刑罰の基本政策の変更について慎重な審議を求める
刑事政策学研究者の声明
衆議院法務委委員会委員
様
現在開会中の第 208 回国会において、日本国の刑法の根幹をなす自由剥奪を伴う刑罰体制を改変する「刑法等の一部を改正する法律案」(閣第 57 号)が上程されています。
ところが、この法案に対する国会および国民間の議論は決して熱心とは言えず、併せて提出された「侮辱罪の重罰化」の方に関心が集まっている、という現状です。
わたくしたち刑事政策学の研究者有志は、このような事態を憂い、日本の刑罰政策の根幹を揺るがしかねない同法案について、真摯かつ慎重な議論を切に要望し、本声明を公表します。
【要望1】 国会においては、本法律案を真摯かつ慎重に審議すべきである。
【要望2】 刑罰制度に関しては、関連学界における科学的かつ真摯な検討及び国民的
議論を踏まえて、変更の可否を検討すべきである。
【理由】
1 法案提出に至る経緯
法務大臣は、少年法適用年齢の 18 歳未満への引下げの検討に付随して、非行少年を含む比較的若年の犯罪者に対する処遇の充実を諮問した(諮問 103 号)。ところが、年齢引下げは見送られたが、付随的論点に過ぎなかった刑罰制度について、懲役・禁錮・拘留を単一化し、労働の義務を増強し、さらには人格変容を可能にする重罰化を答申した。少年法の専門家や少年犯罪の被害者を構成員が中心である少年法・刑事法部会によって、刑罰制度の根幹の改変について、十分な国民的議論のないまま答申された。
2 法案の形式
本法案は、侮辱罪規定の変更と自由刑の重罰化という全く性格の異なる提案を一体化している。侮辱罪については、諮問 103 号とは別の諮問 118 号に答える形で刑事法部会において審議提案された。この木に竹を接ぐような「抱き合わせ」によって、国会および国民の関心は侮辱罪に注がれ、165 年ぶりの刑罰体系の改変が十分に議論されぬまま成立しようとしている。国の基本である刑法典総則の重大な改変は、関連する学界および世界の潮流を踏まえ、慎重かつ真摯に審議されるべきである。
3 法案の内容
(1)法案の骨格
明治 40(1907)年制定の刑法第 12 条は、「懲役ハ無期及ビ有期トシ有期懲役ハ 1月以上 15 年以下トス」(1 項)とし「懲役ハ監獄ニ拘置シ定役ニ服ス」(2 項)と規定していた。これを現代用語に変更した平成 7(1995)年の一部改正では「懲役は、無期及び有期とし、有期懲役は、1 月以上 15 年以下」に変更され、懲役の刑罰内容は「刑事施設に拘置して所定の作業を行わせる」になった、その後、平成 17(2005)年改正で有期刑の上限は
20 年に引き上げられている。
今回の法案では、懲役刑を「拘禁刑」と改称し、「拘禁刑は、無期及び有期とし、有期拘禁刑は、1 月以上 20 年以下とする」。「拘禁刑は、刑事施設に拘置する」に加えて、「拘禁刑に処せられた者には、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、又は必要な指導を行うことができる」(3 項)として、「改善更生を図るために必要な作業」に加えて、「改善更生を図るために必要な指導を行うことができる」としている。
(2) 法案の問題点①-懲役刑の重罰化
新たな自由刑は、「拘禁刑」という、定められた施設に拘禁し、移動の自由を制限する「拘禁」という言葉の意味とはかけ離れた、倫理的・道義的な改善更生を受刑者に義務付けている。従来の懲役刑は、拘禁とともに「所定の作業」(刑事施設長の指定した労働)に従事する義務を課すものであった。法案は、作業に加えて、施設長が「改善指導」(受刑者の人格の変容)を義務付ける可能性を認めている。したがって、法案は、懲役刑の重罰化を提案している。
(3)法案の問題点②-禁錮刑・拘留刑の重罰化
法案は、純粋な拘禁刑である禁錮刑を廃止し(13 条の削除)、拘留を短期(30 日未満)の拘禁刑に改め、改善更生のための労働と指導を義務化している。
これまで、禁錮・拘留受刑者で作業への従事を希望する者については、施設長が作業を認めてきた。ただし、禁錮・拘留受刑者にとっての労働は必要的な義務ではなかった。しかし、法案においては、作業を「させる」のは施設長であり、指導を指定「できる」のは国、具体的には施設長の権限になる。したがって、法案は、これまで禁錮刑および拘留刑が想定されてきた受刑者については、義務の内容が強化・拡大される重罰化を提案している。
(4)法案の問題点③-思想犯・国事犯に対する思想改造
刑法改正の歴史では「自由刑の単一化」がたびたび議論されてきた。第二次大戦前には「改善教育刑」の名の下、犯罪人の労働による改善を目指すナチスやソビエトなどの「労働改善刑」を支持する有力な刑事政策学者が出現した(正木亮、木村亀二など)。しかし、内乱を企てた国事犯の思想を強制労働で改造することに対する躊躇いが「懲役刑への単一化」の流れを阻んだ。
戦後の刑法改正をめぐる議論の中でも、「自由刑の単一化」は重要な論点であったが、最終的には、政治犯・国事犯に対する配慮が、団藤重光などの有力な研究者を思い止まらせ、昭和 49(1974)年に公表された「刑法改正草案」でも、禁錮刑と懲役刑を区別を残す二元主義が支持された。
現在、刑事施設において禁錮受刑者は、受刑者 3 万 6000 人の0.2パーセント(100人)にも満たない。しかし、問題は数ではない。ここで問題とされるべきは、刑罰によって何をどこまで強制できるのか、端的に言えば、刑事施設への一定期間の収容を超えて、その人の内心まで変えることが許されるのか、ということである。
刑法は、憲法とともに国の基本を定める法律である。どのような時代、どのような政府の下であっても、揺らぐことのない堅牢な刑罰体系を築くべきである。したがって、思想犯を労働や指導で思想改造することを可能にする法案には、思想信条の自由を侵害する重大な危険性がある。
(5)法案の問題点④-改善更生に必要な作業、必要な指導とは何か?
