Friday, April 30, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(175)ジェノサイド条約起草過程

八嶋貞和「ジェノサイド条約の起草過程――国連総会決議96(Ⅰ)に関する議論を中心として」『青山社会科学紀要』第49巻2号(2021年)

はじめに

第1章         国連総会第六委員会付託に至るまでの議論

第1節        ラファエル・レムキンのロビー活動

第2節        国連総会一般委員会第24回会合

第2章         国連総会第六委員会における議論

第1節        22回会合

第2節        サウジアラビア条約草案と第23回会合

第3節        24回会合

第1項        チリ修正案

第2項        フランス第2次修正案

第3項        ポーランド提案とその他の議論

第4節        特別小委員会と国連総会決議96

おわりに

八嶋は1949年ジェノサイド条約の歴史的展開を研究するために、本稿ではその最初期の成果文書である194612月の国連総会決議96)の形成過程を明らかにする。

ジェノサイド条約の形成過程については、ジェノサイド概念を提案し条約作りに活躍したラファエル・レムキン自身の論考を始め、古くから多くの研究がある。特に1998年の国際刑事裁判所規程が1949年ジェノサイド条約と同じ定義を採用し、1998年のルワンダ国際刑事法廷をはじめとしてジェノサイドの罪の適用事例が相次いだため、21世紀になって裁判においても理論研究においてもジェノサイド研究は飛躍的に進展した。

八嶋はそうした発展を見据えつつ、ジェノサイド条約の現在を把握するために、最初期の194612月の国連総会決議96)に着目し、そこから重要論点を発掘しようとする。

例えば、レムキンはパナマ、キューバ、インドの3国に交渉して決議案を提出してもらったが、なぜこの3カ国だったのか。八嶋によると、ラテンアメリカとアジアの3カ国が決議案を提出することで、欧州諸国はホロコーストを想起し、決議案に賛成せざるを得ないと踏んだことによるという。欧州諸国に心理的圧力をかける作戦だ。

また、八嶋によると、ソ連は最初、決議案に反対だったのに、後に積極的に賛成する側についた。これは、ソ連が最初は自国のジェノサイドの責任を追及されることを嫌ったためであり、カチンの森事件等を想起していたが、レムキンの説得が功を奏し、国家責任ではなく個人の刑事責任に限定されたことから、ソ連が賛成に回ったという。

チリの修正案では、ジェノサイドを「国際犯罪」ではなく「国際法上の犯罪」としたが、これによりジェノサイドの処罰に普遍主義を適用するのか否か、その後の管轄権の理解をめぐる議論が生じた。

これらの論点も興味深いが、もっとも興味深いのは、八嶋が「ポーランド代表により提案された『ヘイトプロパガンダ』の性格は、ジェノサイドの遂行における『予備的段階』であり、これを処罰する趣旨は、ジェノサイドの発生を予防するためであった点」とまとめている論点である。

 ポーランドは「それらは、ヘイトプロパガンダという手段を用いて、犯罪への道筋を準備した者の責任に対して向けられるべきである」と主張した。ポーランドは、防止の観点から「ヘイトプロパガンダ」の犯罪化を唱えた。後にヘイトプロパガンダは予備的段階に位置づけられる。

 さらに後に国連事務総長条約草案では「公然たるプロパガンダ」となる。しかし、ジェノサイド条約にはこの規定は存在しない。現在の規定はジェノサイドの「直接かつ公然たる扇動」である。八嶋はこれらの関係に注目しており、「次稿では、『公然たるプロパガンダ』規定および扇動既定の起草過程について検討を加える」という。

私はかつて『戦争犯罪論』(青木書店、2000年)及び『ジェノサイド論』(青木書店、2002年)でジェノサイド研究に手を付けた。その後、何度かジェノサイドに言及してきたが、最近では、次の2点を公表した。

前田朗「コリアン・ジェノサイド論素描――関東大震災朝鮮人虐殺を世界史に位置づけるために」『東アジア共同体・沖縄(琉球)研究』第4号(2021年)

前田朗「日本植民地主義をいかに把握するか(六)――文化ジェノサイドを考える」『さようなら!福沢諭吉』第10号(2020年)

私の関心はコリアン・ジェノサイドとコリアン文化ジェノサイドの概念を構築することにある。その限りで、レムキン以来のジェノサイド概念にもかなり言及した。

八嶋論文は、第1に、国連総会決議96)の形成過程を詳細に明らかにしている。私は決議以後の状況を取り上げたが、決議の形成過程を論じてこなかった。

2に、ヘイトプロパガンダに着目している。私は恥ずかしながら、ジェノサイド条約形成過程でヘイトプロパガンダ概念が登場したことを知らなかった。八嶋論文に学ぶことばかりである。次の論文が楽しみだ。

Thursday, April 29, 2021

スガ疫病神首相語録31 ヨセキの文化

4月27日の定例会見で、落語好きと自称する小泉進次郎環境相は、営業を続ける方針だった寄席側に休業を要求した。落語好きの閣僚と自称する加藤勝信官房長官は「ヨセキを含む劇場等に対し無観客開催を要請していると承知している」と述べた。

落語家の立川談四楼は「小泉進次郎氏は『要請には従って欲しい』とたちまち政治家に戻り、加藤官房長官は、寄席をヨセキと言った段階でメッキが剥げた」とため息をついた。 

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なんでオレんとこに取材に来た訳? 

漢字が読めない大臣だあ? 

誰のことだ。あんた、言ってみろ。言ってみろよ!

たまたま間違えることは誰にだってあんだろ。80年も生きてりゃ、2回や3回、言い間違えることはある。あんた、絶対間違えないのか。本当か?

オレはイタチ(伊達)に13期衆議院議員をやってるわけじゃないぞ。総理、副総理、総務大臣、外務大臣、財務大臣、金融担当大臣、経済企画庁長官、IT担当大臣とフルコースでアメシタ(天下)国家のために働いてきた訳だ。

「アメシタとはアメリカの家来」? 

あんた、うまいダジャレ飛ばすね(苦笑)。どこの社だ。社名を名乗れ! 記者会見の質問で喧嘩売ってんじゃねえよ。

だいたいだな、新型コロナのヴァイルスで国家的危機なんだ。あんた、わかってんのか、ウイルスじゃねえぞ。英語ではヴァイルスってんだ。いいか、日本人はVRの発音が苦手だからな、あんたも、いい加減な記事書くんじゃねえぞ。

コイズミのジュンちゃんはLoveRubの区別がつかなくてアメリカで笑いものにされたっけな。

最近は英語も読めない新聞記者が増えてきたな。漢字なんて読めなくてもいいが、英語くらい読めるように勉強しとけよ。

寄席をヨセキと言ったっていいじゃねえか。クールジャパンの戦略で外国人にも日本の魅力を知ってもらうために寄席と書いてヨセキと呼んだ方がわかりやすい。

日本文化を世界に広めるために、カトー長官も懸命に頑張ってるわけよ。

オレも文化については一家言あるんだ。手塚オサムシ(治虫)以来、漫画で人生を学んできたくらいだ。

政界のゴルゴ13と呼ばれたオレには『オニゲンのハ(鬼滅の刃)』はいささか物足りないが、新型コロナのミゾウユウ(未曽有)の危機に際して、官房長官の言葉尻をとらえて騒ぎ立てる暇があったら……

「アザブ大臣に質問」?

なんだ、お前、人をおちょくってるつもりか?

心優しいオレだが、そこまで言われちゃ、スミジロウ(炭治郎)同様、心を鬼にして鬼狩りに出撃せざるをえんな。叩き切ってやる。そこに開き直れ!

