「『慰安婦』問題と<粗野なフェミニズム>③」『統一評論』397号(1998年9月)
上野のナショナリズム
上野は「フェミニズムはナショナリズムを超えられるか」と問いを立てる。「国家を超える」としたり「国民国家を超える」としたり「ナショナリズムを超える」としたり、概念の混乱は上野の十八番だが、それはここでは問わない。
問題は「ナショナリズムを超える」必要性を盛んに強調しながら、上野自身が実はナショナリズムに染まっていることである。
第一に、上野の著作全体を貫いて用いられている用語自体が国家の用語なのである。「私の母を辱めるな」と言う徐京植に対して、上野は「なぜ家族の用語で語るのか」と批判する。日本の戦争犯罪を追及してきた韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)・尹貞玉に対して、上野はナショナリズムから脱していないと批判する。日本民族が朝鮮民族等に対して犯した戦争犯罪、しかも男が女に対して犯した戦争犯罪を語るのに、家族や民族の用語を用いるのは、むしろひとまず自然なことである。それを批判しておきながら、上野が多用するのは国家の用語にすぎない。
第二に、用語だけではなく分析方法という点でも、疑問がある。
上野は条約に依拠した議論を排斥したが、その際の分析は国際法が国民国家を前提としたパワーポリティクスの妥協の産物だという、実に古典的な国民国家体制の論理にすぎない。超えると称した国民国家にどこまでもとらわれている。国民国家の内在的分析によって国民国家の論理そのものを喰い破る戦略をとる場合ならともかく、上野の分析はそうではない。さて、上野は次のように述べる。
「『市民社会論』者、橋爪大三郎の『啓蒙』はわかりやすすぎるほどに明快である。彼は、戦争責任の問題は『大日本帝国』と『日本国』の連続性の問題だとする。たしかに日本国憲法が大日本国憲法の改正のかたちをとった以上、そこには法的主体としての連続性がある。企業を吸収合併してもそれ以前の企業の負債を引き継がなければならないように、『日本国』は『大日本帝国』から、植民地を失った後の領土も債務も引き継いでいる。法理的には、日本国は大日本帝国の犯した犯罪の責任をとるのが正しい。主権者としての国民は『国民として』責任をとるのが正しい、という結論が引き出される」
上野は「橋爪氏の意見にわたしは全面的に同意する」としている。これは奇妙な話ではないか。
第一に、上野は「慰安婦論争」に関しては法律に依拠した議論を排斥した。ところが、ここでは必要もないのに「法理的には」などと法律に依拠した議論を展開している。しかも「法理的には正しい」というのも誤りで「法理的に」少しも正しくない。
第二に、橋爪の議論は、まったく「明快」ではない。日本国憲法が大日本帝国憲法の「改正」の形式をとったのは歴史的偶然にすぎない。橋爪・上野の理屈では、たまたま「改正」の手続きを取らなければ戦争責任の継承はないことになってしまう。結果だけをとらえて憲法制定過程を無視した議論をするからこうなるのだ。
第三に、橋爪・上野の理屈は日本国憲法だけを論拠としている点であまりに非常識である。日本国に戦争責任があるか否かは、日本国憲法の内容や手続きだけで決まるものではない。ポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約に至る一連の歴史過程を無視した議論はナンセンスとしか言いようがない。
日本国の戦争責任は国際問題であって国内問題ではない。このことは既に上野に対して批判しておいたのだが、上野には相変わらず戦争責任が国内問題としか見えないようだ。
戦争責任問題を日本国憲法の枠だけに押し込んで語る無惨なナショナリズム。上野の用語では「一国フェミニズム」!
