Saturday, June 29, 2019

桐山襲を読む(11)人はどのようにしてあの世に旅立つか


桐山襲『未葬の時』(作品社、1994年)


『文藝』1992年夏号に掲載され、1994年に単行本として出版された。著者は1992年3月に永眠している。


親族たちに一礼をする火葬係の思いを描写することから本書は始まる。「死んだ人間と生きている人間たちとは隔てられたのだ」。

ホールの大理石の床。

坊主の読経。

釜の中の炎。

夫を亡くした喪主である女。

焼けるまでの小一時間の火葬係の記憶の反芻。

待合室の女と弟。

親戚達。

秋の匂い、金色の枯葉、舞い上がる金色の滝。

煙突からふっと押し出されて風に乗った男のたま。

まだ生きている者と風に乗って流される者の、未葬の時。

Wednesday, June 26, 2019

『福島原発集団訴訟の判決を巡って――民衆の視座から』(読書人)


前田朗・黒澤知弘・小出裕章・崎山比早子・村田弘・佐藤嘉幸

『福島原発集団訴訟の判決を巡って――民衆の視座から』(読書人、2019年)

本体:1000円+税

https://www.amazon.co.jp/dp/4924671401

https://honto.jp/netstore/pd-book_29699090.html

https://books.rakuten.co.jp/rb/15932921/



脱原発を実現するために全国で闘っている仲間たちへ

万感の思いを込めてお届けするメッセージの花束!



まえがき/前田朗

判決の法的問題点/黒澤知弘

巨大な危険を内包した原発、それを安全だと言った嘘/小出裕章

しきい値なし直線(LNT)モデルを社会通念に!/崎山比早子

原発訴訟をめぐって――民衆法廷を/村田弘

なぜ原発裁判で否認が続くのか/佐藤嘉幸

質疑応答

あとがき/佐藤嘉幸






まえがき



 3・11から八年の歳月が流れました。乳幼児が小学校に通う年代になり、幼いと思っていた子どもたちが大人びてくるのに十分な歳月です。

 あの日、大震災の驚愕と放射線被曝の恐怖にうち震えながら自宅を離れ、故郷を奪われ、家族がバラバラにされ、仕事も学校も友達も地域社会も奪われた被災者、避難者は、どのような思いでこの年月を過ごしたことでしょう。

 事実を否定し、責任逃れを続ける電力会社の傲慢な姿勢や、避難者を切り捨てる日本政府の冷酷な棄民政策に直面するたびに、避難者はいかに心を切り刻まれたことでしょう。

 それでも思いを新たにして、心をつなぎ合わせて立ち上がる避難者が全国に多数います。ともに生きる社会をつくり、人間らしい暮しを取り戻すために、汗を流し、涙を流しながら、事態を打開しようと懸命に闘う人々がいます。

 二〇一九年二月二〇日、横浜地方裁判所の「勝訴判決」を獲得した福島原発かながわ訴訟原告団、弁護団、支援する会は、人間の尊厳を賭け、命と暮らしを守り、この国に民主主義を復活させるために、次の一歩を踏み出すことになりました。その取り組みとして、横浜地裁判決を読み解き、次の闘いを構築するためのシンポジウムを開催しました。

    *

「福島原発集団訴訟の判決を巡って――民衆の視座から」

日時:二〇一九年四月二〇日

会場:スペース・オルタ(新横浜)

主催:福島原発かながわ訴訟原告団、福島原発かながわ訴訟を支援する会(ふくかな)、平和力フォーラム、脱原発市民会議かながわ

協賛:一般社団法人市民セクター政策機構、スペース・オルタ

    *

本書はこのシンポジウムの記録です。

最初に、かながわ訴訟弁護団事務局長の黒澤知弘弁護士から「判決の法的問題点」を解説してもらいました。

続いて、元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんから「巨大な危険を内包した原発、それを安全だと言った嘘」として、原発問題の基本を論じてもらいました。

医学博士、元放射線医学総合研究所主任研究官の崎山比早子さんからは「しきい値なし直線(LNT)モデルを社会通念に!」として、原発訴訟を勝利に導くための提言をしてもらいました。

そして、福島原発かながわ訴訟原告団団長の村田弘さんから「原発訴訟をめぐって――民衆法廷を」として、国家の権力法廷の限界をいかに超えるかを語ってもらいました。

最後に、『脱原発の哲学』の著者である佐藤嘉幸さんから「なぜ原発裁判で否認が続くのか」として、避難者切り捨てのメカニズムを解析してもらいました。

小さなブックレットですが、執筆者一同、脱原発を実現するために全国で闘っている仲間たちに万感の思いを込めてお届けするメッセージの花束です。各地で活用していただけることを願います。



