Monday, May 04, 2015

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(3)

第三章「なぜヘイト・スピーチを集団に対する文書名誉毀損と呼ぶのか」で、ウォルドロンは「ヘイト・スピーチ」という言葉が、イスラム恐怖症のブログ、十字架を燃やすこと、人種差別主義的な罵言、人種的マイノリティの成員を動物として描写すること、1994年のルワンダにおけるジェノサイドを煽り立てるラジオ放送など、幅広い意味内容を有することを指摘し、「ヘイト」が主観的な動機として理解されるべきでないことや、「スピーチ」という表現が誤解を招く面を有することを踏まえて、集団に対する名誉毀損について論じる。ウォルドロンは、1952年のボーハネ対イリノイ州事件最高裁判決の射程と、ニューヨーク・タイムズ社対サリヴァン事件判決の意味を問い、集団の評判を攻撃することを問題とすることは、集団そのものを保護することではなく、集団の成員の属性を取り上げるものであり、個人主義的であることを示す。
「ヘイト・スピーチを規制する立法が擁護するのは、(あらゆる集団のあらゆる成員のための)平等のシティズンシップの尊厳である。そしてそれは、(特定の集団の成員についての)集団に対する名誉毀損が市民から成る何らかの集団全体の地位を傷つける危険があるときには、集団に対する名誉毀損を阻止するためにできることをするのである。」

ウォルドロンは、ボーハネ最高裁判決が明示的には一度も判例変更されていないことを確認しつつ、そうは言ってもボーハネ判決に依拠することがさほど重要な意味を有するとは考えていないようである。むしろ、尊厳とは何かをより具体的に明らかにすることが目指されることになる。