Thursday, January 30, 2020

星野智幸を読む(2)未来に向けた過去


星野智幸『未来の記憶は蘭のなかで作られる』(岩波書店、2014年)



星野の最初のエッセイ集だ。1998年から2014年にかけての、小説作品以外の文章から選んだ44本を集め、年代とは逆の順、つまり最初に2014年、最後に1998年のものが収められている。

2001年の「自分を解体する旅」は、「どこででも生きられる人間でありたかった。日本でしか生きられない自分、日本に守られ、しかも守られていることに気づかずに生きている自分が、耐えがたかった。一度、徹底的に自分を解体し、無意識を底の底まで見尽くしてみたかった。だから、会社を辞めてメキシコに住み、中南米を旅して回っていたのだ」と始まり、エルサルバドルの旅に出かけるが、「自分がどこにでも住もうと思えば住めるのは、日本国籍を持ち、日本経済の恩恵を受けているからだと思い、悲しくなった。どこででも生きられる人間になりたいという願望自体が、私を架空にする」と気づく。

星野は自分の勘違いに気づき、対象化して文章を書いている。この種の勘違いをしながら、勘違いに気づこうとしない人間のほうが多いのではないか。人種・民族や、階級階層や、性別といった差別が問われる局面で、「差別を超えている」つもりになっている知識人は珍しくない。国籍を超えたつもりで無責任な発言をする知識人はもっと多い。

「日本政府発行のパスポートを破り捨てて世界を旅してから、そう言ってください」と言っても、その意味を理解しようとしない。

同様に、デラシネだの、遊牧民だのと気取る知識人も多い。本当のデラシネを知らず、遊牧民の生活を知らないから、お気楽に言えるのだが。自分の基準でものを考えることしかできず、その「自分の基準」が日本の基準に過ぎないことに気づこうとしない。

星野はその殻を破り、自分を問い詰める作業を続けている。



2002年の「『私』と政治」では、日本文学の伝統である「私小説」を厳しく批判し、「日本社会に見えない形で浸透しつつある排他的な力を、小説の言葉によって無化する」課題を掲げる。

同年の「戦争を必要とする私たち」では、9.11以後の窒息しそうな国際的国内的状況を前に、「言葉の危機」、「言葉が通じなくなりつつある現在の環境」のなかで文学の責任を問い続ける。「私は自分のいる場所に責任を負っており、世界中でそれぞれが自分の暮らす場所の事情に応じて態度表明を行わなければ、いまある自分を消して戦争という大きな文脈に興奮し、ニヒリスティックに現状を肯定するだけになるからだ」と言う。



2006年の「『リベラル』であることの欺瞞」では、「私は、日本国籍を持っていることと男であることに、罪悪感と責任を感じるからだ。それは日本人としての責任を果たすとか、男として責任を取る、ということとはまったく違う。男であり日本国籍を持つことによって、自分は最初から権力を与えられており、そのことが何かの抑圧になっているということを、よく自覚する、という意味である」と言う。こうした自覚を持っている者はどれだけいるだろうか。



2011年の3.11の後の文章もいくつか収められているが、「震災を語る言葉を待つ」では、現実に向き合って、正面から語る言葉をまだ持ち得ていないことを自ら認め、「今は沈黙のときだと思っています」としながら、紡ぐべき言葉を模索していることを吐露する。



2013年の「黙って座ったまま」では、「この社会は、自分たちが自分たちの意思で生きることを、諦めてしまったのだろうか。私にはそのように見えてしまう。雇用環境の激しい悪化や、震災、原発事故によるダメージを前に、その苦境を乗り越えよう闘おうという意思を放棄してしまったかのように映る。来ないバスを待って、ただ座っているかのように。まわりが座っているから自分もただ何となく座っているかのように。でもバスは来ないのだ」と言う。

9条改憲にしても、自由な言論、基本的人権、自己決定権などの問題においても、「黙ったままの人たちがマジョリティを占めている」ことに注意を喚起し、「私たちは今、黙って座ったまま、主権という強大な権力を放棄しつつある。本当にそれでよいのだろうか」と問う。



小説とは違って、ストレートな文体での時評や日記風の文章において、自分について、文学について、世界について語っているので、星野の思考が良く理解できる本である。作家デヴューから2014年までの星野作品と並行して書かれた文章であるし、「私は過去を、未来の中に埋め込んでおきたい。この本は、未来に対する仕込みとしての過去なのだ」と述べているように、本書以後の星野作品を読む際の導火線としても意味を有する。

Monday, January 27, 2020

日本軍人肉食事件の歴史と本質を問う


佐々木辰夫『戦争とカニバリズム―日本軍による人肉食事件とフィリピン人民の抵抗・ゲリラ闘争』(スペース伽耶)



<目次>

序論 小笠原父島における米兵捕虜人肉食事件

レイテ戦以後

第一五揚陸隊(鈴木隊)