ん、開き直られちゃ困っちまうな。

ヘイト・スピーチ研究文献(174)ドイツのSNS法

實原隆志「ドイツのSNS法――オーバーブロッキングの危険性について」『情報法制研究』第4号(2018年)

はじめに

 法律の主な内容

 ドイツ国内の反応

 過料基準

 検討

おわりに

ドイツは2017年にSNS事業者に行政責任を課すSNS法を制定した。實原はSNS法を紹介した上で、特に表現の自由に対する萎縮効果に関連してオーバーブロッキングの問題を検討する。

インターネット上で営利目的で運営されているプラットフォームの一部について規制が及ぶ。ただ専門ポータル、オンライン・ゲーム、売買マーケットサイトが除外され、ジャーナリスト的なものも適用除外とされる。個人的なものも除外である。国内において200万人未満の利用登録しかない事業者は法2条による公表義務などを免除される。

事業者の義務としては、違法な内容についての苦情を処理する手続きを設けなければならない。「違法な内容」とは「国民の煽動や宗教団体等の侮辱など」であり、ヘイト・スピーチ規制と関連する。明らかに違法な場合は24時間以内に、違法な内容については原則として7日以内に隔離・遮断しなければならない。つまり削除義務である。

また「規制付き自主規制」の機関に判断を委託することができる。事業者は自主規制機関に依頼して判断してもらい、自主規制機関が違法と判断した場合に隔離・遮断すればよい。自主規制機関が違法と判断しなければ隔離・遮断してはならない、という。

事業者が義務に違反すると、故意又は過失があれば過料の対象となる。最大で500万ユーロだが、法人の場合には最大5000万ユーロとなる。

「以上のように、SNS法は一定規模以上の事業者に対して、利用者からの苦情を受け付けたうえでその妥当性を審査し、法律で列挙されている刑法の規定に反する内容を含む投稿を削除するよう求める。そしてそれらの状況を定期的に公表しなければならない。苦情申立制度を設けていない場合や、削除を検討するための仕組みを設けていない場合、また苦情の処理状況の公表を怠っている場合には罰則が科せられ、法人には最大で5000万ユーロの過料が課される可能性がある。」

實原はドイツ国内での法に対する批判を紹介し、次いで反論を紹介することで、法律の特徴を浮き彫りにする。さらに、20183月に連邦消費者保護省が過料を確定させるための基準(過料基準)を公表したので、その内容を紹介して、過料基準に対する批判も紹介する。

それらを踏まえて、實原はSNS法について検討する。實原は「SNS法の規定では不明確だった部分が過料基準という行政規制を通じて明確化されたとしても、議会が定めた法律の不明確性という問題がなくなるわけではない」という。

 實原は「20183月に過料基準が示され、それには様々な意義があるといえる一方で、SNS法に対する批判の中で示されていた懸念、特にオーバーブロッキングの危険性は依然として残されていると言わざるを得ない」と結論付ける。

 以上が實原論文のごく簡潔な紹介である。インターネット上のヘイト・スピーチの法規制の一つのモデルを提供するドイツSNS法の内容がよくわかり、それに対する批判と反論も書かれているのでためになる論文である。

 ただ實原は「日本において得られる示唆については検討できなかった」という。日本のプロバイダ責任制限法といきなり対比することができないからだ。というのもドイツではヘイト・スピーチは刑法違反の犯罪とされている。それが前提となっている。議論の前提が異なるため、いきなり比較しても結論が得られるわけではない。とはいえ實原は「今後の課題としたい」と述べている。

ここが一番知りたい部分であるので、続稿を期待したい。

Wednesday, April 28, 2021

スガ疫病神首相語録30 東京COVI-19音頭

428日、3回目の非常事態宣言の中、タマヨ五輪相が「東京都はどのように責任を果たすのか」などとユリコ都知事に苦言を呈したため、非難の応酬となった。ワンチームならぬ同床異夢、楽屋の喧嘩を世間に晒す2人。

一方、セイコ会長は無観客でも五輪強行の姿勢を再確認。「緊急事態宣言でも関係ない」と五輪実施を豪語するバッハ会長とともに、感染者や屍を乗り超えて邁進する覚悟を示した。

 

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東京COVID-19音頭

 

ハアー

あの日 武漢で ながめた月が (ソレ トトントネ)

今日は 都の空 照らす (ア チョイトネ)

四年と言わず 毎年会いましょ かたい約束 夢じゃない

ヨイショコーリャ 夢じゃない

COVID-19 の 顔と顔

ソレトトントトトント 顔と顔

 

ハアー

待ちに待ってた 世界の病 (ソレ トトントネ)

イギリス型から インド型 (ア チョイトネ)

南アフリカ ブラジルも こえて日本へ どんときた

ヨイショコーリャ どんときた

COVID-19 の 晴れ姿

ソレトトントトトント 晴れ姿

 

ハアー

色もうれしや かぞえりゃ 五つ (ソレ トトントネ)

並ぶ型みりゃ はずむ胸 (ア チョイトネ)

すがた形は ちがっていても いずれおとらぬ 感染率

ヨイショコーリャ 感染率

COVID-19 の 庭に咲く

ソレトトントトトント 庭に咲く

 

ハアー

スガがはやせば ユリコはおどる (ソレ トトントネ)

五輪予算の 夏の空 (ア チョイトネ)

金をそろえて 拍手の音に とんでくるくる IOC

ヨイショコーリャ IOC

利権ピックの きょうのうた

ソレトトントトトント きょうのうた

 

 

東京五輪音頭

https://www.youtube.com/watch?v=3_3pQf4Gewo

Saturday, April 24, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(173)ネット上のヘイト

曽我部真裕「ネット上のヘイトスピーチは規制できるか」『都市問題』111号(2020年)

ドイツやフランスにおける規制法やアメリカにおける規制論議を見つつ、日本ではどうするべきかと問う。特定個人・集団の権利利益を侵害するヘイト・スピーチについてはすでに規制が可能であるので、主に、集団的ヘイト・スピーチそのものに向けた対応として、解消法や各地の条例があるが、他方でネット事業者の取り組みがあるという。「違法・有害情報への対応等に関する契約約款モデル条項」があり、海外事業者には独自の方針がある。

202061日、ネットと人権研究会が「インターネット上の人権侵害情報対策法モデル案」を公表した。曽我部はモデル案を評価しつつ、具体的な内容についてはなお議論すべき点が多々あるとして、ヘイト・スピーチの定義の明確性や、ログの保存義務に課する負担の適正性を指摘する。さらに、「委員会が人権侵害が『あると信じるにつき相当な理由がある』にとどまる段階で削除要請が可能で、プロバイダがそれに事実上拘束されるという枠組みの是非」を指摘する。

「ドイツのSNS法のように、自主的な第三者機関を設けるように誘導する仕組みも考慮に値するのではないだろうか」として、「保守速報」への広告出稿の減少や、アメリカでのフェイスブックへの広告ボイコットの例を挙げる。

ネットと人権研究会については

https://cyberhumanrightslaw.blogspot.com/

プロバイダー責任制限法改正

https://www.asahi.com/articles/ASP4P4WQHP4NULFA02N.html

Thursday, April 22, 2021

スガ疫病神首相語録29 東京に来ないで

4月22日、澤章(東京都環境公社前理事長)が「「バッハさん東京に来ないで!」小池知事が白旗を上げる日」というコラムを発表した。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/288265

「3度目の緊急事態直前の東京で、言葉の魔術師・小池知事が完全にコケている。」

「所詮、小池知事には、矢面に立って責任を一身に受け止める勇気や気構えなど、これっぽっちもない。やっていることといえば、聞こえのいい言葉で取り繕って「やってる感」を醸し出すことだけなのである。」

と、辛辣かつ的確なコラムだ。

 

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何よ、これ。

ひょっとして、私を虚仮にして、目立ちたいってこと? 

「コロナ対策ではなく、東京五輪対策だ」なんて頓珍漢な批判をしてくる輩もいるし、とにかくうるさいのよね。

だからって、「うっせえ、うっせえ、うっせえわ」なんて言わないけど、「私が俗に言う天才です」って、言ってみたかったのよね。

四方八方から私を責めて、何か言ったつもりになってるけど、どうせ幼稚な批判ばかり。建設的な批判なんて皆無なんだから、政治家も評論家もレベルが落ちたものね。

あっ、いけない。こんなこと言ったら昔は良かったみたい。昔からダメな奴はダメなのよ。

「言葉の魔術師」ってところだけは当たっているわね。キャッチフレーズづくりは私の得意技だから。

そりゃあ、言葉にはこだわってきたのよ。卒業できなくてもカイロ大学卒業の私の実力を見せてやるわ。あいさつしかできなくてもアラビア語通訳をしていたのは何のため。頑張るのよ、ユリコ。

日本新党に頭を下げたと思ったら自由党に移り、自由民主党に土下座して大臣にしてもらったと思ったら後足で砂山丸ごとかけて飛び出した上、絶望の党で全国に失望を大盤振る舞いしたユリコ・ファーストの怖さを思い知らせてやるわ。どこだっていいのよ。政党なんてどうでもいいの。

ノー天気なモリヒロにも頭を下げたわ。「ハイヒールとミニスカート」は話題になったのよ。終わってるイチローにも無能なブッチーにも頭を下げたくらい。クールビズのジュンちゃんに刺客にしてもらって、嘘つきシンゾーには防衛大臣にしてもらった。上手な嘘のつき方も学ばせてもらった。漢字の読めないタローに総裁選で負けた時は行き場がなかったけど、おかげでいまや都知事なの。よく頑張ったものよ、自分を褒めてあげたい。あと一歩よ、やってやるわよ、徹底的に。「やってる感」なら誰にも負けない。頑張るのよ、ユリコ。

