Monday, May 18, 2015

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(5)

第五章「尊厳の保護か、不快感からの保護か」は、第四章「憎悪の外見」とともに本書の中心部分である。表題の通り、ヘイト・スピーチを規制するのは、不快な思いをさせられるからではなく、人の尊厳を傷つけるからであり、両者の間に区別をすることができることを課題とする。
「私は本書で何度も、ヘイト・スピーチを制限する法律は人々の尊厳を攻撃から守ることを狙いとすべきだと述べてきた。尊厳という言葉で私が指しているのは、人々が暮らす共同体の中で誰とでも平等なものとしての彼らの地位、基本的正義への彼らの権限、彼らの評価に関する根本的な事柄である。その意味での尊厳は、攻撃からの保護を必要とすることがありうる。」
他方、ウルドロンは、人々が不快な思いをさせられることを防ぐことを規制の目的とは考えない。「人々の感情を不快感から防ぐことは、法律の適切な対象ではない」。両者の区別は、次のように表現される。
「人々を不快感から、あるいは不快にさせられることから保護するとは、彼らの感情に対するある種の影響から彼らを保護することである。そしてそれは、人々の尊厳と、彼らが社会の中でまともな扱いを受けることに関する安心とを保護することは違うのである。」
この区別をウォルドロンは何度も繰り返し説明する。私にはとても説得力があるように思われるのだが、日本の議論ではこうした尊厳概念が全く理解されていないようにも思える。なかなか難しいところだ。

さらに、ウォルドロンは概念把握をめぐる「複雑性」に配慮してさまざまに議論を進める。また、「アイデンティティの政治」、文化的アイデンティティの議論がもたらす混乱も射程に入れる。その上で、ウォルドロンは「尊厳概念は曖昧だ」という批判に応える。尊厳概念の中核には権利概念がある。また、ヘイト行為者もまた自らの尊厳を唱える場合もある。