅳ部 差別の現在性
第8章 日韓(朝)関係から見た在日朝鮮人の人権
第9章 日本国(家)を愛せない理由 ― かといって愛せる国(家)もない
Ⅴ部 民族、宗教、ジェンダー
第10章 和解の概念を考える ─差別のトラウマの視点から
第11章 信徒と教職の権威を考える1信徒のつぶやき
第12章 今、ドロテー・ゼレを読む意味―「共苦」する主体形成を求めて
ゼレとの出会い: 問題意識として/ ゼレを読み解くコンテキスト/ 神学する主体とその課題/ 共苦と主体
第13章 「聖なる権威」への抵抗 ― 在日大韓基督教会女性牧師・長老按手プロセスにおける「民族」の位置
第14章 解放運動における〈原則〉─ 日本のバックラッシュに抗するために
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全5部14章にわたる著書であり、テーマも多様であり、方法論も叙述の方法も多様である。ジェンダー、エスニシティ、セクシャリティの視点で、「日常からみる周縁性」をその都度、意識化し、問い直し、畳み直してきた思考を再編成している。専門研究的な面もあるが、それ以上に、著者の生き様が提示されている。「著者の生き様」そのものが、日本植民地主義に規定されているがゆえに、「私にとって「在日」として生きることそれ自体が研究/思考であり、運動だ。」という言葉の意味が具体性を帯びてくる。
同じことは全ての在日の研究者に言えることである。そして同時に、「李恩子のように考える必要のないこと」が日本における日本人研究者の「特権」であることが見えてくる。
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冒頭で「名前は人格権の1つか」と問う著者は、在日の指名をめぐる変遷や差異を踏まえ、在米韓国人との比較も介在させながら、名前遍歴から見る問題提起を行う。
著者の問いは「マイノリティとは誰のことか」と敷衍され、さらに民族的マイノリティと性的マイノリティの差異と同質に及ぶ。加えてジェンダー・アイデンティティは必要かもまな板に載せられる。
そこから著者は、戦後の在日朝鮮人コミュニティの特殊性を振り返る。身体的記憶としての韓日条約を、一方で1世の心情に寄り沿って想起し、韓日条約の負の遺産を「国籍問題」に絞り込んで検討する。かくしてポストコロニアル視座から見た韓日条約の負の遺産が明確になる。個人的な体験と記憶が在日に共有された経験と意識を浮き彫りにするが、同時代を生きた日本人の体験と記憶の「逆の意味」が見えてくる。
これまで多くの在日の研究者・作家が指摘してきたことであるが、それが日本社会に共有されず、はねつけられたままであるため、同じことを繰り返し指摘し続けなければならないのが現実である。
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著者は「抵抗文化の創造力」にたどり着く。
「この知恵や抵抗の力は、個人的苦境、あるいは苦痛と政治的・歴史的苦難を統合する重要性と、普遍的価値や普遍的闘いに向けていく重要性の再発見を促した。つまり、身体的に特定の地域に住むことが要求される闘争の政治的現場のみを『苦難の現場』と理解するのではなく、日常的な『生活の場』を苦難の闘争の場と見据えるべきだという結論だ。」
新規性はないかもしれないが、この思考を著者は自身に差し向けつつ、多様な在日に語り掛ける。「生活の場」を神学化するという問題意識で、自己解放の場を模索する。「日常的な抑圧における権力関係」を認識し、組み替える方法論を提示する。「ポストコロニアル的クリティークの視座から盛んに問われてきた、発話者のポジションの検証」を再登記することで、著者が忍耐強く繰り返していることは、まさに日本社会が決して理解しようとしないことなのだ。
つながりの歴史性を内に織り込むことのない日本の人文社会科学がしばしば陥る空虚さを、理解し受け止める読者はどれだけいるだろうか。