ヘイト団体と付き合ってるって? 政治家はいろんな人と会わなくちゃいけないのよ。ヘイトだろうが反社だろうが、えり好みしていられないわ。騒ぐ方がどうかしてるのよ。歴史認識だって、何の歴史認識もないから、どこから責められても負けはしないわ。右でも左でも、どこからでもかかってきなさい。まったく中身のない私が負けるはずないでしょ。関東大震災朝鮮人虐殺って、いつのこと? それすら知らなかった私に歴史隠蔽の意図なんてあるわけないじゃない。揚げ足取りで難癖付けてくる連中に負けるもんですか。

それにしても新型コロナと東京五輪は難関ね。さすがの私でも迷いそうになるけど、ゴーインマイウイェイ、ユリコ・ファースト、あなたのものは私のもの、私の間違いはあなたのもの、で突っ走るのよ。PCR検査とか感染率とか、うだうだ言ってないで、TOKYO2020-2021を成功させるためなら、子泣き爺のニカイにだって頭を下げるのよ。そして最後はガースーに土下座させてやるわ。首根っこ洗って待ってなさい。

ヘイト・スピーチ研究文献(172)川崎市条例

石橋学「全国初、罰則付きルールによって、ようやく差別と向き合い始めた行政」『住民と自治』第690号(2020年)

神原元「『川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例』の意義と課題」『住民と自治』第690号(2020年)

「桜本の在日コリアンは、娯楽のように差別を楽しむレイシストと、ヘイトデモの舞台を整えることで差別に加担する行政によって二重三重に絶望を刻み付けられてきたのでした」というジャーナリスト石橋は、川崎市条例にたどりつくまでの被害者と市民の歩みを振り返る。

弁護士の神原は、川崎市条例が3段階の手順で処罰を定めたことについて「表現の自由とのバランスをとったといえます」とし、煽動の処罰については「本条例はヘイトスピーチ全てを規制しようというのではなく、拡声器や看板、ビラの配布等、特に悪質なものをくくりだして規制するものですから、明確性の原則に照らしても、批判に耐えうる内容になっていると考えます」と結論付ける。

神原の認識を図式的に示すと次のようになるだろうか。

1)刑法の教唆=A(教唆者の教唆)+B(実行者の犯罪による被害)=処罰

2)破壊活動防止法の煽動=A(煽動者の煽動)+B(ここに該当するものがない)=処罰

3)ヘイト・スピーチ=A(差別の煽動)+B(差別煽動による被害)=被害

従来、破壊活動防止法の煽動の処罰については、Bの被害(具体的法益侵害やその危険性)が存在しないのに、煽動行為だけで処罰されるため、違憲ではないかとする学説が多かった。ヘイト・スピーチも同じだという批判があるが、神原によれば両者は異なる。ヘイト・スピーチの本質は差別煽動であり、被差別者の被害は「世間一般に対する差別煽動が行われた時点で発生する」ため、決定的に違う。それゆえ神原によればヘイト・スピーチの処罰は表現の自由に照らしても明確性の原則に照らしても十分合理的であるということになる。

石橋と神原の見解は私と同じである。国際人権法に照らして正当である。

Tuesday, April 20, 2021

スガ疫病神首相語録28 長恨歌より

4月20日、不要不急の漫遊から帰国したスガが衆議院で報告した。居眠りジョーと友好的にお話ができた上、ファイザー社のCEOと電話で話して、ワクチン供給の口約束ができたという。東京からではなくワシントンから電話したおかげで「大成果」となったと主張した。契約できたわけではないのだが。漫遊中に新型コロナ禍は悪化の一途をたどった。

 

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白楽天『長恨歌』より

 

九重城闕病毒生

病毒万騎首都行

尾身揺揺行復止

西出都門百余州

医師不発無奈何

宛転群衆馬前死

花鈿委地無人収

医師金雀玉搔頭

愚相掩面救不得

迴看血涙相和流

 

九重城闕、病毒生じ

膨大な病毒、首都に行く

尾身揺揺として行きてまた止どまり

西のかた都門出づること百余州

医師発せずいかんともする無く

宛転たる群衆馬前に死す

花鈿は地にすてられて人の収むる無し

医師金雀無く、頭をかき

愚かな首相おもてを掩うて救ひ得ず

迴り看れば血涙相和して流る

 

 

高校時代、現代国語と古文は得意だったが、漢文は苦手だったのを思い出した。漢文のパロディをつくろうと思ったが、四苦八苦した挙句、できたのはこの程度だ。白楽天に申し訳ない。

Monday, April 19, 2021

憲法審査会に関する法律家6団体声明

「日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案」の採決に反対し、改憲手続法抜本改正の慎重審議を求める声明

 

2021年4月20日

改憲問題対策法律家6団体連絡会

社会文化法律センター 共同代表理事 宮里 邦雄

自由法曹団 団長 吉田 健一

青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 上野 格

日本国際法律家協会 会長 大熊 政一

日本反核法律家協会 会長 大久保賢一

日本民主法律家協会 理事長 新倉 修

 

はじめに

4月15日、衆議院憲法審査会において、「日本国憲法の改正手続きに関する法律の一部を改正する法律案」(いわゆる公選法並びの7項目改正案)(以下「7項目改正案」という。)の審議が行われた。7項目改正案は、2016年に累次にわたり改正された公職選挙法(名簿の閲覧、在外名簿の登録、共通投票所、期日前投票、洋上投票、繰延投票、投票所への同伴)の7項目にそろえて改憲手続法を改正するという法案である。

与党議員らは、審議は尽くされたなどとして、速やかな採決を求めている。これに対し、立憲民主党、共産党の委員からは、7 項目改正案は、期日前投票時間の短縮や、繰延投票期日の告示期限が 5 日前から 2 日前までに短縮されているなど投票環境を後退させるものが含まれていること、憲法改正国民投票は、国民が国の根本規範を決める憲法制定権力の行使であり、本当に公選法並びでいいのかという基本的な問題があること、7 項目改正案は、たとえば、洋上投票、在外投票、共通投票所、郵便投票の問題など、国民に投票の機会を十分に保障するという点で問題があり、また、CM 規制、資金の上限規制、最低投票率の問題など、憲法改正国民投票の公正を保障する議論がなされていないのであるから、審議は不十分であり、採決には程遠いという意見が相次いだ。

改憲問題対策法律家 6 団体連絡会は、以下の理由により、7 項目改正案の採決には強く反対する。

 

1 憲法改正国民投票(憲法96条)は、国民の憲法改正権の具体的行使であり、最高法  規としての憲法の正当性を確保する重要な手段である。参政権(憲法15条 1 項)の行使  である選挙の投票と同列に扱えば済む、公選法「並び」でよいとするような乱暴な議論は  憲法上許されない。

 2016年の公職選挙法の改正は、選挙を専門とする委員会で審議され、「憲法改正国民投票の投票環境はどうあるべきか」との観点での議論は全くなされていない。

 そもそも、憲法96条の憲法改正国民投票は、国民の憲法改正権の具体的行使であり、最高法規としての憲法の正当性を確保する重要な手段である。狭義の参政権である選挙の投票(憲法15条 1 項)とすべて同列に扱えば足りるとする議論は性質上許されない。ことは国の根本規範である憲法改正にかかわる問題であり、「公選法並び」などという本質2を見誤った議論で法案採決を急ぐことは、国民から付託された憲法審査会の任務を懈怠し、その権威を自ら汚すものというべきである。

 

7 項目改正案は、国民投票環境の後退を招き、また、そのままでは国民投票ができな  い国民が出るなどの欠陥があること

 法案提出者によれば、7 項目改正案の目的は、2016年の公選法の改正法と並べることで「投票環境向上のための法整備」を行うこととされる。しかし、7 項目改正案の審議は、始まったばかりであり、7 項目の内容には以下に例をあげるとおり、投票環境の後退を招き、あるいは国民投票の機会が保障されない国民がでてくるなどの重大な問題がある。

憲法改正国民投票は、上記の性質上、できる限り多くの国民に投票の機会が保障されなければならないし、投票環境の後退を招くことは許されない。

() 法案自体が、投票環境を後退させるもの

繰延投票の告示期日の短縮や、期日前投票の弾力的運用は、それ自体、投票環境を後 退させるものである。「投票環境向上のための法整備」という立法目的にも明確に違反 する。

() 投票できない国民が出てくるもの

洋上投票制度や在外投票制度は、並びの改正によって投票機会の一部については向上 が図られるものの、結局、このままでは国民投票ができない国民が出てくるため、国民 投票は実施できない。一定の国民について国民投票の機会を保障しないままの法案は、 憲法違反の疑いすらある。この不備を修正しないままで 7 項目改正案を急ぎ成立させる 必要性も合理性もないことは明らかである。