「なぜ殺したのか」を問う(1)―フィリピンにおける二つの戦争裁判

「なぜ殺したのか」を問う(2)―幼児殺害から見えるもの

食人種(Cannibal)たち

征服の修辞学―もしくは大アジア主義

再録 フクバラハップのたたかい



著者・佐々木辰夫

1928年生まれ。同志社大学卒業。中学校に職をうる。在職中から沖縄・奄美をはじめ日本各地の離島・僻地を精力的に歩く。同時に60年代、インド、沖縄その他に関するルポルタージュを『新日本文学』や関西在住者による文学・社会運動の同人誌『表象』『変革者』などに発表。80年代以降はおもにイラン革命、アフガニスタン革命について『社会評論』に執筆。同時にフィリピン・アフガニスタン・ソ連(とくにモスクワ)などに足しげく訪れる。著書に『阿波根昌鴻』『アフガニスタン四月革命』『沖縄 抵抗主体をどこにみるか』など。



冒頭で著者自身が見聞した日本軍による人肉食事件を提示したうえで、本論ではフィリピン・ミンダナオにおける日本軍による大量の人肉食事件を論じている。先行研究および裁判記録をもとに、第二次大戦末期及び直後に、第一五揚陸隊(鈴木隊)が各地を移動しながら、主にヒガオノン族と呼ばれた現地の人々を殺害し、女性を強姦しながら、暴虐の限りを尽くした事件の全体像に迫ろうとする。

事件自体は従来から知られているが、著者は、猟奇的事件の本質を解明するために、日本軍の規律や体質、日本軍人の思考様式を明らかにすると同時に、植民地主義を直接の俎上に載せる。植民地主義、レイシズム、差別の重層性と、戦時(戦争直後)の状況とを重ね合わせて読み解く。

もう一つ重要なことに、著者は事件を「加害と被害」の観点で説明するだけでなく、被害側の抵抗闘争にも留意を怠らない。抵抗する側の「尊厳」意識を明確に論じることによって、日本軍及び日本国家の腐敗と淪落がいっそう浮き彫りになる。近現代フィリピン史は日本ではよく知られていないので、フクバラハップのたたかいを補足していて、読者にとって非常に便宜である。特に抗日ゲリラの一員であるアレハンドロ・サレ中尉に注目しているのは、重要である。

さらに著者は、フィリピンにおける抗日ゲリラ闘争を、フィリピンだけではなく、アジア史に位置づける。

「フィリピンにおけるゲリラ活動全体を、アジア的視野でふりかえると、第二次世界大戦期間の中国、朝鮮、ヴェトナム、マレー、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)、インドおよびスリランカにおける反日・反英の民族解放運動の一翼に、フィリピンがならぶ。南アジア、とりわけインドでは、英本国が反ファシズム戦争に没頭しているとき、反英独立運動に重心がかかっていくという相反現象が生じた。ここに第二次世界大戦とはなんぞや、という性格規定の問題がおこってくる。」

こうした問題意識が明確であるので、本書は首尾一貫した事件史であり、日本軍犯罪史であり、日本論であり、加えて東アジアの抗日・民族解放闘争史でもあり、ひいては人間論にも連なる貴重な書となっている。



巻末に文献リストがあり、40点の文献が列挙されている。

彦坂諦『餓死の研究―ガダルカナルで兵はいかにして死んだか』(立風書房)

田中利幸『知られざる戦争犯罪―日本軍はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店)

この2冊が示されていないのは、フィリピンではないからだろうか。

高橋幸春『悔恨の島ミンダナオ』(講談社)

が文献に挙げられていないのはなぜだろう。




Friday, January 24, 2020

連続講座 中世のような日本司法を斬る


『500冊の死刑――死刑廃止再入門』(インパクト出版会)出版記念連続講座

平和力フォーラム企画

中世のような日本司法を斬る



1回 ゴーンはいかに差別されたのか

       ――刑事司法における外国人の人権

         講師:寺中誠(東京経済大学教員)

日時:2020年2月25日(火)午後6時30分~

会場:渋谷勤労福祉会館・第1洋室(2階)



第2回 国民を殺す制度を持つ国

       ――死刑がないと安心できない社会を問う

         講師:石塚伸一(龍谷大学教授)

日時:2020年2月26日(水)午後6時30分~

会場:文京シビックセンター・区民会議室AB(5階)



第3回 自白依存症を治療するために

       ――警察・検察はなぜ拷問まがいの取調べに励むのか

         講師:宮本弘典(関東学院大学教授)

日時:2020年2月29日(土)午後6時30分

会場:渋谷勤労福祉会館・第2洋室(2階)

      *3回とも開場:午後6時、開会:午後6時30分~8時40分

*3回とも参加費(資料代含む):500円

*平和力フォーラム及び協賛団体の会員・読者・市民向け入門講座です。

*会場は「平和力フォーラム」名義で借りています。





刑事被告人カルロス・ゴーンの国外逃亡事件は近来まれに見るサスペンスであり、コメディでした。1月8日の記者会見は、日本の御用メディアを排除し、国際メディアを相手に、ゴーンの主張を初めて提示した点で聞き所が満載でした。