上野の差別主義
上野は日本版「歴史修正主義」を批判し「フェミニズムとジェンダー史が積み上げてきた成果に対する深刻な挑戦だ」と受け止める。これは正当な判断であろう。上野は、女性史研究の困難に触れて次のように述べる。
「もちろん『女について』書かれた文書や図像は残っている。だが、それも『男によって書かれた女についての表象』にほかならない。『男によって書かれた女についての表象は、女についてどんな『事実』を語っているのだろうか。今日の歴史研究の水準からは、『表象』を『事実』ととり違えるようなナイーヴな歴史観はもはや成り立たない。『男によって書かれた女についての表象』は、女についてどんな『事実』も伝えないが、男が女について何を考え何を幻想しているかについての男の観念については雄弁に語る』
さて、上野のナショナリズムと人種差別は、挺対協への「批判」に露骨に表れている。上野は挺対協、特に尹貞玉に対して「韓国ナショナリズム」の嫌疑をかけるのだ。
しかし、挺対協の問題提起と活動は決して韓国ナショナリズムの枠にとどまるものではない。「アジア女性連帯会議」をはじめとする様々の連帯活動の場で、挺対協が果たしてきた役割が十分すぎる証拠である。挺対協は国連人権委員会や人権小委員会にも繰り返し参加し、発言して、「女性に対する暴力」の理論的解明にも多大の貢献をしてきた。
こうした事実を無視して挺対協に単なる韓国ナショナリズムを見るのは、上野自身がナショナリズムにとらわれているからでしかない。自己のナショナリズムを他者に押しつけて、これを論難するのは、やはり人種差別の所産ではないか。<上野によって書かれた尹貞玉についての表象は、尹についてどんな事実も伝えない>。
さらに「フェミニズムの旗手」と称する上野(『発情装置』)の女性差別疑惑(?)を指摘しておこう。
第一に、上野は次のように述べる。
「『従軍慰安婦』という歴史的『事実』は知られていた。……だが、ほんの最近になるまで、それを『犯罪』として問題化する人々はいなかった。事実はそこにあった、が、目に見えなかったのである。」
ならば、<問題化もせず、見ようともしなかった上野の「フェミニズム」>とはいったい何なのか。「日本軍の冒した性犯罪であるというパラダイム転換」などと言うが、上野の「フェミニズム」が「慰安婦」問題を性犯罪とは見ていなかったことは明らかである。上野は「慰安婦」問題を性犯罪ではなく、何と見ていたのか。なぜ上野は「慰安婦」問題を問題化しえなかったのか。こう問うことこそが第一歩であろう。そうした<反省>がないのはなぜか。
第二に、上野は「国民基金」との関係について次のように弁明する。
「『国民基金』に先立つ数年前から、わたしは何人かの仲間たちと語らって、ひそかに生存者の生活支援のための募金運動をNGOとして組織する準備を進めてきた。あまりに多くの困難と障害のためにこのアイディアはついに実現を見なかったが、そのための準備と『国民基金』の発表とがたまたま時期的に重なったために、一部の人々の間で、『政府の意を体するもの』とはなはだしい誤解にさらされた」
しかし、問題は「たまたま時期的に重なった」ことではない。日本国に法的責任があるか、道義的責任だけなのかが激しく争われているまさにその時に、法律や条約に依拠することを徹底して拒否する上野の論理が「国民基金」に親和的なことが問題なのだ。
「生活支援のための募金活動」という発想自体、被害女性たちを救済対象としてしか見ていないことを露呈している。被害女性たちは性奴隷という性暴力、戦争犯罪を告発し、日本国家の責任を追及する<主体>として闘っているのに、上野は被害女性たちを<客体>にとどめようとする。現実の<主体>に相談もなしに「ひそかに」事を進める愚かさにも気づこうとしない。
上野は挺対協・尹に韓国ナショナリズム嫌疑をかけるが、上野の人種差別・女性差別疑惑の方が、はるかに黒いのではないか。
おわりに
上野は「思想」と言い「方法論」と言う。そして「言説の権力闘争に参入する」ことを目的とする。「現実の闘争」から逃走して<言説の闘争>に参入するのは、上野の自由であり、誰も批判しない。問題は<言説の闘争>から「現実の闘争」を勝手に切り捌く姿勢にある。しかも、その論拠として「思想」だ「方法論」だと言うが、これまで見てきたように上野の「思想」や「方法論」には疑問がつきまとう。権威主義にしか見えない。上野は次のように言う。
「『言語論的転回』以降の社会科学はどれも、『客観的事実』とは何だろうか、という深刻な認識論的疑いから出発している。歴史学も例外ではない。歴史に『事実』も『真実』もない。ただ特定の視角からの問題化による再構成された『現実』だけがある、という見方は、社会科学のなかではひとつの『共有の知』とされてきた。社会学にとってはもはや『常識』となっている社会構築主義(構成主義)……」
「社会科学」が次には「社会学」に置き換えられ、「共有の知」が「常識」にされる。しかし「言語論的転回」と言い「社会構築主義」と言っても、一流派の思考に過ぎない。論証ぬきの断定が多すぎる(松村高夫「歴史における事実とは何か」新井・松村・本多・渡辺『「事実」をつかむ』こうち書房、参照)。「言語論的転回」などと勿体をつけるまでもなく、客観的事実とは何かは社会科学の大問題であり続けてきた。「『事実』はそのまま誰が見ても変わらない『事実』であろうか?」と言うが、こんなことはギリシャ・ローマの時代から問題だったのである。「事実」をめぐる対立があるから、「解釈」をめぐる対立があるから、人類は裁判制度を編み出してきたのだ。この程度のことを「言語論的転回」と言うのであれば、言葉の遊びに過ぎない。
上野の「思想」や「方法論」は、粗野な事実認識、つまりおびただしい事実誤認を正当化するための権威主義的マジック・ワードにすぎないのではないか。