() 公選法の改正時には、予期できなかった事情や、公選法改選時の附則や附帯決議で必要な措置の検討などが課されている事項で投票環境の後退のおそれがあるもの

例えば「共通投票所」の設置は、「投票所の集約合理化」=削減をもたらしていると いう実体がある。「共通投票所」を設けたことによって本当に「投票環境が向上」した のか、「利便性が向上」したのか、総括が必要である。また、在外投票についても、在 外投票人名簿の登録率は減少している(2009 年は 9.54%に対して 2019 年は 7.14%)こ とを踏まえれば、その原因を解明した上で、その対策を施した改正が必要である。

 また、2016年改正後、「投票環境研究会」は郵便投票の対象者を現行の要介護5 から要介護3の者に拡大することを提起している。「利便性の向上」というのであれば、 主権者である国民の意思が広く適切に国民投票に反映されることが必要であり、とりわ け新型コロナの感染が拡大する中「郵便投票制度」の拡充は投票機会を保障するうえで 喫緊の課題の一つである。

以上の事項については、事情変更により新たな改正や見直しの検討が必要であり、2 016年の公選法改正並びの改正を行うだけでは、「投票環境の向上」にはならないか、 むしろ後退させる危険性がある。これらの問題を無視して7項目改正案を成立させるこ とは、国会議員としての怠慢以外の何ものでもない。

 

3 憲法改正国民投票の結果の公正を担保する議論がなされていないこと

 日本弁護士連合会は、2009年11月18日付け「憲法改正手続法の見直しを求める意見書」において、①投票方式及び発議方式、②公務員・教育者に対する運動規制、③組織的多数人買収・利害誘導罪の設置、④国民に対する情報提供(広報協議会・公費によるテレビ、ラジオ、新聞の利用・有料意見広告放送のあり方)、⑤発議後国民投票までの期間、3⑥最低投票率と「過半数」、⑦国民投票無効訴訟、⑧国会法の改正部分という8項目の見直しを求めている。とりわけ、(ⅰ)ラジオ・テレビと並びインターネットの有料広告の問題は、国民投票の公正を担保するうえで議論を避けては通れない本質的な問題である。また、(ⅱ)運動の主体についても、企業(外国企業を含む)や外国政府などが、費用の規制もなく完全に自由に国民投票運動ができるとする法制に問題がないか、金で改憲を買う問題がないかについての議論が必須である。

 7項目改正案は、以上のような国民投票の公正を担保し、投票結果に正しく国民の意思が反映されるための措置については全く考慮されていない欠陥改正法案である。結果の公正が保障されない国民投票法のもとで、国民投票は実施できない以上、7 項目改正案を急いで成立させる必要性も合理性も全くないことは明らかである。

 

4 憲法審査会における審査の在り方

 憲法審査会(前身の調査会も含めて)の審議は、政局を離れ、与野党の立場を越えて合意(コンセンサス)に基づき進めるというのがこれまでの慣例である。憲法審査会では、多数派による強行採決は許されない。また、国民の意思とかけ離れて議論することも、もとより許されないはずである。

 2017年5月に、当時の安倍首相が2020年までに改憲を成し遂げると宣言し、2018年3月に、自民党4項目の改憲案(素案)を取りまとめ、その後2018年6月に、公選法並びの7項目改正案与党らが提出している。同法案が、安倍改憲のために急ぎ間に合わせで作られたものであることは、経過から明らかである。7項目改正案を成立させることは、自民党改憲案が憲法審査会に提示される道を開く環境を整えるだけである。

 今、国民は憲法改正議論を必要と考えていない。7 項目改正案を急ぎ成立させることは、国民の意思ではない。

 以上

Friday, April 16, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(171d)憲法と憲法学との微妙な関係(4)

榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)

Ⅱ 日本におけるヘイト・スピーチ対策とその評価

 1 思想の自由市場・対抗言論

 2 教育・啓発

 3 相談体制

 4 禁止規定・罰則規定

 5 「公の施設」の利用制限

 6 拡散防止策

個々の論点について、榎の具体的な論述も見ておきたい。

1 思想の自由市場・対抗言論

(1)榎は、思想の自由市場論を採用する。ヘイト・スピーチでは当事者の対等性がないので思想の自由市場では解決しないという批判に対して、「思想の自由市場における参加資格者は当事者に限定されない」として、「マジョリティからの対抗言論も生じるはずである」「心ある者が(被害者とともに)反論すればよいのである」という(榎論文1112頁)。

(2) 当事者の対等性がないとの肝心かなめの指摘に、榎は答えていない。ヘイト・スピーチは特定の人々の排除と迫害の煽動である。当事者の対等性のない状態をつくり出そうとする行為であり、民主主義を著しく損なう。この点に答を出さずに、「思想の自由市場における参加資格者は当事者に限定されない」というのは答えになっていないのではないだろうか。榎の考える民主主義は特定の人々を排除して成り立っているのだろうか。

(3)「マジョリティからの対抗言論も生じる」のは、当たり前である。だから私たちは実際にこの10年間、対抗言論をさまざまに実践してきた。ヘイト・スピーチ規制積極論者の多くは、論壇で、オンラインで、そしてヘイトの現場で対抗言論に膨大なエネルギーを費やしてきた。現場で発言し、身体を張って行動し、TV、新聞、雑誌で発言し、論文を書いてきた。「殺せ」「死ね」という罵声を浴びせられながら、エネルギーを消耗してきた。「殺せ」と叫び、体当たりしてくる相手に、対抗言論など意味をなさないことは自明である。

差別とヘイトに反対して発言する者には攻撃が仕掛けられる。脅迫される。オンラインで誹謗中傷される。報道されている通りである。

対抗言論と縁のない論者が「対抗言論をすれば良い」と、どうして言えるのだろうか。「殺せ」と叫び、体当たりしてくる相手に、榎はどのように対抗言論をするのか、具体的実践例を示してもらいたい。これは最優先、最大の希望である。榎にはぜひとも実例を示してもらいたい。

対抗言論は多様な形が実践された。被害者が反論できる場合もあった。第三者が批判することもあった。現場でカウンター行動も組織された。しばき隊の発想と行動は見事であった。悪質な差別に反対して立ち上がったカウンターのメンバーが逮捕される異常な国で必死の行動であった。メディアは立ち遅れた。メディアがヘイト・スピーチを批判するようになるのに数年を要した。それでもメディアがヘイト批判をするようになって、情勢は大きく変わった。解消法や地方自治体条例を実現したのは、被害者が立ち上がり、カウンターが懸命の努力を続け、それにメディアが続き、ようやく議会が動いたからである。10年がかりで動いた話であり、その間にどれだけの被害があったのか、救済がなかったのかを知るべきだ。ヘイト・スピーチに反対行動する者が次々と逮捕された現実を知る者なら「心ある者が(被害者とともに)反論すればよいのである」などと言っていられない。

(4)もう一つ、事実を書いておこう。ヘイト・スピーカーたちは、「ヘイト・スピーチではありません。政治的表現です。われわれは表現の自由を行使しています。憲法学者も表現の自由だと言っています」と叫びながらヘイト・スピーチをまき散らした。ザイトクカイの行動様式は有名である。ヘイト・スピーチを行う彼らの背中を押しているのは一部の憲法学者である。

(5)思想の自由市場論への批判は、『原論』232235頁に書いておいた。その結論を引用しておく。

<結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、その内容は極めてあいまいであり、比喩的表現を超えるものではない。そもそも検証可能性のない理屈を仮説と称することは疑問である。②思想の自由市場論が仮に検証されても、それをヘイト・スピーチに適用することの相当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法がこの仮説を採用しているという論証がなされたことは一度もない。要するに、学問とは無縁の妄想に過ぎないのではないか。>(『原論』235頁)

榎が、私見に正面から反論してくれることを期待する。

2 教育・啓発

(1)榎は教育・啓発について「たしかに即効性がないという側面はあるかもしれない。しかし、それでも、ヘイト・スピーチは許されないという正確な知識と理解は、学校教育をはじめ大人にも適切に行き届くことが重要であろう。」という(榎論文14頁)

教育・啓発は長期的課題として重要であり、私たちは一貫して主張してきた。

(2)しかし、いま現に行われているヘイト・スピーチへの対策としては、教育は意味をなさない。短期的課題ではない。榎は「しかし、それでも」という。ならば、どのような教育を、どのように実践するのか、そのプログラムを提示するべきである。このことを私は他の論者に要請してきた。「刑罰ではなく、教育を」と唱える論者は多い。しかし、どのような教育をどのように実施して、いつまでにヘイトを減らすのか、具体的な提案をした憲法学者はいない。