 ゴーンの日本刑事司法批判は基本的に正当であり、適切であり、国際常識に適っており、国際人権法にも合致します。

 日本の検察とマスコミは「ゴーンが一方的な主張をした」などと、恥の上塗りをしました。一方的にゴーンを非難してきたのは検察とマスコミです。

 しかし、日本の刑事司法には、基本的人権の観念が欠落しています。無罪の推定が認められていません。プライバシーも認められていません。公正な裁判という観念は日本の裁判官や検察官にはまったくありません。外国人に対してひどく差別的です。時代遅れであり、人権無視であり、「疑わしきは被告人の利益に」原則を拒否して、「疑わしきは有罪」原則を採用しています。現に森雅子法務大臣が「ゴーンは無罪を証明するべきだ」と述べました。有罪の証明が当たり前と思い込んでいるがゆえの暴言です。

 国連拷問禁止委員会では、「日本の刑事司法はまるで中世のようだ」と特徴付けられました。長いこと国連人権機関に通って傍聴してきましたが、「中世のようだ」と特徴付けられた国は他にはありません。日本だけです。

 それでは具体的にどのような点が問題とされてきたのでしょうか。代用監獄、死刑、刑事施設における処遇、外国人収容センターにおける差別と人権侵害、ジェンダー差別など多くの問題があります。ゴーン事件との関連では、未決段階での取調べと自白の問題や、刑事裁判における外国人の人権無視が直接関係します。

 この講座では、日本の刑事司法の問題点を洗い出して、「先進国」と自称する日本の「中世のような司法」について検証します。

 毎回、ゲスト講師をお招きし、前田がインタヴューします。

         *

なお、私たちはカルロス・ゴーンに興味はありません。労働者大量解雇によって日産の業績を「回復」して自分の成果と誇っているゴーンを擁護しません。この間の日産ゴーン事件は腐敗した権力内部の紛争にすぎません。



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1回 ゴーンは差別されたのか

       ――刑事司法における外国人の人権

       講師:寺中誠(東京経済大学教員)

日時:2020年2月25日(火)


会場:渋谷勤労福祉会館・第1洋室(2階)

       東京都渋谷区神南119

JR線渋谷駅(中央口)から徒歩8分

 東京メトロ半蔵門線/銀座線/副都心線渋谷駅(7出口)から徒歩8分

*講師プロフィル:寺中誠さん:東京経済大学教員。共著に『QA ヘイトスピーチ解消法』(現代人文社)、『ぼくのお母さんを殺した大統領をつかまえて人権を守る新しいしくみ・国際刑事裁判所』(合同出版)、『裁判員と死刑制度』(新泉社)。論文に「国際的孤立に進む日本の人権政策」『世界』201310月号



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第2回 国民を殺す制度を持つ国

       ――死刑がないと安心できない社会を問う

       講師:石塚伸一(龍谷大学教授)

日時:2020年2月26日(水)

開場:午後6時、開会:午後6時30分~8時40分

会場:文京シビックセンター・区民会議室AB(5階)

       東京都文京区春日1‐16‐21

東京メトロ後楽園駅丸ノ内線(4a5番出口)南北線(5番出口)徒歩1

都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(シビックセンター連絡口)徒歩1

*講師プロフィル:石塚伸一さん:龍谷大学教授:共著に『現代「市民法」論と新しい市民運動』(現代人文社)、『薬物政策への新たなる挑戦』(日本評論社)、『弁護士業務と刑事責任――安田弁護士事件にみる企業再編と強制執行妨害』(日本評論社)、『デリダと死刑を考える』(白水社)など多数。



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第3回 司法の自白依存症は治療できないのか

       ――警察・検察はなぜ拷問まがいの取調べに励む

       講師:宮本弘典(関東学院大学教授)

日時:2020年2月29日(土)

開場:午後6時、開会:午後6時30分~8時40分

会場:渋谷勤労福祉会館・第2洋室

       東京都渋谷区神南119

JR線渋谷駅(中央口)から徒歩8分

       東京メトロ半蔵門線/銀座線/副都心線渋谷駅(7出口)から徒歩8分

*講師プロフィル:宮本弘典さん:関東学院大学教授:著書に『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房朔)『近代刑法の現代的論点』(共著、社会評論社)『国家の論理といのちの倫理』(共著、新教出版社)『歴史に学ぶ刑事訴訟法』(共著、法律文化社)等多数。



*インタヴュアー:前田朗:主な著書に『500冊の死刑――死刑廃止再入門』(インパクト出版会)

http://impact-shuppankai.com/products/detail/290



主催:平和力フォーラム

     電話070-2307-1071(前田)

