Tuesday, November 17, 2015

上野千鶴子の記憶違いの政治学(8)結論

1 上野千鶴子からの反論

11月11日、上野千鶴子が複数のMLに「Re:前田さんへの反論」を投稿した。400文字ほどの短い反論であり、次のような趣旨である。
  前田ブログ(7回)の内容は、最終回まで「かつての論文の再録というナツメロでした」。
  『ナショナリズムとジェンダー 新版』(岩波現代文庫、2012年)が出ていることを紹介し、「本MLの読者の方は、……、前田さんの上野批判を鵜呑みになさいませんように。」。
  「上野の『転向』に当たる部分は、前田さんの情報不足」と述べ、「『市民基金』が『国家賠償』の代替になると主張したことは一度もありません。」と主張。
  「何年も前の的外れの批判をくりかえされるのには心底うんざりです。」
上野からの反論は以上である。

2 事実の確認

  前田ブログ「上野千鶴子との記憶違いの政治学(1)~(6)」は「かつての論文の再録」であるが、それは「(1)」で明記したように、「上野からの抗議と謝罪要求に応答するための前提」である。そして、「(7)」では2015年の情報を2つ紹介して、上野を批判した。
それにもかかわらず、上野は「最終回まで……ナツメロ」として切り捨てている。内容への反論はしていない。
  前田は『ナショナリズムとジェンダー新版』を読んだが、今回は批判対象にしていない。そこまで射程にいれると分量が膨れ上がってしまい、時間がかかる。今回の批判の中心は、上野の「思想」と「方法論」がデタラメであることであり、そのために上野の著作全体を取り上げる必要はない。
   前田は「転向」という言葉で批判していないが、いずれにせよ「情報不足」ではない。的確な情報を提示している。
  前田は、2015年の上野の発言を取り上げて、批判した。「何年も前の的外れの批判」というのは事実に反する。

3 上野への批判の確認

前田は、2015年5月3日付『朝日新聞』上の上野発言、及び『I女のしんぶん』2015年11月10日付で紹介された15年10月21日の記者会見における上野発言を取り上げて、上野を批判した。
ところが、上野はこれを含めて「最終回まで……ナツメロ」とごまかした。

上野は半年前の自分の発言に対する批判を「ナツメロ」とごまかす。それどころか、1か月もたたない直前の発言にさえ頬かむりする。呆れ果てた無責任であるが、驚くべきことではない。これこそが上野千鶴子なのだ。

上野は、一方でアジア女性基金を正当化しながら、他方で、「謝罪と賠償を否定したことはない」などと、ごまそうとする。賠償を否定するアジア女性基金を正当化する上野は、自分が喋っていることの意味すら分かっていないのだろう。

経過を再確認しよう。

10月25日、上野千鶴子は、前田に対して「根も葉もないうわさレベルの中傷」と非難し、「謝罪」を要求した。

10月27日、上野千鶴子は、前田に対して「誤解と中傷以外のなにものでもありません。
あなたの『読解力』の不足でしょう。」と非難した。

11月7日、前田は、かつての論文を前提としつつ、今年の上野の2つの発言を取り上げて批判した。

これに対して、11月11日、上野は、「ナツメロ」と切り捨て、「心底うんざり」と捨て台詞を吐いた。

上野は、市民としての最低限のモラルすらわきまえていないのではないだろうか。

4 結論

先に「暫定的結論」として書いたことは完璧な内容であったので、「結論」として再録しよう。

(1)「慰安婦」に関する上野の主張は、数えきれない事実誤認と、皮相な「思想」と「方法論」によって成り立っている。
(2)上野は歴史修正主義を学問に祭り上げ、擁護する。
(3)「慰安婦」についての日本政府の責任を上野はあいまいにし、二枚舌を駆使し、責任逃れをする日本政府に奉仕し、すり寄る。

(4)それゆえ、前田の上野批判は的確であり、撤回すべき理由は皆無である。