Tuesday, January 14, 2020

考えることの大切さと愉しみ、そして脱原発


國分功一郎『原子力時代における哲学』(晶文社、2019年)



脱原発のために、客観的理由や客観的基準を出すことはとても重要だ。原発推進派を論破することも必要だ。しかし、と國分は語る。市民運動にもかかわる國分にとって脱原発は必要であり、そのための政治の営みも重要だ。ただ、哲学者としての國分にとって、「原子力時代を乗り越える」ためには、「原子力を使いたくなってしまう人間の心性」を問う必要がある。

「原子力への欲望には、何にも頼らない絶対的に独立した生、『贈与を受けない生』へのあこがれが見いだされる。これは失われた神のごとき全能感を取り戻そうとするナルシシズムと同型である」(283284頁)から、このナルシシズムを乗り越えることが必要だ、というのが國分の結論である。

考えることの大切さと愉しみを随所で読者に感じさせる本である。國分節とでも言おうか。

本書は國分が2013年に行った4回の連続講義の記録に加筆して2019年に出版したものである。

1講~3講の基本的テーマは、ハイデッガー哲学に学ぶことである。というのも、1950年代にいち早くハイデッガーは原子力時代について語っていた。誰もが核兵器に反対していたその時代に、核兵器よりも、原発に、「原子力の平和利用」に批判のまなざしを向けていた数少ない著者がハイデッガーだ。

それゆえ、國分はハイデッガーの著述に内在して、ハイデッガーがなぜ、どのように考えたのかを追跡する。そのため、議論の多くがギリシア哲学の思考を追体験することに費やされる。300ページほどの著書だが、1~3講が大半を占める。4講は250頁以下の50ページに満たない記述である。

途中を飛ばして、ギリシア哲学とハイデッガー哲学だけを論じて脱原発の課題に迫ろうという、かなり強引な組み立てだが、その叙述は面白く読めるので、読者は飽きずに國分の主張に付き合うことができる。



ただ、疑問がないわけではない。とりあえず次の2点だけ書き留めておこう。

1に、1~3講ではギリシア哲学とハイデッガー哲学を250頁もかけて紹介しているが、本書における議論の真の主題は、なんと268頁目に「ならば何を考えなければいけないか。既に問題は見えています。それは、なぜ我々は原子力をこれほどまでに使いたいと願ってきたのかという問題です」という形で提示される。270頁以下で同じことがさらに補足される。

そして、國分はそれを「原子力信仰」という表現にまとめ、これを乗り越えるためには「精神分析が有効だ」と述べ(274頁)、ここからフロイトの精神分析の解説と応用に入る(274278頁)。つまり、本題本筋からすると、1~3講はフェイクにすぎず、268286頁の僅か18頁に本書の主題をめぐる考察は限定されている。形ばかりハイデッガーも精神分析と同型の議論をしていたと言い訳がなされるが、いずれにしろ、1~3講と4講とは論理的連関の不明な議論というしかないだろう。

2に、真の課題に向き合った時に國分がまず引証するのは、中沢新一『日本の大転換』である。そこで中沢は、「原子力とは何なのかという問題を存在論的に突き詰めた」という。「生態圏の外部にあるものを内部に持ち込もうとしている」という存在論的な定義だという。これはこれで理解できる。

ところが、國分によると、中沢はこうして定義した原子力技術を「一神教や資本主義と同型であると述べたので、いかがわしい議論ではないかと批判されました。一神教の方は僕はよく分からないんですが、資本主義と同型であるという主張は妥当だろうと思います」(265頁)という。

「一神教の方は僕はよく分からない」の一言ですまし、この後にこれに関する記述が一つもないのはなぜだろう。肝心な部分で「分からない」では困るだろう。

しかも、國分自身の結論において「原子力への欲望には、何にも頼らない絶対的に独立した生、『贈与を受けない生』へのあこがれが見いだされる。これは失われた神のごとき全能感を取り戻そうとするナルシシズムと同型である」と、突如として「失われた神のごとき全能感」を持ち出している。その根拠は示されていない。

脱原発のためには客観的基準だけでは不十分だ。政治的議論だけでは不十分だ。哲学からの根源的な議論が不可欠だ――こう主張するのであれば、「一神教の方は僕はよく分からない」と済ましているのは「よく分からない」。



國分の主著を読んだことがない。新書本は読んだが、『暇と退屈の倫理学』『ドゥルーズの哲学原理』『中動態の世界』は読んでいないので、國分哲学については特にコメントできない。