     E-mail:maeda@zokei.ac.jp

協賛:インパクト出版会


Thursday, January 23, 2020

ヘイトスピーチ研究文献(144)在日コリアン弁護士協会の闘い


金竜介・姜文江・在日コリアン弁護士協会編

『在日コリアン弁護士から見た日本社会のヘイトスピーチ』(明石書店、2019年)

https://www.akashi.co.jp/book/b482100.html



「人種差別がない社会は、永久に来ないのかもしれない。しかし、人種差別を許さない社会を実現することはできるはずだ。」(金竜介)



『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』に続く、在日コリアン弁護士協会LAZAKのヘイトとの理論的かつ実践的な闘いの書である。
13人の弁護士達が、ヘイトスピーチの被害、ネット上のヘイト対策、歴史的背景、朝鮮学校の民族教育、この間の判例、地方自治体条例などを分担して執筆している。特に、在日コリアン弁護士に対する大量懲戒請求という差別と嫌がらせに対する当事者としての闘いの記録が注目される。

この10年間、被害当事者、弁護士達、研究者、ジャーナリスト、カウンターの市民が取り組んできた反ヘイト運動の成果をまとめた1冊と言えよう。



日本は、国家が差別を煽動し、ヘイト集団が暴れ、一般市民も差別に巻き込まれ、容認している珍しい社会だ。

国際社会に目を転じれば、差別もヘイトもなくなっていないし、反差別政策も決して十分とは言えないが、少なくとも「人種差別を許さない社会」が当たり前になっていると言ってよい。

本書の13人は弁護士であると同時に、ヘイトの被害者でもあり、さらに大量懲戒請求によって業務妨害の被害も受けている。二重三重の被害に敢然と立ち向かう著者達に敬意を表したい。

Wednesday, January 22, 2020

星野智幸を読む(1)現実と妄想がスパークする


星野智幸『最後の吐息』(河出書房新社、1998年)



1997年の第34回文藝賞受賞作で、星野のデヴュー作だ。当時読んでいないため、初めて読んだ。表題作及び「紅茶時代」の2作品が収録されている。

宣伝惹句に「わたしは密にして、ナイフ――鮮烈な色・香・熱にむせぶメキシコの陶酔」とあるように、199192年と9495年にかけてメキシコシティに私費留学した経験を踏まえて、現地の街、風土、人々を素材に、独特の文学世界を構築している。現実と妄想の入り混じった文体が魅力的だったことが受賞理由だろう。

冒頭から、メキシコ、ハチドリ、ハイビスカス、ブーゲンビリア、トカゲ、グアバ、ベゴニア、タンゴという単語が乱舞する。大半を占める作中作の主人公――「蜜雄と名づけられた蜂鳥家の長男」は水泳選手になって10歳で日本記録に迫り、中学で記録を塗り替えたが、大学で水泳と縁を切り、メキシコの市場で手にした金の魚細工に引き込まれ、金細工づくりを業とするようになる。メキシコにおける革命運動の旗手も金細工で名を成していたという設定で、主人公はメキシコの民衆世界を疾走することになる。女、セックス、革命という舞台装置はありきたりだが、日本ではなくメキシコのため、違和感の相乗効果というか、現実=妄想文体の効果というか、新しい文学世界を感じさせる。乱痴気騒ぎのファルスと男根のファルスが行き違い、革命万歳が狂熱の空を揺るがす。その果てに何が起きるのか。何も起きないのか。



ここ数年、井上ひさし、大江健三郎、目取真俊、桐山襲を読み返してきた。井上ひさしについては、前田朗『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(耕文社)にまとめた。大江、目取真、桐山についてはこのブログに書いてきた。

今年はだれを読もうか、去年のうちに決めておきたかったが、決めていなかった。小田実も読み返さなくてはいけないし、夏堀正元も読みたい。サイードやアーレントもまとめて読みたい。内外に読むべき作家、思想家がたくさんいるが、時間は限られている。多忙な中、作品の多い作家を数年間読み続けるのは大変だ。一年で読める作家にしようかなどと悩んでいたが、年も明けたので、星野智幸を選んだ。

1997年のデヴューだから作品がそう多いわけではない。調べてみると、単行本は20数冊だ。社会派というか、リベラル派(にはいろんな意味があるので、こう単純に決められないが)というか、硬派というか、この時代にこうした面での評価の高い作家の代表と言えるだろう。

それに『ファンタジスタ』は読んだが、他は全く読んでいない。新聞・雑誌に掲載されたエッセイをいくつか読んだ記憶があるのと、反ヘイトの本、中沢けいの『アンチヘイト・ダイアローグ』に収録された対談を読んだ程度だ。つまり、星野智幸をほとんど知らない。もっと早くに読んでおくべき作家だったのではないかと思い、今年の作家に決めた。



星野は1965年、ロサンゼルス生まれ。早稲田大学文芸科を卒業し、産経新聞記者を経てメキシコシティ留学。19962000年、太田直子に師事して字幕翻訳。97年、「最後の吐息」で文藝賞受賞、2000年「目覚めよと人魚は歌う」で三島由紀夫賞、『ファンタジスタ』で野間文藝新人賞、2011年『俺俺』で大江健三郎賞、2015年『夜は終わらない』で読売文学賞、2018年『焔』で谷崎潤一郎賞。この間、何度か芥川賞候補になったが、2007年に卒業宣言をして芥川賞の対象外になることを選んだという。