                     執筆者を代表して 

                         前田 朗


Thursday, June 20, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(137)解消法施行3年


『月刊イオ』277号(2019年7月)


特集 ヘイトスピーチ、明確な“禁止”を――解消法施行から3年

編集部「つづく差別デモ、体張るカウンター」

上村和子「地方から国を変える――差別禁止条例の意義」

明戸隆浩「実効性促す発信、続けてこそ」

李相英「止まぬ『上からの差別扇動』」

阿久澤麻理子「ネット上の差別規制を考えるために」

「解消法を活かし、差別禁止法へ!――師岡康子さんに聞く」


Thursday, June 13, 2019

鹿砦社・松岡利康さんへのお詫び


松岡利康さん



鹿砦社発行の『NO NUKES Voice』第20号を拝見しました。「総力特集・フクシマ原発訴訟 新たな闘いへ」の冒頭記事は、本年4月20日に私たちが新横浜のスペースオルタで開催した「フクシマ原発集団訴訟の判決を巡って――民衆の視座から」の記録です。かながわ訴訟弁護団事務局長の黒澤知弘さん、小出裕章さん、崎山比早子さん、かながわ訴訟原告団団長の村田弘さんの発言要旨を掲載していただきました。素晴らしい雑誌企画に感謝申し上げます。



さて、今回は謝罪のお手紙となります。



先に「鹿砦社・松岡利康さんへの返信(3)」(6月9日)において私は次のように書きました。



「鹿砦社と松岡さんの愛用する手法にアポなし突撃取材があるように思います。権力相手には有効な手法と言えます。しかし、これを個人相手に多用するのはいかがなものかと思いませんか。最初は被害者救済の立場だったのが、代弁者となり、さらには完全に当事者になって突撃取材結果を出版し続ける方法は、一種の炎上商法ですよね。それも一つの手法ですから、とやかく申し上げることではないかもしれませんが。」



「炎上商法」という言葉を出版人に投げつけることは適切とは言い難いため、6月11日にこの表現を撤回させていただきました。その際、簡潔な理由を示しましたが、十分な説明とはなっておりません。



また、上記の一節を書いている途中で、公開のメーリングリストであるCMLでの意見交換の中で、同様に「炎上商法」という言葉を用いました。CMLの公開掲示板に掲載されています。

[CML 056005] Re: 鹿砦社・松岡利康さんへの返信(2)


これは下記の投稿への返信です。

Re: [CML 055942] 鹿砦社・松岡利康さんへの返信(2)




以上の2つの発言について、改めて事実確認をするとともに、お詫びいたします。



第1に、炎上商法という言葉は、5冊の本を念頭に置いて書いた言葉ですが、これは事実に反するため不適切でした。



5冊の本は、孤立した被害者を救済するとともに、本件の問題を社会に訴えるためのものであり、強い志をもって出版された著書です。このことを無視する表現は不適切でした。



第2に、「一種の炎上商法ですよね。」という表現は軽いジョークのつもりでした。ところが、これはジョークになっていません。



この表現のすぐ前に私は、『パロディのパロディ 井上ひさし再入門』を紹介して、パロディ、ギャグ、コメディ、風刺、漫談、諧謔に触れています。そのノリで軽いジョークのつもりで書いたわけですが、今回の松岡さんとの往復書簡の趣旨からいって、ジョークと受け止めていただける表現となっていません。文脈から見ても、パロディやジョークとは言えません。「パロディ作家としてはまだまだ未熟ですが」と書きましたが、まさに未熟ゆえに、この誤りを犯したものです。



また、CMLの投稿は、そうした流れとは無関係ですので、いっそう不適切な表現でした。いずれも不当な言いがかりです。大変失礼いたしました。



第3に、読み手にしてみれば、鹿砦社と松岡さんの出版活動全体に対する揶揄として受け止める可能性があります。当該5冊についての言葉とはいえ、十分に限定されていないこと(しかも内容が事実に反することは上述のとおり)から、「そんなつもりはなかった」と言っても弁解とはなりえません。



先に『テロリズムとメディアの危機』を例示した通り、鹿砦社と松岡さんの言論活動を、その一部とはいえ、それなりに承知していたのですから、炎上商法といった言葉を用いるべきではありませんでした。冒頭に触れた『NO NUKES Voice』にも、これまで大いに学ばせていただいておりました。脱原発運動を牽引する雑誌にいちゃもんをつける形になったことを反省しております。