(3) 比較法研究に関心のない私だが、前田朗『ヘイト・スピーチと地方自治体』第6章(三一書房、2019年)で、反差別教育について国際人権法の要請を確認し、国際人権法の実行例としてアイスランド、フィンランド、オーストリア、アイルランド、イタリア、ポルトガル、ポーランドの反差別教育の実例を紹介して、反差別教育のあり方を論じた。榎はアメリカにおける反差別教育について紹介しないのだろうか。

反差別教育については、部落差別に関連して同和教育等の名前で実施された教育実践がある。2016年には部落差別解消推進法が制定された。さまざまな差別について、それぞれの分野での反差別教育と、総合的な反差別教育を念頭に置いた研究が必要である。

3 相談体制

(1)地方自治体における人権相談やヘイト・スピーチ相談につき、榎は、神奈川県のヘイト被害相談の専門窓口新設に言及し、「今後のヘイト・スピーチ問題に関する相談体制のあり方を考えるうえで注目されよう」と言う。

賛成である。もっとも、ヘイトの法的位置づけがあいまいで、法的対策の具体的メニューのないまま地方自治体に相談したところで、できることは限られている。相談員もどうしたらよいのか悩むだけだろう。

(2)私は差別被害者の救済について、『ヘイト・スピーチと地方自治体』第7章で、国際人権法の要請を確認し、国際人権法の実行例としてスウェーデン、ベルギー、ルクセンブルク、ポーランド、スイス、デンマーク、チェコの差別被害者救済制度を紹介し、具体的な方策の検討を行った。榎はアメリカにおける差別被害者救済制度について紹介しないのだろうか。

4 禁止規定・罰則規定

(1)榎は、現行法(罰則なし)、東京弁護士会の人種差別撤廃モデル条例案、川崎市条例案(後に制定された条例)を検討している。ヘイト・スピーチの禁止規定を設けること、「あおる」という煽動規定を設けること、規制範囲の明確化(何を規制するのか明確でなければならない)、第三者機関を設置する手続について論じている。

榎は「禁止規定・罰則規定を条例に設けることについては、克服すべき書店がある」(榎論文24頁)とし、「憲法との関係で緊張をはらむこれらの劇薬」と表現する。榎は「ヘイト・スピーチを社会から表面的になくすということを重視する者からすれば、このような規制手段は迅速かつ効率的なものに見えるであろう」という(榎論文24頁)。

(2)私には、「ヘイト・スピーチを社会から表面的になくすということを重視する者」という表現が何を意味するのかよくわからない。榎はなぜ具体的に批判対象を明示しないのだろうか。私を含めて、ヘイト・スピーチに反対する論者の多くは、差別をなくすために努力を続け、ヘイト・スピーチをなくすために対抗言論を駆使し、さまざまな対策を試み、法規制を提案している。その多くの論者の中に、「ヘイト・スピーチを社会から表面的になくすということを重視する者」がいるのかどうか、私には判断できない。

5 「公の施設」の利用制限

(1)施設利用のガイドラインがいくつもつくられているので、榎は、川崎市その他のガイドラインを基に論じている。榎の結論は次の通りである。

「この種のガイドラインを策定するのであれば(そもそもガイドラインという形式でよいのかという問題もある)、『不当な差別的言動』の範囲、その認定の根拠や手法・基準等が明確でなければならず、そうでなければ、憲法上問題があると思われる。」(榎論文28頁)

この結論に異論はないが、私は合憲のガイドラインが十分できていると判断するが、榎は疑問視をしている点で、見解が異なるだろう。

(2)榎は「告知内容はもちろん、申請者・団体の性質及び活動歴等で判断するのは内容審査の最たるものであるし、また、ヘイト・スピーチを行った経験のある者が、次に公の施設においてヘイト・スピーチを行うとは限らない」としている(榎論文2728頁)。

内容審査、観点規制は許されないというのが憲法学の有力説とされている。

(3)「公の施設」の利用制限問題でまず確認しなければならないことは、地方自治体が差別に加担してよいか、である。地方自治体がヘイト団体に公の施設を貸して、ヘイト団体がヘイト・スピーチを行えば、地方公共団体が差別行為に加担したことになる。利便性が高く廉価な施設を貸した場合は、地方公共団体がヘイト団体に資金援助したことになる。地方公共団体がわざわざ税金を支出してヘイト行為に加担してよいだろうか。

これにNOと唱えるのが私である(前田朗『ヘイト・スピーチと地方自治体』)。私は当たり前のことを言っていると思うが、多くの憲法学者は逆の主張をする。「地方公共団体はヘイト団体といえども公の施設を貸し出す義務がある」と主張する論者もいる(大阪市審議会報告書)。つまり、地方公共団体は差別に協力する義務があるというのだ。

憲法前文、第12条、第13条、第14条の規定から言って、地方公共団体は差別やヘイトに加担してはならないのではないか。私は長年こう唱えて、憲法学者に問いかけてきたが、規制消極派とされる憲法学者は誰も応答しない。

榎もこの問いに沈黙を貫くのだろうか。

6 拡散防止策

(1) 榎は拡散防止策として、氏名公表と削除要請を取り上げ、まず、削除要請は可能だが、削除の強制には「憲法の規定と衝突しないような形での立法措置が必要になる」(榎論文29頁)という。

ヘイト・スピーチの削除等の対処をプロバイダーに義務付ける法律はドイツでもフランスでも既に存在する。欧州では条約化されている。榎は、そうした実例を検討することなく、アメリカ法を紹介することもなく、上記の結論を2~3行書いているだけである。

日本では、匿名のヘイト・スピーカーを特定することが困難なため、民事訴訟を提起するためにヘイト被害者が大変な苦労をしてきた。現実に起きている問題について榎の見解を知りたいものだ。

(2)   榎は次のように述べる。

「要請にせよ強制にせよ、問題の『ヘイトスピーチ』が削除されたとしても、悪質な者であればまた別のところで、インターネットを使っておそらく拡散に走る可能性がある。そうすると、別の対策を講じなければならない。」(榎論文29頁)

1に、長年にわたって現実に起きていることを、なぜ「おそらく~~可能性がある」と書くのだろうか。マイノリティに対するヘイト・スピーチはもとより、対抗言論をする者に対する誹謗中傷も、ネット上ではあっという間に拡散される。

2に、だから、どうなのか。榎は「削除しても、どうせ拡散されるのだから、削除は意味がない」と主張したいのだろうか。川崎市がガイドラインを作成することになった協議会報告書はすでに「どれだけ繰り返されようと、差別やヘイトにはNOと言い続けなければならない」という思想を明快に打ち出した。それが政府(国も地方自治体も)の任務ではないのか。それこそ憲法学者がするべきことではないのだろうか。

3に「別の対策を講じなければならない。」で終わっているのはなぜなのか。「別の対策」とは何なのか、不明である。

(3) 榎は実名公表について、電気通信事業法を根拠に「現行法の枠組みでは事業者に情報提供を強制することは困難である」(榎論文29頁)という。確かに手続きを踏まなければならないが、実現できないわけではない。「困難である」で済ますべき問題ではないだろう。

ここでも問われるべき第1の問題は、プロバイダーは差別やヘイトに協力・加担してよいのか、加担・協力してはならないのか、である。この問いに答を出さないまま、手続きがどうのこうのと議論をする理由は何だろうか。

Thursday, April 15, 2021

ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン呼びかけ

*「ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン」の呼びかけ文を紹介します。


ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン

(略称:あたりまえキャンペーン)

202127

2021213日修正

202134日修正

202144日修正

 

ダーバン反差別世界会議とは何だったのか?

植民地主義をいかに乗り越えるか?

ブラック・ライヴズ・マターBLMは何を求めているか?

新型コロナはマイノリティを直撃していないか?

ダーバン宣言20周年を私たちはどう迎えるか?

レイシズムを克服するために何が必要か?

あなたもダーバン+20キャンペーンに参加しませんか?