Tuesday, January 14, 2020

考えることの大切さと愉しみ、そして脱原発


國分功一郎『原子力時代における哲学』(晶文社、2019年)



脱原発のために、客観的理由や客観的基準を出すことはとても重要だ。原発推進派を論破することも必要だ。しかし、と國分は語る。市民運動にもかかわる國分にとって脱原発は必要であり、そのための政治の営みも重要だ。ただ、哲学者としての國分にとって、「原子力時代を乗り越える」ためには、「原子力を使いたくなってしまう人間の心性」を問う必要がある。

「原子力への欲望には、何にも頼らない絶対的に独立した生、『贈与を受けない生』へのあこがれが見いだされる。これは失われた神のごとき全能感を取り戻そうとするナルシシズムと同型である」(283284頁)から、このナルシシズムを乗り越えることが必要だ、というのが國分の結論である。

考えることの大切さと愉しみを随所で読者に感じさせる本である。國分節とでも言おうか。

本書は國分が2013年に行った4回の連続講義の記録に加筆して2019年に出版したものである。

1講~3講の基本的テーマは、ハイデッガー哲学に学ぶことである。というのも、1950年代にいち早くハイデッガーは原子力時代について語っていた。誰もが核兵器に反対していたその時代に、核兵器よりも、原発に、「原子力の平和利用」に批判のまなざしを向けていた数少ない著者がハイデッガーだ。

それゆえ、國分はハイデッガーの著述に内在して、ハイデッガーがなぜ、どのように考えたのかを追跡する。そのため、議論の多くがギリシア哲学の思考を追体験することに費やされる。300ページほどの著書だが、1~3講が大半を占める。4講は250頁以下の50ページに満たない記述である。

途中を飛ばして、ギリシア哲学とハイデッガー哲学だけを論じて脱原発の課題に迫ろうという、かなり強引な組み立てだが、その叙述は面白く読めるので、読者は飽きずに國分の主張に付き合うことができる。



ただ、疑問がないわけではない。とりあえず次の2点だけ書き留めておこう。

1に、1~3講ではギリシア哲学とハイデッガー哲学を250頁もかけて紹介しているが、本書における議論の真の主題は、なんと268頁目に「ならば何を考えなければいけないか。既に問題は見えています。それは、なぜ我々は原子力をこれほどまでに使いたいと願ってきたのかという問題です」という形で提示される。270頁以下で同じことがさらに補足される。

そして、國分はそれを「原子力信仰」という表現にまとめ、これを乗り越えるためには「精神分析が有効だ」と述べ(274頁)、ここからフロイトの精神分析の解説と応用に入る(274278頁)。つまり、本題本筋からすると、1~3講はフェイクにすぎず、268286頁の僅か18頁に本書の主題をめぐる考察は限定されている。形ばかりハイデッガーも精神分析と同型の議論をしていたと言い訳がなされるが、いずれにしろ、1~3講と4講とは論理的連関の不明な議論というしかないだろう。

2に、真の課題に向き合った時に國分がまず引証するのは、中沢新一『日本の大転換』である。そこで中沢は、「原子力とは何なのかという問題を存在論的に突き詰めた」という。「生態圏の外部にあるものを内部に持ち込もうとしている」という存在論的な定義だという。これはこれで理解できる。

ところが、國分によると、中沢はこうして定義した原子力技術を「一神教や資本主義と同型であると述べたので、いかがわしい議論ではないかと批判されました。一神教の方は僕はよく分からないんですが、資本主義と同型であるという主張は妥当だろうと思います」(265頁)という。

「一神教の方は僕はよく分からない」の一言ですまし、この後にこれに関する記述が一つもないのはなぜだろう。肝心な部分で「分からない」では困るだろう。

しかも、國分自身の結論において「原子力への欲望には、何にも頼らない絶対的に独立した生、『贈与を受けない生』へのあこがれが見いだされる。これは失われた神のごとき全能感を取り戻そうとするナルシシズムと同型である」と、突如として「失われた神のごとき全能感」を持ち出している。その根拠は示されていない。

脱原発のためには客観的基準だけでは不十分だ。政治的議論だけでは不十分だ。哲学からの根源的な議論が不可欠だ――こう主張するのであれば、「一神教の方は僕はよく分からない」と済ましているのは「よく分からない」。



國分の主著を読んだことがない。新書本は読んだが、『暇と退屈の倫理学』『ドゥルーズの哲学原理』『中動態の世界』は読んでいないので、國分哲学については特にコメントできない。