現在、実務では、刑務作業、刑執行開始時・釈放前の指導、一般・特別の改善指導および教科指導が「矯正指導」と呼ばれ、受刑者が指導に従わなければ懲罰等の不利益を課されるという意味において、間接的に強制され、義務付けられている。
ただし、矯正処遇は刑法上の義務ではなく、執行法上の義務に過ぎない。つまり、刑法の「所定の作業」は、実体法上の刑罰の内容であるが、それ以外の義務は、刑罰執行に伴う付随的義務である執行法上の義務と解される。
しかし、法案の 12 条 3 項の「拘禁刑に処せられた者には、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、または必要な指導を行うことができる」という規定は、執行法上の義務を実体法上の義務、すなわち、刑罰の内容に格上げするものである。このことは、以下のような問題を生じさせる。
1)改善更生することそのものを刑罰内容として強制することに繋がる
現在の作業は、改善更生を目的とするとはされていない。いわば無色透明である。しかし法案は、改善更生を目的とすることで、作業に倫理的・道義的色彩を加え、作業を行うことのみならず、改善更生することを、刑罰内容にしている。
2)改善更生を強制することで、かえって、受刑者の再犯防止が困難になる
近時の矯正・保護においては、受刑者や保護観察対象者の再犯リスクを計測し、犯罪的傾向を他律的に是正しようという動きがある。しかし、このようなリスク管理だけでは再犯防止には繋がらない。犯罪をした人が社会の中で「犯罪をしない生活」をしていくためには、当事者自身が社会生活に取り組む意志とともに、これを阻む障碍を排除する社会の側の支援が重要であるとの認識が共有されるに至っている。法案は、国が再犯防止の主体となり、受刑者を改善更生の客体と位置づけている。法案に一貫するこのような居丈高な姿勢は、結果として、受刑者の再犯防止を困難にするのではないかと危惧される。
3)更生の主体である受刑者本人が「更生」を自ら企図する余地がなくなる
現在の改善指導は、受刑者の希望を参酌して決められることになっている。ところが、法案では改善更生を図るために必要な矯正指導の決定は、全面的に施設長の判断に委ねられている。つまり、改善更生するのは受刑者本人であるにもかかわらず、「改善更生に何が必要であるのか」を考える余地がなくなる。
日本の矯正職員は、世界的に見ても、真面目で、熱心である。彼らに受刑者の倫理的・道義的改善更生という職務を与えれば、誠実に使命を果たそうとするであろう。しかしながら、それが一方的・強制的に刑罰内容として行われようとするとき、それは矯正職員と被収容者の関係を非人間的なものにするのではないかということが危惧される。
(6) 法案の問題点⑤-執行法から実体法への格上げの意味
法案による、執行法から実体法への「矯正処遇」の格上げは何を意味するのであろうか。
今の現場では、受刑者の希望を聞きながら、指導の内容を決めている。本人が嫌だと言えば、指導を強いることはできない。たしかに、公務員たる処遇職員には「本人にとって必要」だと思われる指導ができないことに対して隔靴掻痒の思いをすることもあるだろう。しかし、この微妙な立場関係の中で、受刑者と職員のコミュニケーションに基づく処遇が行われていることが、「人による安全確保」という日本矯正の基盤となっている。人道的処遇とは、そうした人間同士の説得と納得から生まれるものである。
矯正指導を刑罰内容に格上げすることは、公務員たる矯正職員に無理を強いることにならないか。日本国憲法 36 条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰」を禁じている。しかし、法案は、嫌がる受刑者に対して、矯正職員が矯正処遇を懲罰によって強制する危険を孕(はら)んでいる。
4 国際的潮流への反動
このような自由刑体系全体を重罰化する法案は、1955 年に国際連合で決議され、2015年に大改訂された『被拘禁者処遇最低基準規則(Standard Minimum Rules for the Treatment of Prisoners)』(いわゆる「ネルソン・マンデラ・ルールズ(Nelson Mandela Rules)」)の基本原則に多くの点で抵触する。
世界の行刑は、自由刑の刑罰内容を移動の制限に可及的に純化し、受刑者の主体性を基盤に据えて、差別のない・個人の特性に配慮した処遇、再統合の援助、施設内生活の一般社会への近似化、それぞれの障害等にも配慮した生活の保障に向かって歩んでいる。しかし、法案は、国際社会の潮流に抗うものになっている。
5 結論
以上の理由から、国会においては、法案を真摯かつ慎重に審議することを求める。
2022
年
4 月 25 日
呼びかけ人
赤池一将 (龍谷大学教授)
石塚伸一 (龍谷大学教授)
武内謙治 (九州大学教授)
本庄 武 (一橋大学教授)
丸山泰弘 (立正大学教授)
森久智江(立命館大学教授)
近日中に本声明に賛同する刑事政策学研究者を公表する。
なお、わたくしたちの基本的認識については、本庄武=武内謙治共編著『刑罰制度改革の前に考えておくべきこと』(日本評論社、2017 年)において公表している。