 

2021年は、2001年のダーバン会議(人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に反対する世界会議)から20年目となります。

国連の歴史上初めて植民地時代の奴隷制は人道に対する罪であったと認め、被害者に謝罪し、財政支援をすることを掲げた「ダーバン宣言及び行動計画」は、世界中の人種主義や人種差別に光を当て、その歴史的本質と現象形態を分析し、それが現代世界に及ぼしている暗雲を振り払うために国際社会の協調が必要であることを強く打ち出しました。

アメリカでも欧州諸国でも、かつての奴隷制と奴隷取引への反省が始まり、大統領や首相による謝罪発言も続きました。植民地主義と人種主義が差別や抑圧を生み出していることが共通の理解となってきました。

そしてこの20年、国連人権機関では「ダーバン・フォローアップ」が重要課題とされてきました。

2007年には国連先住民族権利宣言、2015年には「持続可能な開発目標SDGs」、2016年には国連平和への権利宣言、2017年には核兵器禁止条約が採択されるなど、環境、平和、人権のための国際社会の取り組みは飛躍的に進んでいます。

ところが、現実には世界各地で宗教対立、民族対立、資源紛争などさまざまな混迷が続いています。中東やアフリカからの難民に対する排除と差別、ロヒンギャ難民の発生、ヘイト・クライム/スピーチ多発、「アメリカ・ファースト」による差別の激化が続いています。

これに対して、アメリカのBLM運動に代表されるように、人権と解放のための闘いも力強く立ち上がっています。世界各地のマイノリティや先住民族の人権運動も粘り強く続いています。ダーバン宣言と行動計画の実施を求める声は、被差別当事者だけでなく、各国政府や人権NGOのコミットを引き出してきました。

 

日本では、2001年のダーバン会議に参加した市民グループ「ダーバン2001日本」の取り組みがあり、多くの人権NGOや個人が関心を寄せてきました。

ダーバン10周年には、シンポジウムと宣言運動の取り組みもなされました。2010年は1910年の韓国併合100周年であったことから、日韓市民共同宣言、及び東アジア歴史・人権・平和宣言という2つの宣言を作成しました。他方、2011年、同志社大学で、ダーバン会議の事務局長だったピエール・サネ氏を招請して10周年シンポジウムが開催されました。

しかし、この20年間を見ると、反差別と人権擁護の闘いは一貫して大きな壁に直面してきたと言わなければなりません。21世紀に入ってヘイト・クライムとヘイト・スピーチが悪質さを増し、難民(及び認定申請者)や移住者が置かれた状況も改善しているとは言えません。

アイヌ民族について日本政府は先住民族と認めながら、先住民族としての権利を認めたとは言えません。遺骨返還問題も裁判所で闘われています。

琉球民族について日本政府は先住民族と認めず、辺野古基地建設強行に見られるように、ますます差別と弾圧を強化しているのが現実です。遺骨返還問題も裁判中です。

在日朝鮮人に対する差別と迫害は改善に向かうどころか、悪化の一途を辿っています。在留資格問題や指紋押捺拒否問題の時代を経て、今日では朝鮮学校に対する激しい差別、民族団体を標的としたヘイト・クライム、そしてヘイト・スピーチが深刻になっています。

被差別部落については、部落差別解消法が制定され、各地で自治体条例を求める運動が続いていますが、他方でネット上の新たな「部落地名総鑑」事件が起きるなど、差別事件が後を絶ちません。

さまざまなマイノリティに対する差別が競合し、重層的になる「複合差別」現象も喫緊の課題です。ヘイト・スピーチ裁判の中で日本の裁判所が「複合差別」を認定する事例も出てきました。

日本におけるさまざまな差別は、総体として見ると、戦争と植民地支配の歴史や、階級階層あるいは地域や職業など社会的要因に根ざした「構造的差別」として被害を拡大していることがわかります。

日本軍性奴隷制(慰安婦)問題や徴用工問題をはじめとする「戦後補償」問題においては、戦争と植民地支配の歴史を忘失し、植民地支配犯罪に開き直る姿勢が顕著であり、東アジアの連帯と平和を妨げています。

日本における人種民族差別について、この20年間に人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会で4回の審議が実施されました。2001年、2010年、2014年及び2018年に、日本政府が提出した報告書について、人種差別撤廃委員会での審査を経て、改善勧告が出されています。

国連人権理事会における「普遍的定期審査(UPR)」でも日本の人権状況が審査され、各国から数多くの改善勧告が出ています。拷問問題、死刑問題、子どもの権利など多くの勧告とともに、人種民族差別の是正を求める勧告が続いています。

日本社会に生きる私たちはダーバン会議から20年を経た日本で、反差別と人権擁護の闘いをさらに推進し、差別のない、共に生きる社会を構築するための取り組みを、いっそう幅広く、いっそう深く進めていかなくてはなりません。

過去の戦争と植民地支配における加害の側に立つ日本の市民には、とりわけ歴史的差別と現在の人権状況に対する大きな責任があります。

過去の戦争と植民地支配における被害の側に立つさまざまな市民、そして現在の日本社会に由来する差別被害を被っているマイノリティや先住民族である市民には、差別のない共に生きる社会を求める権利があります。

そこで私たちはダーバン会議から20年の2021年度に「ダーバン+20」キャンペーンを立ち上げ、ダーバン宣言と行動計画を基礎に、次の10年に向けた反差別と人権の宣言と行動計画を作り出す運動を呼びかけます。

 

 

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ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン

<共同代表>

上村英明(恵泉女学園大学)

藤岡美恵子(法政大学)

前田 朗(東京造形大学)

<実行委員>

稲葉奈々子(上智大学) 上村英明(恵泉女学園大学) 清末愛砂(室蘭工業大学) 熊本理抄(近畿大学) 乗松聡子(『アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス』 エディター) 藤岡美恵子(法政大学) 藤本伸樹(ヒューライツ大阪) 前田朗(東京造形大学) 矢野秀喜(強制動員問題解決と過去清算のための共同行動事務局) 渡辺美奈(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)

2021.3.26現在)

Wednesday, April 14, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(171c)憲法と憲法学との微妙な関係(3)

榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)

憲法と憲法学との微妙な関係についてもう少し考えたい。換言すると、日本憲法学は日本国憲法を基に議論しているのか、という論点である。

先に書いた第1の論点は榎論文の「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」における、憲法と条約(国際法)の関係をいかに理解するかであった。

だが、それ以上に気になるのは、憲法解釈方法論である。憲法解釈に当たって、私が重視するのは次の4つである。言うまでもないが優先順である。

    日本国憲法(前文及び各条文)

    確立した判例

    日本が批准した国際条約

    慣習国際法

ここには比較法的知見、外国法情報は含まれない。

私は世界150カ国のヘイト・スピーチ法制定状況を紹介してきた。これを「前田は世界150カ国でヘイト・スピーチを処罰するから日本も処罰するべきだと主張している」と誤解する論者が少なくない。私はそうした主張をしていない。

ヘイト・スピーチの議論において、私は比較法研究や外国法研究にはあまり関心を持っていない。私が世界各国の状況を紹介してきたのは、③の国際条約、及び④の慣習国際法への関心であり、国際法の「実行例」を確認するためである。比較法や外国法研究にはその限りでしか関心がない。

榎はどうであろうか。前回見たように、榎は①日本国憲法前文、第12条、第13条、第14条に関心を示さない。そして、憲法第21条を「マジョリティの表現の自由の優越性」として位置付けているように見える。

榎は②最高裁判例を批判し、それとは異なる法理を唱える。

榎は③の国際条約、及び④の慣習国際法については、榎が考える日本国憲法に抵触しない限りでこれを認める。つまり、重視しない。日本国憲法に抵触しない限りで認めること自体は、私も賛成である。

そして、榎が重要視するのは、アメリカ法(憲法及び判例)である。榎のヘイト・スピーチに関する旧論文はアメリカ判例研究であった。本論文は日本の状況を検討しているが、その中でも前回引用したように、「これに対して、判例はアメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理を用いていないので、日本のヘイト・スピーチ規制を考えるうえで考慮する必要はないとの指摘があるかもしれない。」と述べる。この文章は短いが、榎の他の論文等を読んだ者には、榎は「アメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理」を参照するべきだと主張していることが明白である。

榎に限らず、日本憲法学の主流は、表現の自由についてはアメリカ法研究が圧倒的に多く、しかもアメリカの判例法理を日本国憲法第21条の解釈に直接持ち込んできた。イギリス、フランス、ドイツ法の研究も見られるが、圧倒的多くがアメリカ法研究である。しかも、単に紹介するのではなく、「アメリカ判例法理を適用せよと主張してきた」と言って良い。榎はアメリカ法を適用せよとは言わないが、アメリカの法理を紹介して、これを参照するべきだと言う。実際には、榎はもっぱら「アメリカ法だけを参照するべきだ」と主張してきたと言える。少なくとも、榎はアメリカ法以外を参照すべきだとは主張しない。

榎に限らず、日本憲法学の主流は、憲法第1条の解釈においてアメリカ法を研究しない。同様に憲法第9条の解釈においても、憲法第10条でも、第25条でも、第41条でも、第65条でも、第92条でも、アメリカ法を参照しない。ところが、第21条だけは絶対的にアメリカ法を参照するべきだと主張する。アメリカの判例であるブランデンバーグ法理を直接採用するように唱える論文がいくつも書かれてきた。世界でもまれに見る極端なアメリカ絶対主義であり、属国主義である。

