Friday, May 01, 2015

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(1)

ジェレミー・ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(みすず書房)
原著はJeremy Waldron, The Harm in Hate Speech, Harvard University Press, 2012.出版間もなく入手したが読まずにいた。重要文献なので読まなくてはと思ったが、英語なので苦労が多いし、時間もかかるのでどうしたものか。順次紹介論文を書くことにしようかなどと悩んでいたが、翻訳が出ると聞いたので、それならと翻訳を待った。待望の出版だ。
本書は全八章から成る。順次勉強していきたい。
「第一章 ヘイト・スピーチにアプローチする」は、本書出版の経緯を説明しつつ、ウォルドロンの基本的考え方を提示している。詳細は第二章以下で叙述されるが、第一章で基本線が明示されている。
「何が問題であるかを、私たちは二つのやり方で記述できる。第一に、包括性という、私たちの社会が支持し、コミットしている、ある種の公共財が存在する。私たちは、エスニシティ、人種、外見、それに宗教に関して多様である。しかも私たちは、こうした種類の差異にもかかわらず共に暮らし、働くという壮大な実験に乗り出している。各々の集団は、社会が彼らだけのためのものではないことを受け入れなければならない。しかし社会は、他のすべての集団と一緒に、彼らのためのものでもある。そして各人は、各々の集団の各々の成員は、他人による敵意、暴力、差別、あるいは排除に直面する必要はないという安心とともに、彼または彼女の暮らしを営むことができるべきである。」
「ヘイト・スピーチはこの公共財を傷つける。あるいは、それを維持する仕事を、ヘイト・スピーチなど存在しない場合よりもはるかに難しいものにする。ヘイト・スピーチがこのような働きをするのは、差別と暴力の威嚇をおこなうことによってばかりではない。過去にこの社会がどのようなものであったか――あるいは他の社会がどのようなものであったか――についての生々しい悪夢を呼び覚ますことによっても、そうするのである。」
「何が問題であるかを記述するもうひとつのやり方は、ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすことだ。ある意味では、私たち全員が安心から恩恵を受けるはずである。しかし、脆弱なマイノリティ、近い過去において同じ社会の内部の他の成員から憎悪され嫌悪された経験をもつマイノリティの成員にとっては、安心は彼らが社会の成員であることの確証を提供するものである。安心は、彼らもまた、しかりした立場をもつ社会の成員であることを確証してくれる。……こうした基本的な社会的地位を、私は彼らの尊厳と呼ぶ。ある人の尊厳とは、たんに何かカント的な輝かしさではない。尊厳とは、彼らの社会的地位である。」
「ヘイト・スピーチを公にすることは、この尊厳を傷つけるために計算されている。ヘイト・スピーチの狙いは、それが標的にする人々の尊厳を、その人々自身の目から見ても、社会の他の成員の目から見ても、危うくすることにある。そしてヘイト・スピーチは、その人々の尊厳を確立し支持することをはるかに困難にしようとする。ヘイト・スピーチは、その人々の評価の根本にある事柄を汚すことを狙いとする。」
ウォルドロンはヘイト・スピーチをこのようなものとして捉えて議論を進める。公共財と尊厳を巡る議論は、刑法における保護法益論としての社会的法益か個人的法益かという議論と関連する。ヘイト・スピーチの規制は社会的法益を守るためなのか、個人的法益を守るためなのか。従来の法益体系の三分説を前提とした議論が行われてきたが、三分説を前提とすることでは適切な理解とは言えないかもしれない。ウォルドロンが公共財と尊厳を並列するのも、そのためかもしれない。

ウォルドロンは、表現の自由を極度に強調するアメリカにおける議論を展開するにあたって、ヘイト・スピーチを処罰する欧州各国の情報を紹介し、国際人権法の基本的考え方も紹介しながら、アメリカ憲法の下でもヘイト・スピーチ処罰の議論があり得たことも指摘し、アメリカ憲法に適合的な処罰必要論を唱えることを予告する。