朴裕河訴追問題を考える(1)
『帝国の慰安婦』の著者である朴裕河を韓国検察が名誉毀損の嫌疑で訴追した件について、日本ではおよそ事実に基づかない批判が行われている。
朴裕河の著書自体が事実に基づかずに他人を誹謗中傷してきたが、朴裕河を持ち上げる日本人「知識人」たちも事実を無視して、韓国検察を批判する。「類は友を呼ぶ」の好例であろうか。
私は韓国刑法についての専門的知識がないため本件にはコメントするつもりはなかったが、日本「知識人」の誤った主張がマスコミを通じて広められたので、最低限のことは提示しておく必要がある。
本件について検討するべき点は多いが、その全体に言及する余裕はない。「知識人」たちの声明には疑問点が多いが、そのすべてに言及することもしない。とりあえず、以下の主要な論点だけに限定する。
(1) 虚偽の事実について
(2) 被害の有無について
(3) 学問の暴力について
(4) 言論の責任について
(5)「アウシュヴィツの嘘」処罰について
(5)「アウシュヴィツの嘘」処罰について
(6) 在宅起訴について
(7) 植民地主義について
*註)当初、6項目だったが、12月1日に7項目に変更した。12月4日に表現を修正した。
*註)当初、6項目だったが、12月1日に7項目に変更した。12月4日に表現を修正した。
なお、「知識人」声明は下記参照。
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(1)「虚偽の事実」について
「知識人」声明は「検察庁の起訴文は同書の韓国語版について「虚偽の事実」を記していると断じ、その具体例を列挙していますが、それは朴氏の意図を虚心に理解しようとせず、予断と誤解に基づいて下された判断だと考えざるを得ません。」と断定している。
この文章は理解しがたい。「虚偽の事実」であるか否かと、著者の「意図」とは関係がない。(韓国刑法でどのように解釈・運用されてきたか知らないが)、日本刑法の名誉毀損では、「事実の摘示」(真実も含むが、特に虚偽の事実)と著者の故意とは別概念である。著者の故意がいかなるものであるかと、「事実の摘示」がなされたか否かとは、直接の関連がない。まして、事実の認識を中心とする故意を超えた「意図」によって左右されるわけではない。「故意」に「事実の摘示」をして「被害者の社会的評価」を下げれば「名誉毀損」が成立する。「真実性の証明」を抜きに、著者の「意図」によって正当化することはできない。もっとも、これは日本刑法の話である。韓国刑法において「真実性の証明」がどのように理解されているのか私は知らない。
朴裕河『帝国の慰安婦』における「虚偽の事実」については、すでに鄭栄桓による詳細な分析がある。
11月28日、VAWW RAC主催のシンポジウムで鄭栄恒が報告したことは、2015年11月29日朝日新聞が報道している。私は残念ながら参加できなかった。記事によると、「鄭栄桓・明治学院大学准教授が『本は事実認識の誤りや資料の恣意的解釈が多い。慰安婦にされた女性たちの名誉が侵害されている』と批判した。」という。もっともである。
司会の金富子・東京外国語大学教授も「抗議声明に『歴史をどう解釈するかは学問の自由』とある。解釈は自由だが、問題なのは本の内容が事実かどうかということ」と述べたと言う。
司会の金富子・東京外国語大学教授も「抗議声明に『歴史をどう解釈するかは学問の自由』とある。解釈は自由だが、問題なのは本の内容が事実かどうかということ」と述べたと言う。
私が一番強く感じたのは、『帝国の慰安婦』が、重要な個所で事実認定する際に、日本人男性作家の小説を根拠にしていることだ。朴裕河は「史料に基づいた」などと言っているが、到底そうは言えない。日本人男性作家の記述から知ることができるのは、「日本人男性作家が慰安婦についてどう考えたか」である。ところが、朴裕河は「日本人男性作家がこう述べているから、慰安婦はこのような存在であった」とか、「慰安婦はこのように考えていたかもしれない」という推測をする。まともな歴史学の方法ではない。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2015/07/blog-post_13.html