権力による弾圧に抗して闘ってこられた鹿砦社と松岡さんの言論活動に対して、敬意を表すべきところ、余計かつ不適切な一言で不愉快な思いをさせたことは大きな失敗でした。



また、鹿砦社の皆さん、執筆者その他関係者の皆さんにも不愉快な思いをさせてしまいました。関係者の皆さんにも深くお詫びいたします。



第4に、このような表現を用いた背景には、この間の松岡さんとのやり取りの中でいささか「反発」を覚えていたために、「一言言っておいてやろう」というような思いがあったのかもしれません。邪念と軽率が災いして、不適切な言葉となってしまった訳です。



以上のことから、鹿砦社と松岡さんに謝罪するとともに、改めて撤回させていただきます。申し訳ありませんでした。



このような型通りのお詫びだけでは不十分かもしれませんが、今回はとにかくお詫びの気持ちをお伝えすることにしました。



なお、別件では、すでに私から申し述べたいことは前便で書き終えております。今回のことで松岡さんには大変ご迷惑をおかけしましたので、いまや発言する資格もなくなったと思います。



従いまして、松岡さんへの返信もこれで終了とさせていただきます。しばらく頭を冷やしてから出直したいと思います。これまでご教示、ご指摘ありがとうございました。



後味の悪い結末になりましたこと、ひとえに私の責任ですので、重ね重ねお詫びいたします。



ありがとうございました。



松岡さんと鹿砦社のますますのご発展、ご活躍を祈ります。

Sunday, June 09, 2019

鹿砦社・松岡利康さんへの返信(3)

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桐山襲を読む(10)難波大助の父親の人生


桐山襲『神殿レプリカ』(河出書房新社、1991年)

帯の惹句「夜の涯からひびく 幽かな生命のざわめき 変幻への予兆にみちた 静謐なタペストリー」とあるとおりの短編集である。


J氏の眼球

十四階の孤独

S区夢幻抄

リトル・ペク

そのとき

神殿レプリカ


J氏の眼球」では定年間近の古代哲学者の人生と、病院で隣のベッドだった学生運動の闘士らしき人物の交錯。「十四階の孤独」では82歳の元釣堀屋主人の晩年の感慨。「そのとき」では3人の老女の人生の悲しみ。いずれも老境に達した主人公の物語だ。「神殿レプリカ」でも難波大助の父親・難波作之進の最後を描いている。
本書出版が1991年8月で、桐山は1992年3月に亡くなっている。1949年生まれの桐山だから、早すぎる他界であるが、その最後の時期に、人の終着点に関心を絞り込んでいたようだ。


「リトゥル・ペク」は異色の作品だ。身長144センチほどの小さなペクは、トラック運転手になりたかったが、大型トラックの運転は無理なため、タクシー運転手になった。親戚の好意で29歳の女性とお見合いをして、次回の約束をしたことから有頂天になったが、2人が住む街からほど近い都市が軍隊に制圧され、若者たちの闘いが始まる。軍による虐殺が起きたその都市に、女性も、ペクも、別々に突入していく。錦南路、忠北路、開峰路。道庁へ、道庁へ。光州事件を想起させる舞台が選ばれている。


天皇お召列車爆破未遂事件の『パルチザン伝説』でデビューした桐山が、「神殿レプリカ」では、摂政狙撃事件の難波大助の父親の人生を素材に、歴史と伝奇に挑む。黒い風が吹くその村の本物の神殿と、そのレプリカに過ぎない天皇家の大嘗祭。作品は、難波作之進の死去の「それから3年後の1928年、裕仁は新たなる神殿を拵え、大嘗祭に臨んだ。」と終わる。

国家の万華鏡とは何か


阿部浩己『国際法を物語るⅡ 国家の万華鏡』(朝陽会)



近代国家という構築物の上にさらに積み重ねるように構築されてきた国際法を、国際関係や国家の論理だけでなく、人権の論理も導入しながら、読み解き、読み替える作業が続く。国家の管轄権や、国家の責任や、個人の責任といった各レベルの問題を通じて、現代国際法の変容を明らかにしている。

平和の碑(少女像)について、在外公館の不可侵とは何かを冷静に検討している。日韓の対立をいきなり論じるのではなく、在外公館をめぐる過去の国際法の思考をたどり、その中に位置づける試みである。