Monday, January 13, 2020

ダ・ヴィンチ没後500年「夢の実現」展


代官山ヒルサイドフォーラムで、ダ・ヴィンチ没後500年 「夢の実現」展(主催・東京造形大学)をみてきた。

http://leonardo500.jp/



企画・実施は勤務先の同僚達。特に西洋美術史の池上英洋、博物館学・日本美術史の藤井匡。その他に数名の教授たちと、多数の学生達の共同作業である。

コンセプトは、ダ・ヴィンチが企画したり手がけたものの実現・完成しなかった作品を、共同作業で「復元」(というか、新規制作)した作品を展示するというものだ。

絵画、彫刻、巨大墳墓、聖堂、舞台芸術、機械など、多彩なダ・ヴィンチのアイデアがその手稿・メモに記録されているのを、模型とつくり、アニメで表現するなど、現在の技術で「復元」している。とても楽しい展示だ。



<ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ヴィンチは、今からちょうど500年前の1519年に亡くなりました。

彼は<最後の晩餐>や<モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)>という、世界で最も知られた絵画を描いた画家ですが、67年の生涯で残した作品は驚くほど少なく、現存絵画は16点ほどしかありません。

しかもその多くは未完成や欠損しており、完全な姿で残っている完成品は4点しかありません。

そこで東京造形大学では、今年一年ですべての絵画をヴァーチャル復元する作業に挑戦しています。

未着色のものに彩色を施したり、消失部分を科学的根拠に基づいて復元するなどして、完全な状態で全16作品を展示できれば、世界初の試みとなります。

また完成に至らなかったブロンズ製騎馬像や、構想していた巨大建築物、当時の技術では実現不可能だった工学系発明品なども、縮小模型や3DCGなどによって実現します。

同展ではまた、彼の絵画空間のなかに入り込んだり、彼が考案した機械を動かすVRなども体験できます。それらの多くが、やはり世界で初となります。

「夢の実現」展が目指しているのは、その名の通り、まさに「レオナルドがかつて抱いた夢の一部を、500年後の今、実現させる」ことなのです。>



・レオナルドが下絵まで描いて放棄した作品を、彩色した状態で見てみたい。

・一部が切断されて失われた絵画の、もともとの姿を見てみたい。

・完成後に傷んでしまった作品を、完全な状態で見てみたい



私が行った時間は午後2~3時で、この時間帯は、目玉展示の<最後の晩餐>復元映像が、窓から差し込む光のために、やや見えにかった。会場・施設の都合で、ここだけはうまく解決できなかったようで、晴れた日にはちょっと残念。他の時間帯、または曇っているときなら、ステキな映像で見ることが出来る。



渋谷へお出かけの人にはお勧め。ちょっと代官山へ、どうぞ。


Sunday, January 12, 2020

ゴーンの日本刑事司法批判は基本的に正当である


刑事被告人カルロス・ゴーンの国外逃亡事件は近来まれに見るサスペンスでありコメディでもあった。1月8日の記者会見も、逃亡方法の具体的説明はなかったものの、デマを垂れ流してきた日本の御用メディアを排除し、国際メディアを相手に、ゴーンの主張を初めて提示した点で聞き所が満載であった。



日本の検察と日本の異常マスコミは「ゴーンが一方的な主張をした」などとデマ主張によって、恥の上塗りをした。これに対してゴーンは「検察が1年4ヶ月も一方的な主張をしてきて、自分はたった2時間話しただけなのに、なぜ一方的と言われるのか」と反論した。当然の主張だ。検察にもマスコミにもフェアネスという言葉が存在しない。



ゴーンの日本刑事司法批判は基本的に正当であり、適切であり、国際常識に適っており、国際人権法にも合致する。



にもかかわらず、マスコミは国際常識をきちんと説明しない。法務省もマスコミも国際人権法を踏まえた議論を否定している。







私はカルロス・ゴーンに興味がない。労働者大量解雇によって日産の業績を「回復」して自分の成果と誇っているゴーンを擁護しない。この間の日産ゴーン事件について関心はないし、特に情報を持っていない。



しかし、ゴーンの日本刑事司法批判には大いに関心がある。それは私たちが長年唱えてきた主張と共通する主張内容だからだ。日本の刑事司法には、基本的人権の観念が欠落している。無罪の推定が認められていない。プライバシーも認められていない。公正な裁判という観念は日本の裁判官や検察官にはまったくない。弁護士でさえ、まともな人権感覚を持っていない者が少なくない。日本の刑事司法は時代遅れであり、人権無視であり、有罪の推定に立っており、「疑わしきは被告人の利益に」原則を拒否して、「疑わしきは有罪」原則を採用している。



このことを私たちは30年以上主張してきた。1980年代の代用監獄批判、誤判・冤罪批判、死刑批判に始まって、弾圧、抑圧、差別、監視、人間性否定の刑事司法に疑義を唱えてきた。



そして、私たちは国連人権機関に日本刑事司法の問題性を訴えてきた。198090年代には国連人権委員会や、国際自由権規約に基づく自由権委員会にてロビー活動を行い、委員会から日本に対して勧告が出されてきた。



