Sunday, November 01, 2015

上野千鶴子の記憶違いの政治学(1)

*1 今回から、旧稿「上野千鶴子の記憶違いの政治学」、及びその続編である「『慰安婦』問題と<粗野なフェミニズム>」を公開する。

*2 10月22日、「慰安婦」問題に取り組んできた複数の運動体のML上で、前田は、(1)上野千鶴子が被害者に「謝罪・賠償せよ」と叫んでいることなどありえない、(2)上野は学者としてデタラメ、という趣旨の「暴言」を吐いた。これに対して、10月25日、上野が抗議し、謝罪を要求した。

*3 上野からの抗議と謝罪要求に応答するための前提として、旧稿を公開する必要に迫られた。手元に活字データしか保管していないため、改めて打ち直して電子データとした。

*4 前田朗「上野千鶴子の記憶違いの政治学」は、もともと『マスコミ市民』346号(1997年9・10月合併号)に掲載されたものだが、その後、前田朗『戦争犯罪と人権』(明石書店、1998年[229~249頁])に収録された(その際、加筆・訂正が行われている)。以下には『戦争犯罪と人権』稿を3回に分けて掲載する(今回は加筆・訂正は行っていない。丸数字も原文のままである。ただし、フォントの都合で傍点を表示できないため、下線に変更した。下記のうち下線部分はもとは傍点である)。その後、続編を公開する。全部で7回を予定している。

***************************************

はじめに

 上野千鶴子「記憶の政治学――国民・個人・わたし」が『インパクション』103号に掲載されている。上野は「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」などの日本型歴史修正主義の動きを批判的に検討し、論争が歴史実証主義の罠と国民国家の罠にはまる危険性に警鐘を鳴らしている。「歴史学の方法論」をめぐる「認識論的疑い」「実証史学を超えて」「国民国家を超えて」とつながる華麗で鮮やかな展開は、事実を知らない者には魅力的にすら見えるようだが、数々の事実誤認と論理の飛躍がある。しかも「実証史学の論理を共有」する例として前田「差別と人権」(『インパクション』102号)を引き合いに出して切り捨てているが、何を言っているのか理解しがたい。切られているようだが、なぜ、どのように切られているのかわからないのは居心地が悪い。『インパクション』編集部に反論を申し入れたが、諸般の事情から掲載されないことになったので、本誌(『マスコミ市民』)に掲載をお願いした。

上野の前田批判

 上野は、①前田が「実証史学の論理を共有」しており、②この論理の組み立てにはただちに三点の具体的な「反論」ができる、という。
 前者には、当たっている一面もないわけではない。「慰安婦」問題に関する日本政府の法的責任を問う文脈において、前田は国際条約に依拠し、条文の文言解釈を根拠とした論理を唱えており、その限りでは<実証主義的>である。
 だが、上野が使う「実証史学」は、まったく違う意味である。上野は「慰安婦」強制連行を裏付ける史料の有無をめぐる論争に関して「文書史料至上主義の実証史学」の罠を指摘している。ここでは「文書史料至上主義=実証史学」とされている。実証史学が文書史料至上主義に陥る危険性を指摘しているとも読めるが、すべての実証史学は文書史料至上主義となるかのようにも読める。概念が不明確なのだ。いずれにせよ、このような意味で実証史学という用語を使うのであれば、前田は実証史学とは無縁である。