人権論を基軸とした国際法の方法論の意義がよく理解できる1冊である。


1 国家と主権「イスラム国」の残響 

2 領域主権と国境管理 

3 自己決定権と沖縄 

4 エストニアと強制失踪 

5 外国国家を裁けるか国家免除という桎梏 

6 国家管轄権の魔法陣

7 国家管轄権の魔法陣② ―権能から義務へ 

8 在外公館の不可侵「平和の少女像」

9 国家責任のとり方「慰安婦」問題 

10 国際裁判の展開

11 国際法を守らせる仕組み

12 国際法と災害 

13 核兵器禁止条約と国際法


Thursday, June 06, 2019

国際法のダイナミズムを学べる読み物


阿部浩己『国際法を物語るⅠ国際法なくば立たず』(朝陽会、2018年)



国際人権法の第一人者の最新刊である。

『国際法の人権化』『国際人権を生きる』『国際法の暴力を超えて』『テキストブック国際人権法』等多数の著作を出してきたが、本書は「物語る」とあるように、概説書や研究書というよりも、一般向けの読み物風に工夫を凝らした入門書である。『時の法令』に連載しただけあって、入門書と言っても、読み応えのある、読者に考えさせる著作となっている。

阿部の国際法学は、何よりも、人権論から国際法を編み直す問題意識と方法論に特徴がある。国際政治の力学、権力関係に付き従うのではなく、人間の尊厳、人権の論理を注ぎ込んできた。

本書でも、マイノリティ、ジェンダー、第三世界などの視点も織り込んでいる。国際法とは何か、そして国家とは何か、を主題としながらも、支配する側の視点だけではなく、多面的多角的に検討を加えている。どの章でも一度は、読みながらニヤッと微笑んでしまう、そうした国際法の本に初めて出会った。


1   国際法と出会う

2   国際法の歴史を物語る

3   国際法と日本

4   国際法の描き方

5   国際法は「法」なのか

6   国際法の存在形態

7   国家について考える領域とは何か

8   国家について考える永住的住民

9   国家について考える政府と独立

10  国家について考える国家承認の法と政治

11  台湾は国家なのか

12  謎の独立国家ソマリランド

13  不思議の国バチカン

14  国家の消滅沈みゆく環礁国


Tuesday, June 04, 2019

沖縄(ウチナー)のことは沖縄人(ウチナーンチュ)が決める!!


琉球の自己決定権BOOKLET

『日米の植民地主義に沖縄人はどう立ち向かうのか』(命どぅ宝!琉球の自己決定権の会、2018年)300円


「憲法番外地・沖縄――沖縄を取り巻く法・政治と植民地主義」高良沙哉

「日米に衝かれた沖縄近現代の弱点」伊佐眞一

「私たちは何者なのか――植民地主義、先住民族の議論から」親川志奈子


沖縄大学人文学部で憲法学や軍事性暴力を研究する高良には、『「慰安婦」問題と戦時性暴力』(法律文化社、2015年)という重要著作がある。木村朗・前田朗編『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房、2018年)に「琉球/沖縄における植民地主義と法制度」という論文を寄稿してもらった。シンポジウムの記録である本ブックレットでも、「憲法番外地」という言葉で沖縄が置かれた状況を点検している。植民地主義が日本憲法学においてどのように論じられてきたか、論じられてこなかったか。「植民地主義に基づく差別のために憲法が沖縄に適用されにくいという状況を理解しない限り、問題性には気付きにくいのではないかと考えます」。説得的な議論だ。

私見では、憲法学のみならず、日本国憲法こそが植民地主義の根拠である。「憲法が植民地主義に基づく差別を内包・容認しているために、沖縄差別が正当化されてしまう」。

高良はそこまでは明言していないが、同じことを考えているのではないだろうか。


命どぅ宝!琉球の自己決定権の会

Saturday, June 01, 2019

桐山襲を読む(9)1972年の最後の脱出者に


『都市叙景断章』(河出書房新社、1989年)


本書も初めて読んだ。装幀は高麗隆彦で、私のかつての同僚だ。

<それはこの時代の奇跡の始まりなのか>

<夜明けの都市に失われた記憶をたどる哀切なレクイエム>

装画として、ピラネージ『牢獄』が使われている。砂の都市・東京。紫色の夜明け。公園ベンチの失業者。首都中心部にある空洞としての西洋式公園。北側の封建時代の城。北方の山岳地帯へ続く16本のホーム。記憶を失った語り手が高層ビルの窓硝子を拭く大都会の「牢獄」イメージが積み重ねられる。