その後、日本政府が拷問等禁止条約を批准したので、拷問禁止委員会、自由権委員会、国連人権理事会(特にその普遍的定期審査)において、日本の人権状況が審査され、数々の問題点が指摘されてきた。



そして、拷問禁止委員会では、「日本の刑事司法はまるで中世のようだ」と特徴付けられた。長いこと国連人権機関に通って傍聴してきたが、「中世のようだ」と特徴付けられた国は他にはない。日本だけである。



それでは具体的にどのような点が問題とされてきたのか。代用監獄、死刑、刑事施設における処遇、外国人収容センターにおける差別と人権侵害、ジェンダー差別など多くの問題があることが明らかにされてきた。



ゴーン事件との関連では、未決段階での取調べと自白の問題が直接関係する。



例えば、20135 29日、国連拷問禁止委員会(拷問及び他の残虐な、非人道的な                       又は品位を傷つける取り扱い又は刑罰に関する条約に基いて設置された委員会)は日本政府に対して数多くの是正勧告を出した(CAT/C/JPN/CO/2)。例えば、次のような勧告である。やや長いが11パラグラフを引用する。



***



<取調べ及び自白>

11. 委員会は,拷問及び不当な取扱いによって得られた自白に法廷における証拠能力がないと規定している憲法第 38 2 項及び刑事訴訟法第 319 1 項,有罪判決が自白のみに基づいて下されることはないという締約国の発言,そして被疑者が犯罪の自白を強制されてはならないということを保障する取調べガイドラインに留意する。しかし,委員会は引き続き以下の事項に懸念を有している:

 (a) 締約国の司法制度は,実務上,自白に広く依拠しており,その多くは弁護士の立会いのない中で代用監獄において得られている。委員会は,暴行,脅迫,睡眠妨害,休憩のない長時間の取調べなど,取調べ中に行われた不当な取扱いに関する報告を受けている;

 (b) 全ての取調べにおいて,弁護人の立会いが義務付けられていないこと;

 (c) 警察の留置施設において,被勾留者に対して適切な取調べがなされたのか検証する手段が欠けており,とりわけ,一回あたりの取調時間に厳格な制限がないこと;

 (d) 検察官に対する被疑者及びその弁護人による取調べに関する 141 件の不服申立てのうち,訴訟に至ったケースがないこと。(第 2 条及び 15 条)

 委員会は,憲法第 38 2 項,刑事訴訟法第 319 1 項及び条約第 15 条に沿って,締約国が,あらゆる事件において,拷問及び不当な取扱いによって得られた自白が,実務上,法廷において証拠能力が否定されることを確保するため,全ての必要な手段を講じるべきとの前回の勧告

(パラ 16)を繰り返す。特に:

(a) 取調べの時間制限について規則を作り,その不順守の場合に適切な制裁を設けること; (b) 刑事訴追の際,自白に証拠の主要かつ中心的な要素として依存するような慣行を終わらせるため,捜査手法を改善すること;

(c) 取調べの全過程を電子的に記録するなどの保護措置を実行し,その記録を裁判で使用できるよう保証すること;

(d) 強制,拷問,脅迫,または長期間にわたる逮捕や勾留の末になされた自白で,刑事訴訟法第319 1 項に基づき証拠として認められなかったものの件数を委員会に提供すること。



***



 このように未決の検察・検察段階における被疑者取調べでは、自白強要がなされ、暴行や脅迫がなされ、長時間に及んでいることが指摘されている。



これに対して、森雅子法務大臣が「ゴーンは無罪を証明するべきだ」と述べた。文字通り、有罪の証明が当たり前と思い込んでいるから、法務大臣がこうした異常な主張を平気で述べる。まともな国なら、大臣失格で辞任騒ぎになるはずだが、日本ではそうはならない。検察も社会も有罪の推定がなぜ許されないのかさえ理解していないからだ。



法務大臣は後に、言い間違えたなどと釈明したが、弁護士でもある法務大臣が、この点で言い間違えることはありえない。フランスの弁護士が皮肉交じりに「あなたの国では有罪の推定だから」と述べたという。



無罪の推定を理解していないのは、マスコミや一般人だけではない。裁判官と検察官が最悪なのだ。被疑者・被告人の人権など顧みないのが日本の裁判官と検察官である。



拷問禁止委員会の日本政府に対する勧告には次のような項目がある。



***



<研修>

締約国は以下のことをすべきである:

(a) 全ての公務員,特に裁判官並びに法執行官,刑事施設及び入国管理局の各公務員が条約の規定を認識することを確保するため,研修プログラムを更に発展・強化させること;

(b) 拷問事件に関する調査及び証拠書類作成に関与する医療職員や他の職員に対して,イスタンブール議定書についての研修を定期的に行うこと;

(c) 法執行公務員の研修に,非政府組織の関与を慫慂すること;

