星野智幸『未来の記憶は蘭のなかで作られる』(岩波書店、2014年)
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星野の最初のエッセイ集だ。1998年から2014年にかけての、小説作品以外の文章から選んだ44本を集め、年代とは逆の順、つまり最初に2014年、最後に1998年のものが収められている。
2001年の「自分を解体する旅」は、「どこででも生きられる人間でありたかった。日本でしか生きられない自分、日本に守られ、しかも守られていることに気づかずに生きている自分が、耐えがたかった。一度、徹底的に自分を解体し、無意識を底の底まで見尽くしてみたかった。だから、会社を辞めてメキシコに住み、中南米を旅して回っていたのだ」と始まり、エルサルバドルの旅に出かけるが、「自分がどこにでも住もうと思えば住めるのは、日本国籍を持ち、日本経済の恩恵を受けているからだと思い、悲しくなった。どこででも生きられる人間になりたいという願望自体が、私を架空にする」と気づく。
星野は自分の勘違いに気づき、対象化して文章を書いている。この種の勘違いをしながら、勘違いに気づこうとしない人間のほうが多いのではないか。人種・民族や、階級階層や、性別といった差別が問われる局面で、「差別を超えている」つもりになっている知識人は珍しくない。国籍を超えたつもりで無責任な発言をする知識人はもっと多い。
「日本政府発行のパスポートを破り捨てて世界を旅してから、そう言ってください」と言っても、その意味を理解しようとしない。
同様に、デラシネだの、遊牧民だのと気取る知識人も多い。本当のデラシネを知らず、遊牧民の生活を知らないから、お気楽に言えるのだが。自分の基準でものを考えることしかできず、その「自分の基準」が日本の基準に過ぎないことに気づこうとしない。
星野はその殻を破り、自分を問い詰める作業を続けている。
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2002年の「『私』と政治」では、日本文学の伝統である「私小説」を厳しく批判し、「日本社会に見えない形で浸透しつつある排他的な力を、小説の言葉によって無化する」課題を掲げる。
同年の「戦争を必要とする私たち」では、9.11以後の窒息しそうな国際的国内的状況を前に、「言葉の危機」、「言葉が通じなくなりつつある現在の環境」のなかで文学の責任を問い続ける。「私は自分のいる場所に責任を負っており、世界中でそれぞれが自分の暮らす場所の事情に応じて態度表明を行わなければ、いまある自分を消して戦争という大きな文脈に興奮し、ニヒリスティックに現状を肯定するだけになるからだ」と言う。
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2006年の「『リベラル』であることの欺瞞」では、「私は、日本国籍を持っていることと男であることに、罪悪感と責任を感じるからだ。それは日本人としての責任を果たすとか、男として責任を取る、ということとはまったく違う。男であり日本国籍を持つことによって、自分は最初から権力を与えられており、そのことが何かの抑圧になっているということを、よく自覚する、という意味である」と言う。こうした自覚を持っている者はどれだけいるだろうか。
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2011年の3.11の後の文章もいくつか収められているが、「震災を語る言葉を待つ」では、現実に向き合って、正面から語る言葉をまだ持ち得ていないことを自ら認め、「今は沈黙のときだと思っています」としながら、紡ぐべき言葉を模索していることを吐露する。
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2013年の「黙って座ったまま」では、「この社会は、自分たちが自分たちの意思で生きることを、諦めてしまったのだろうか。私にはそのように見えてしまう。雇用環境の激しい悪化や、震災、原発事故によるダメージを前に、その苦境を乗り越えよう闘おうという意思を放棄してしまったかのように映る。来ないバスを待って、ただ座っているかのように。まわりが座っているから自分もただ何となく座っているかのように。でもバスは来ないのだ」と言う。
9条改憲にしても、自由な言論、基本的人権、自己決定権などの問題においても、「黙ったままの人たちがマジョリティを占めている」ことに注意を喚起し、「私たちは今、黙って座ったまま、主権という強大な権力を放棄しつつある。本当にそれでよいのだろうか」と問う。
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小説とは違って、ストレートな文体での時評や日記風の文章において、自分について、文学について、世界について語っているので、星野の思考が良く理解できる本である。作家デヴューから2014年までの星野作品と並行して書かれた文章であるし、「私は過去を、未来の中に埋め込んでおきたい。この本は、未来に対する仕込みとしての過去なのだ」と述べているように、本書以後の星野作品を読む際の導火線としても意味を有する。