かろうじて蘇ってきた4つ記憶の断片。

1つは、1968年10月21日、「国際反戦デー」と呼ばれた日の、国会前デモ。螺旋階段を降りた喫茶店で流れるアルバート・アイラーのChange has com

2つは、1969年9月5日、H野外音楽堂における全国全共闘連合結成集会。

3つは、1970年代初頭、雪の山岳ベース建設に協力した語り手たちが一瞬垣間見た悲劇への端緒。

4つは、1972年2月の新聞記事。

こうして語り手は、連合赤軍事件と呼ばれた事件への滑走路を自分もたしかに横切ったことを思い起こす。

そして、真昼子、MAHIRUKO

語り手の姉であり、かつての恋人であり、あるいは単なるクラスメートだったかもしれない女性の美しい顔の記憶。

時代を共有し、事件にともに立ち会い、その場にいたはずの彼女が、南島でひっそり生きる在日朝鮮人の老婆の付き添いボランティアとして生きている、かもしれない。

連合赤軍事件の12人の犠牲者リストには加えられなかったその名前。

1972年の最後の脱出者ともいうべき者。

1980年代の最後の年に、記憶を失った語り手がTVに一瞬だけ確認した真昼子の顔。


『パルチザン伝説』以来、激動の時代の学生の<叛乱>を題材としながら、歴史と神話と伝記の謎に挑んできた桐山だが、その作風は常に「叙情的」と批評されてきた。積極面としても消極面としても使われた「叙情的」。これに反論するかのごとく、桐山は「都市叙景断章」を提示した。

だが、<哀切なレクイエム>。誰のためのレクイエムだっただろうか。

ヘイト・クライム禁止法(154)ネパール


ネパール政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/NPL/17-23. 20 February 2017)。

憲法第17条は意見の自由、表現の自由、集会の自由、政党結成の自由などを保障するが、これらの自由は一定の制約を受けることがある。様々のカースト、民族、宗教、又は共同体の人々の間の調和を危険にさらす行為、人種差別の煽動、不可触の煽動行為に合理的制約を課す法律を制定することができる。憲法第19条はマスコミの権利を定めるが、様々のカースト、部族、共同体の人々の間の調和を貶めたり、不可触の煽動やジェンダー差別の煽動を行うことを保障していない。

憲法第17条は、地域に敵意を煽り、異なるカースト集団、民族、宗教集団の間の調和を危険にさらし、暴力を煽動する組合、結社、政党に制約を課す。政党が特定のカースト、言語、宗教の構成員にだけ党員資格を認めたり、排除することを制約する。

2002年の政党法第5条は、様々な部族、カースト、共同体の間の調和を危険にさらす行為を行う政党を禁止する。特定の宗教、宗派、部族、カーストだけの政党は選挙委員会が受理しない。

1959年の名誉毀損・中傷法は、カーストや職業に対する名誉毀損を犯罪とし、刑罰及び被害者への賠償を定める。1993年の国営放送法第11条は、すべての部族、言語、階級、地域、宗教の間の平等と調和を高める番組を優先するよう定める。同法第15条は、部族、言語、宗教、文化を誤解させ、貶め、中傷する広告の放送を禁止する。

1991年の印刷出版法第14条は、様々なカースト、部族、宗教、階級、地域、共同体の人々の間に敵意をつくり出す出版物を制約する。同法第16条は同じ性質の外国出版物の輸入を制約する政府命令を出すことができるとする。

1969年の動画法は、異なるカーストや部族の間の調和を害する動画の制作及び配布を禁止する。

人種差別撤廃委員会のネパール政府への勧告(CERD/C/NPL/CO/17-23. 29 May 2018)。

人種憎悪やカーストに基づく憎悪が判決における刑罰加重事由であるかどうかの情報がない。人種主義ヘイト・スピーチ事件に関する統計がない。人種主義宣伝や組織を適切に監視していないという報告がある。人種憎悪やカーストに基づく憎悪が犯罪動機の場合に刑罰加重事由とすること。法執行官がヘイト・クライム/スピーチを適切に認知、記録、捜査、訴追、制裁しうるようにすること。共同体レベルで、カーストに基づく憎悪を根絶するため啓発と対話を行うこと。次回報告書において、被害者のカーストや民族性によって被害が大きくなるヘイト・クライム/スピーチの統計を提供すること。条約第4条についての留保を撤回すること。