(d) ジェンダーに基づく暴力と不当な取扱いを含む,拷問の絶対的禁止と予防に関する研修プログラムの効果と影響を評価すること



***



日本の裁判官や検察官は国際人権法の素養がないから、こういう勧告が出されることになる。こうした勧告は今回が初めてではない。1990年代から何度も何度も出されてきた。しかし、裁判所も法務検察も勧告を受け容れていない。何が何でも人権無視を押し通す姿勢だ。



今回は拷問禁止委員会の勧告の一部を紹介したに過ぎないが、自由権委員会からも国連人権理事会からも同様の勧告が何度もなされてきた。



ゴーン事件についてコメントするつもりはない。しかし、ゴーンの日本刑事司法批判は実に説得的である。法務大臣や検察の反論はおよそ反論になっていない。それどころか、中世のような人権無視大国の実態を世界に露呈する結果になっただけである。マスコミは法務検察のお馬鹿な主張を垂れ流すことによって日本の恥を世界にさらしている。まともな知性を持っていないからだというしかない。

Saturday, January 11, 2020

旅する文学者が辿り着いた境地


立野正裕『紀行 辺境の旅人』(彩流社、2019年)

http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-2631-4.html



立野の「紀行」シリーズ第7弾である。

「文学」「芸術」を基軸に北欧から南欧までの思索の旅を続けてきた立野は、今回もスコットランド、クリミア半島、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、スペイン、ギリシア、イタリア、フランスを訪れ、欧米文学をはじめとする世界の思索を手がかりに、現地の風に吹かれ、景色に大きく息を吸い込み、時に道に迷いながら、探求の時間を過ごす。

立野が探求するのは、西欧文学の系譜と思索と人間であるが、そこにとどまらないのは言うまでもない。立野は歴史を探りつつ思想と論理を追い求める。偶然の中に必然の眼を探り当てる。個別事象を掘り抜いて普遍への道を辿る。試行錯誤の繰り返し、思い出の人々の言葉の反芻、そして遠野をはじめとする日本の歴史と伝承に息づく想像力、そこに生きてきた立野自身の現在を、幾度も幾度も遡行し、折り返し、畳重ねつつ、紀行の可能性に挑む。



立野の著作を初めて読んだのは『精神のたたかい』(スペース伽耶)であった。感銘力溢れるこの著書が立野の初めての著書だということに驚きながら、私は「平和力セミナー」という連続インタヴュー講座に立野をゲストとしてお招きした。面識のない私からの依頼に快く応じてくれた立野は、「インドへの道」を素材に文学と旅と人生と平和について語ってくれた。その記録は前田編『平和力養成講座――非国民が贈る希望のインタヴュー』(現代人文社)に収録した。

その後、立野は怒濤の勢いで著書を世に問い始めた。『黄金の枝を求めて』『世界文学の扉を開く』『日本文学の扉を開く』(スペース伽耶)にはじまり、やがて「紀行」シリーズに突入する。『紀行 失われたものの伝説』『根源への旅』『スクリーン横断の旅』『スクリーンのなかへの旅』『紀行 星の時間を探して』『百年の旅』と続く。毎年1冊のペースで続々と送り出される紀行は、失われたものへの旅であり、根源への旅であり、人間の絶望と希望への旅であり、立野自身への旅である。その持続力には圧倒されるしかない。

何が立野をして旅に誘うのか。「人はなぜ旅をするのか」。長きにわたって繰り返し問われてきたこの問いに、誰もが普遍的な答えを与えつつ、極めて私的で個別的で、またとない答えを与えてきた。その両者が合一するとき、著者と読者に訪れるであろう至福――立野の旅は遙か西欧の彼方に、景勝地に、文学記念の地に、忘れられかけた地に向いながら、思索は螺旋状に立野の周りを回り続ける。立野が立野の周りを回る。終わりなき旅の一つひとつのシーンに旅の終わりと始まりを見続ける。



『軍隊のない国家』(日本評論社)で世界27カ国を回り、続く『旅する平和学』(彩流社)で、文字通り「旅する平和学」を組み立てた私としては、果てしなき旅の果てに、いかなる出会いに出会えるか、いかなる夢を夢見ることができるか。立野の「紀行」には遠く及ばないが、私なりの旅を続ける理由が数多くある。

Wednesday, January 08, 2020

ヘイト・スピーチ研究文献(143)世界人権都市フォーラムでの報告


金朋央「日本のヘイト関連条例の制定過程から見える地方自治体の役割」『Sai』82号(2019年)

19年9月30日~10月3日、韓国・光州市で「世界人権都市フォーラム」が開催された。2011年の「光州人権都市宣言」に基づいて毎年開かれているもので、韓国内外の人権都市関係者、人権機関、運動家、行政関係者らが参加している。

19年のテーマは「地方政府と人権――人権都市を再び想像する」で多くの分野、プログラムであった。著者はそのうちの「持続可能な人権都市実現のための嫌悪・差別対応戦略」という分科会に参加して、日本の状況を報告した。その報告が本稿になった。分科会では韓国におけるヘイト・スピーチについても重要な報告がなされたという。