含蓄がありすぎて

 上野の「反論」について具体的に見てみよう。
 「第一に、それなら条約締結以前の婦女売買や強制労働は『違法』ではないのか、という問いである」
           前田が指摘したのは「『慰安婦』は当時の条約違反であるから日本政府に法的責任がある」ということである。この点を認めるか否かがもっとも重要なのに、上野はそれを明らかにしない。
           前田は、日本が「1930年にはILO29号強制労働条約にも、加盟していた」とは『指摘』していない。上野の創作である。30年は強制労働条約の採択の年である。日本が強制労働条約を批准したのは32年である。
ケアレスミスに言いがかりをつけたいのではない。すぐ次の箇所で上野は次のように述べている。
 「その歴史化とちょうど裏返しの論理を持っているのが、『戦前の公娼制もまた強制労働にほかならなかった』と主張する鈴木裕子の説である。『今日の人権論』の水準から戦前公娼制もまた『断罪』される」
 「強制労働」との指摘をここでは「今日の人権論」と決めつけている。いったい上野にとって1930年代は「当時」なのか「今日」なのか。
           日本政府の法的責任を問う文脈では、締結された国際条約や慣習国際法が根拠となる。実定国際法の土俵に立つ限りは、<条約締結以前の婦女売買や強制労働は(実定国際法違反という意味では)『違法』ではない>。形式的違法がなければ国家責任の追及は非常に困難である。当たり前ではないか。
           法思想の次元であれば話は別だ。条約締結以前から「違法なものは違法」と主張できる。婦女売買や強制労働は違法であるといくらでも主張できる。条約締結によって婦女売買や強制労働は、思想の上でも実定国際法の上でも違法となったのである。重大人権侵害があったという意味では実質的違法があると言えるが、条約が存在しなかった時には形式的違法はなかったと言うしかない、ということである。次元の違う問題を指摘して「反論」したつもりになっているだけではないか。
「第二に、条約違反の国内的現実のなかで、ことさらに『慰安婦』だけがその対象となるのはなぜか、ということである」
           「条約違反の国内的現実」とは何を想定しているのだろうか。「慰安婦」は「国際的現実」であるが、なぜことさらに「国内的現実」だけを問題にしているのだろうか。
           「その対象」とあるが、この指示代名詞「その」は何を指しているのか、よくわからない。先行する名詞からあえて選べば「条約違反」であろうか。もしそうであれば今度は「ことさらに『慰安婦』だけが」の意味がわからなくなる。
           「ことさらに『慰安婦』だけが」を「戦後補償問題において国際法違反と指摘されている問題」として理解するとすれば、強制連行・強制労働、南京大虐殺、731部隊、平頂山事件をはじめ実に多くの問題が取り上げられている。「慰安婦」だけということはない。「日本型歴史修正主義者が『慰安婦』問題で攻撃を加えてきている問題」として理解するとしても、最初の攻撃目標は南京大虐殺であり、最近は三光政策である。歴史観そのものをめぐる攻撃が加えられている。「慰安婦」だけということはない。

せっかくの教えだが

 「第三に、国際法がその時代の列強間パワーポリティクスの妥協の産物であることは常識であるのに、国際法に依拠する議論は既存の国際秩序を正義ととりちがえる働きをする」
           「常識」を教えていただいて大変ありがたいが、上野が引用した前田の文章の直前にはこうある。
「当時も今も、国際政治は、軍事や経済の実力を背景に左右されてきた。国際法もその制約のもとにある」
 この部分を隠して、国際法は妥協の産物という「常識」をぶつける議論の仕方はフェアでないし、的はずれである。
           国際法が妥協の産物であることだけを強調するのも理解できない。妥協の産物であり、時代の歴史的制約もあったにもかかわらず、当時の国際条約が婦女売買や強制労働を禁止(または制限)していたことこそ重要なのである。
           「正義ととりちがえる働きをする」というのも、まったく理解できない。誰がそんな議論をしているのか。「議論は働きをする」というが、それは論理必然的なのか。そもそも「妥協の産物であることは常識」であるのなら「とりちがえる働きをしない」のではないか。「常識」でないから「とりちがえる」のだ。

前田の文章の標題は「差別と人権――規範的思考」である。「規範的思考」の基準を示すとすれば、こうなる、という話である。だから「当時の国際法の水準から見るとどうか」「当時の国際規範を見ただけでも、『慰安婦』は明らかに国際法違反であった」「これが最低限の規範的前提である」と、懇切丁寧に繰り返し議論の場を限定している。日本政府の法的責任を議論するために必要な最低限の議論の仕方を提示したのである。議論の出発点における確認事項である。もちろん、これだけが議論のすべてであるとか、これだけが土俵であるとかいったことは一度も言っていないし、そのような誤解を回避するために気を配っている。