アメリカ憲法の表現の自由と日本国憲法の表現の自由が同じ条文であるのなら、まだわからないでもないが、両者に類似性はない。日本国憲法の表現の自由の規定上の特徴は欧州諸国の憲法の表現の自由規定により近いし、国際人権規約と同じ構造を持っている。しかし、日本憲法学の主流は、理由を示すことなく(理由を示す必要があるなどと考えるまでもなく)ひたすらアメリカ法理を参照する。

日本の法学研究はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスをはじめとする諸外国の法制・判例・法学説の研究に力を注いできた。その成果は大きなものがあったし、今後もそれは続くだろう。その意義は私も認める。外国法情報が適時に多く紹介されるのは良いことだ。

しかし、憲法解釈に当たって重視するべき順序は次のように考えるべきであろう。

①日本国憲法(前文及び各条文)

②確立した判例

③日本が批准した国際条約

慣習国際法

諸外国の法制・判例

私は法解釈に当たって①②が最重要であり、必要に応じて③④を参照するべきだが、⑤はごくごく軽い参考にとどめるべきだと考える。

⑤が③④よりも優先する理由はないだろう。憲法前文は国際協調主義を強く押し出しているうえ、憲法第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と表現して、国際社会が形成・獲得してきた人権の重要性を明示している。そのうえで、憲法第98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」としている。

これに対して、榎は、前回すでに明らかにした通り、①日本国憲法(前文、第12条、第13条、第14条)を度外視し、②最高裁判例(公共の福祉論)を批判し、③④を重視せず、⑤のうちアメリカの判例法理を最重要視する。イギリスやフランスやドイツには言及しない。

榎は「憲法の規定を基準に規制の是非を判断している」と述べるが、憲法第21条の規定を根拠にしない。榎が基準として持ち出すのは、「アメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理」である。榎はこれを直接適用するとは言っていないが、憲法解釈の基準として参照するべきとしている。榎は「憲法の規定を基準に規制の是非を判断」せず、「憲法の規定を<アメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理>に置き換えている」のではないだろうか。

アメリカ判例法理を研究し、それを参照することを私は批判しない。明白かつ現在の危険の基準やブランデンバーグ法理を私は批判しない。

私が疑問を抱くのは、①日本国憲法(前文、第12条、第13条、第14条)を度外視し、最高裁判例(公共の福祉論)を批判し、③④を重視せず、のうちアメリカの判例法理を最重要視する方法論である。

余談だが、ついでに書いておくと、私は国連人権理事会や人種差別撤廃委員会などの国際人権法の紹介をしてきたが、それが私の主たる仕事ではない。私がこの四半世紀、主として取り組んできたのは、日本の状況を国連人権理事会や人種差別撤廃委員会に紹介することであった。それが主たる目的であり、主たる仕事であった。その結果として、国際人権法を日本に紹介する作業も行ってきた。日本の情報を国連に報告してきた。

日本憲法学の主流は、アメリカ法理の輸入に邁進してきたが、日本法の紹介・輸出にもっと精を出してはどうだろうか。いまや世界中の法状況がオンラインで繋がり始めている。アメリカ法の紹介は、大勢の専門研究者が取り組むまでもないのではないか。日本の法理をアメリカに輸出することこそ有意義な仕事になるのではないだろうか。

Tuesday, April 13, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(171b)憲法と憲法学との微妙な関係(2)

榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)

前回は榎論文における前田批判の内容を紹介した。いちおう3つの論点に分けておいたが、ポイントは「憲法」とは何かであり、「憲法学」とは何かである。今回はもう少し踏み込んで、榎に教わりたいことを書いてみる。

私が「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。」と述べているのは、憲法前文、第12条、第13条、第14条、第21条に基づいてヘイト・スピーチを処罰するという考え方である。このことを何度も明示してきた。私は『ヘイト・スピーチ法研究序説』第1章及び第8章、『原論』第4章などで、ヘイト・スピーチの憲法論を取り上げ、論じてきた。その骨子を確認しておこう。

1に民主主義論である。民主主義とレイシズムは両立しない。レイシズムは民主主義を破壊する。ヘイト・スピーチは他者の殺害や排除を主張し、民主主義の基盤を損なう。民主主義を守るためにヘイト・スピーチの何らかの規制が必要である。

(なお、私は人間の尊厳を重視しているが、日本国憲法にはこの概念がない。憲法論において直接、人間の尊厳を唱えるのではなく、民主主義論とセットにして考え、その上で憲法13条や14条に繋げて考えている。憲法学では、人間の尊厳を唱える論者もいれば、13条の個人の尊重や24条の個人の尊厳を唱える論者もいる。)

2に日本国憲法前文である。国際協調主義、圧迫と偏狭の除去、平和的生存権、恐怖からの自由の思想は「かつて日本による侵略戦争の被害を受けたアジアの人民が日本でヘイト・スピーチを受けない権利」を支える。憲法第9条はその具体化の規定である。

3に憲法第12条である。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

4に憲法第13条である。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

5に憲法第14条1項である。

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

6に憲法第211項である。

「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

他にもあるが、ここでは以上の1~6をもとに議論しておこう。表現の自由はきわめて重要な自由である。榎も引用しているが、アメリカの憲法学者エマーソンは、人格権や民主主義論から表現の自由の重要性を論じている。私も賛成である。表現の自由は民主主義の発展に不可欠であり、重要である。民主主義を否定し破壊するヘイト・スピーチは表現の自由に反する。特にマジョリティがマイノリティを攻撃することによって、マイノリティの表現の自由が剥奪される。

それゆえ、憲法第12条が自由及び権利の濫用を戒め、「公共の福祉」を掲げ、「責任」について言及している。表現の自由には責任が伴うことを私は何度も強調してきた。同時に私は憲法学者の表現の自由論には責任論が欠落していると指摘してきた。

憲法第13条も「公共の福祉に反しない限り」と明示して、公共の福祉による表現の自由の制約を明示している。

憲法第14条は法の下の平等と差別の禁止の2つを掲げる。多くの国の憲法ではどちらか1つを掲げるが、日本国憲法は両方を掲げる。それだけ重要と考えるべきだ。金子匡良は「差別されない権利」を唱えている。

https://maeda-akira.blogspot.com/2019/02/blog-post_23.html

憲法前文、第9条、第14条を体系的に考えれば、「アジアの人民が日本で差別されない権利」「アジアの人民が日本でヘイト・スピーチを受けない権利」を想定することができる。

憲法第211項の意味も以上の文脈で考えるべきである。かつて、日本のマスコミは表現の自由を濫用して、侵略戦争を煽り、民族差別を煽った。このことを反省して憲法前文、第9条、第14条ができている。

同様に、憲法第21条も、すべての市民の表現の自由を保障しているので、「日本国民だけの表現の自由を保障する」考え方を採用するべきではない。マジョリティの表現の自由の優越性を強調してきたのが憲法学の主流である。表現の自由を「マジョリティの表現の特権」と置き換えてはならない。むしろ、「マイノリティの表現の自由の優越的地位」を保障する方策を考えることこそが憲法学者の任務であろう。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するべきである。

以上のことから、日本国憲法の立場はヘイト・スピーチの刑事規制を求めていると理解するべきである。これが私の主張の骨子である。

それでは榎はどのように主張しているだろうか。

榎は、第1に国際人権ではなく、憲法上の人権に限定する。規制が憲法上許されるための条件を明らかにしようとする。第2に、「憲法の規定を基準」にすると述べる。第3に、「日本国憲法の表現の自由に基づく種々の検討事項(Ⅰ2を見よ)を考慮」する必要性を強調する。この限りでは、私もとりたてて異論をはさむ理由がない。

私が疑問を抱かずにいられないのは、榎が憲法第21条の表現の自由だけを論じていることである。

1に、榎は民主主義について一定の言及をしているものの、民主主義とヘイト・スピーチの関係について言及しないように見える。榎はヘイト・スピーチを容認することが民主主義の発展に資すると考えているのだろうか。この点は後述する。

2に、榎はなぜ日本国憲法前文に言及しないのだろうか。国際協調主義、圧迫と偏狭の除去、平和的生存権、恐怖からの自由をどのように理解しているのだろうか。日本国憲法前文には憲法の精神、主たる思想が明示されているのであり、各条文の解釈の指針の一つと考える私は間違っているのだろうか。