鹿砦社・松岡利康さんへの返信 (2)


鹿砦社・松岡利康さんへの返信 (2)



松岡利康さん



お返事ありがとうございました。5月28日付の下記の記事を拝読いたしました。

【カウンター大学院生リンチ事件】前田朗教授の誤解に応え、再度私見を申し述べます 鹿砦社代表 松岡利康




那覇からお返事差し上げます。渡嘉敷・座間味・粟国・渡名喜・久米島・南北大東の離島を結ぶ船舶が発着する泊港にある「とまりん」のテラスでさんぴん茶片手に、東シナ海からの爽やかな風に吹かれているところです。明日2日に琉球大学で開催されるシンポジウムに参加します。

東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会 第19回公開シンポジウム

「脱植民地化運動としての琉球民族の遺骨返還運動」                


琉球の墓地から盗掘した琉球民族の遺骨を京都大学が隠し持っている事件で、昨年12月に京都地裁に提訴がなされ、裁判が進行中です。京都地裁ですので、取材していただけますと幸いです。




さて最初に、私の事実誤認をご指摘いただきましたこと、お礼申し上げます。ありがとうございます。鹿砦社の5冊の本は当時通読いたしましたし、判決文も一読しましたが、手元に置いてひも解くことなくお返事を差し上げました。本件に一貫して熱意をもって取り組んでこられた松岡さんらしく、私のミスを速やかにかつ的確にご指摘いただきました。

孤立した被害者を支援し、事実の解明に多大のご努力を払ってこられたことに改めて敬意を表します。比類のない情熱でエネルギーを注いでこられただけに細部に至るまで正確に記憶なさっていることに感銘を受けました。

ところで、せっかくこれほど力を尽くして本件に向き合ってこられたのですから、もう一歩前進するために、細部に目を配るだけでなく、目の前の最重要事実を直視されてはいかがでしょうか。松岡さんが唱えたストーリーの根幹部分が裁判において否定されたのです。要の飛び散った扇をあおいでも周囲に風を送り届けることはできません。目をそらしたい結論であっても、判決において認定された事実に照らしていったん自分のストーリーを再点検のうえ出直すのが良識ある市民というものです。延々と自説を繰り返しても、要の吹き飛んだ扇に振り回されていると見られるのではないでしょうか。

本件で「冤罪」という言葉を使うことができるのは、民事裁判で被告の立場に立たされて、あらゆる非難を浴びてきた李信恵さんです。原告を支援して、他者に厳しい糾弾の言葉を突きつけてきた松岡さんが使う言葉とはとうてい考えられません。

繰り返しになりますが、受け入れがたい事実であっても、双方の立証活動をふまえた上で裁判所が下した判断が確定したのですから、社会的に発言される場合には、確定した事実をもとに発言されることが肝要です。ほんの少しの勇気を払って、事実は事実として受け入れてはいかがでしょうか。

松岡さんが裁判所の認定を批判するのはもちろん自由ですが、認定されなかった事実に固執して他者を論難することは決して自由の範囲ではありません。

事実を受け入れることは決してメンツが潰れることではありません。勇気を奮って事実を直視したうえで次の一歩を踏みだせば、新しい扇でもって爽やかな風を巻き起こすことができるに違いありません。そうすればより多くの人々が耳を傾けることになるでしょう。その時にはふたたびお手紙をいただけますと幸いです。

なお、これも繰り返しになりますが、私の『救援』記事の骨子にはいまのところ訂正の必要を認めません。関西で起きた、見ず知らずの人たちのトラブルに私はまったく関心がありませんでした。松岡さんのおかげで、かねて敬愛する友人たちが事態を適切に解決できなかったことを知り、『救援』記事で友人たちに忠告をしておきました。私にとってはそれで十分です。裁判が終結して法的に決着がついた後になって、「判決など関係ない。我こそ絶対正義なり」と呼号して関係者を問い詰める理由はどこにもありません。まして、権力批判に疲れたからと言って、マイノリティである在日朝鮮人女性叩きに「豹変」する才覚は持ち合わせておりません。

前回詳しく申し述べた通り、私は反差別、反ヘイトの研究と実践をライフワークとしておりますので、私の取り組みに友人たちに協力してもらうのは当然のことです。

松岡さんも、反差別と反ヘイトの運動に、応援団、兼、厳しい監視人として協力していただけますと幸いです。

ありがとうございました。

松岡さんと鹿砦社のますますのご発展、ご活躍を祈ります。