3に、榎は憲法第12条に言及しない。自由及び権利の濫用の戒め、「公共の福祉」、「責任」についてどのように理解しているのだろうか。

4に、榎は憲法第13条に言及しない。「公共の福祉に反しない限り」と明示していることをどのように理解しているのであろうか。

5に、榎は憲法第14条に言及しない。「差別されない権利」をどのように考えているのだろうか。

以上のうち「公共の福祉」については、榎も言及している。

「これに対して、判例はアメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理を用いていないので、日本のヘイト・スピーチ規制を考えるうえで考慮する必要はないとの指摘があるかもしれない。しかし、判例のように『公共の福祉』という簡単な理由付けで煽動の処罰を合憲とする立場に立つとしても、煽動したときに重大犯罪を引き起こすよう具体的な危険がなければ、当該煽動を処罰できないと考えられている。」(榎論文22頁)

榎の見解は、第1にアメリカ法由来の法理を参照するべきだ、第2に、判例はその法理を採用してないので批判すべきである、第3に、判例の立場に立っても「公共の福祉」があれば刑事規制できると見るべきではなく、具体的危険が必要であるという意見がある、というものであろう。

確認しておくべきことは、憲法第12条も第13条も「公共の福祉」を明示しており、最高裁判例もこれを適用しているにもかかわらず、榎は公共の福祉の適用に批判的であり、アメリカ由来の法理こそ正当と考えつつ、仮に公共の福祉によるとしても一定の限界づけが必要としていることである。

「憲法の規定を基準」とするはずの榎は、なぜ憲法第12条も第13条も無視し、「公共の福祉」に違和感を表明しているのだろうか。

もちろん公共の福祉があれば刑事規制できるとするのは乱暴であり、公共の福祉概念の精密化が必要であること、その適用の仕方についてなお議論が必要であることは当然である。とりわけ表現の自由の重要性に鑑みて、検討すべき課題が多いことはもちろんである。それはここでの論点ではない。

ここでの論点は、榎が、憲法第12条と第13条に明記されている概念を否定的にしかとらえていないように見えることである。私の誤読だろうか。

民主主義についても2点、確認しておきたい。

1に、私が「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する」と主張するのに対して、榎は「彼(…前田のこと)の見解を理解しようとすれば、それは日本国憲法の表現の自由を、ドイツの採用する『戦う民主主義』のように<自由の敵には自由を与えない>…というもの(あるいは、それに類似するもの)であると考えることになろうか」と述べる。

なぜ、ここでドイツの「戦う民主主義」が引き合いに出されるのか、私には理解できない。私の『序説』第7章及び第8章では、ヘイト・スピーチを処罰する法制を持つ国を120カ国ほど紹介した。『原論』第7章でも多くの国を紹介した。正確に数えていないが、最近は150カ国にヘイト・スピーチ規制法があると主張している。国連加盟国は193カ国である。150カ国にヘイト・スピーチ規制法があるのは、民主主義と人間の尊厳を守るためであり、差別被害を適切に認識しているからであり、国際人権法の要請だからである。榎はなぜドイツの「戦う民主主義」を持ち出すのだろうか。

2に、民主主義の内実に関わることだが、民主主義とレイシズムは両立しない。レイシズムは民主主義を破壊する。国連憲章や戦後の国際人権法においては、レイシズムやファシズムは民主主義を損なうと見るのが常識である。どのような民主主義観を取ろうとも、それが民主主義である限り、以上のように考えるべきであろう。この理解は間違っているのだろうか。

ヘイト・スピーチにも多様性があるが、世界でもっとも深刻でもっとも多く発生しているのが「人種主義レイシズム」であり、その具体的現象形態として人種主義動機に基づくヘイト・クライム/スピーチがある。この理解は間違っているのだろうか。

ヘイト・スピーチは「**人を殺せ」「**人は出ていけ」と迫害と排除を煽動する。マイノリティを迫害し、社会から排除しようと煽動する。

「**人を殺せ」と迫害し排除し差別を煽動するヘイト・スピーチを容認しておくと、その社会に民主主義は成立しない。レイシズムと民主主義は両立しない。

私の主張のどこがどのように間違っているのか、榎には具体的に指摘してもらえると助かる。

Sunday, April 11, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(171a)憲法と憲法学との微妙な関係(1)

榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)

はじめに

 共有されている/いない前提

 1 「ヘイト・スピーチ」という語

 2 表現の自由

 3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権

 4 「効果」がある/ないという思考

 日本におけるヘイト・スピーチ対策とその評価

 1 思想の自由市場・対抗言論

 2 教育・啓発

 3 相談体制

 4 禁止規定・罰則規定

 5 「公の施設」の利用制限

 6 拡散防止策

むすびにかえて

榎はこれまで数本の論文においてヘイト・スピーチについて論じてきた。主にアメリカ憲法・判例を研究し、その理論的影響の下で日本国憲法の解釈を展開しようとするものだが、アメリカ憲法への論及が中心であって、これまで日本国憲法の下での議論を積極的に展開してこなかったように見える。本論文は、榎の「日本国憲法の下でのヘイト・スピーチ論」として重要である。冒頭に「本稿は、簡単なものではあるが」(榎論文1頁)と断り書きがあり、末尾にも「簡単ではあるが、憲法学の視点からヘイトスピーチ対策の内容と問題点を整理したものである。それぞれの条例等の包括的検討や、近年注目される学説の検討を行うことはできなかった。本格的な検討は他日を期したい」(榎論文29頁)とあるように、本論文は榎のヘイト・スピーチ論のエッセンス、あらすじを示したものである。結論が示されていても論証が省略されている面がある。結論があいまいな個所も見られる。

とはいえ、ヘイト・スピーチ刑事規制について消極論の代表格と見られてきた榎のヘイト・スピーチ論の骨子が明らかにされたので注目される。

私は『ヘイト・スピーチ法研究原論』257260頁で榎の旧論文を紹介して、3点の批判をした。榎は本論文において、私の主張を取り上げて批判的に検討している。

これまで憲法学者に中には、私を批判しながら、私の名前をあげず、しかし誰が見ても私のこととわかるように書き、直接的にではなく当てこすりの批判をする例が見られる。しかも、私が主張していないことを、さも私が主張しているかのごとく書く論者がいる。これらを私は上記『原論』で批判してきた。

これに対して、榎は私の名前を明示し、私の主張を引用・紹介した上で批判を加えている。まっとうな批判方法であり、フェアーな姿勢であるので歓迎したい。論点が明確になる。

榎の前田批判は2カ所に見られる。1つは目次の「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」の論点、もう一つは「「効果」がある/ないという思考」の部分で、註の中での言及である。ただ、いくつかの論点が含まれるので、以下では分けて論述する。

 

 

1の論点:「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」

私が国際人権法上の義務の尊重を強調したのに対して、榎は次のように反論する。

「しかし、国連人権理事会の理事国に日本が立候補する点についての評価は別として、条約の規定があるからといって、日本政府が憲法の規定を無視してまで条約上の義務を履行すべきことにはならない。また、条約上の規定を遵守する場合でも、それは日本国憲法の規定に抵触しない範囲で行わなければならない。このことは、前田が条約優位説に立つのであればともかく、憲法優位説を受け入れているのであれば、当然に首肯されるべきものである。」(榎論文9頁)

明快な指摘であり、私自身も本来は憲法優位説を採用するので、榎の主張はもっともであるとも言える。「日本政府が憲法の規定を無視してまで条約上の義務を履行すべきことにはならない」というのは適切である。

しかし、実は事柄はそう単純ではない。榎は議論の場を明示せずに条約優位説か憲法優位説かを問う。しかし、私はそうした議論に意味があるとは考えない。日本国憲法が憲法優位説をとっているかどうかとか、私が憲法優位説をとっているかとは別に、重要なのは日本国家の憲法実態(憲法政治)がどうかを見ることだからだ。日米安保条約体系を見れば明らかなように、日本の憲法政治は現実に条約優位がほとんど完璧に採用され、それは議論の対象ですらなく当たり前のこととされてきた。条約優位説と憲法優位説が、いわばご都合主義的に使い分けられてきたのが実態である。この現実を無視して、条約優位説か憲法優位説かを問うことに意味があるとは考えない。

 

2の論点:「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」

 

榎は次のように述べる。

「もっとも、前田自身は『日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する』ということから、自身の立場が日本国憲法の規定に矛盾しないと考えていると思われる。つまり、条約上の義務を実施すべく刑事規制を行うことは、日本国憲法とも矛盾しないというのであろう。しかし、それが日本国憲法の表現の自由に基づく種々の検討事項(2を見よ)を考慮したうえでたどり着いた結論であればともかく、そのような検討を行うことなく刑事規制に賛成の立場を示しているのだとすれば、それは日本国憲法の表現の自由を無視、あるいは、軽視した議論であると言わざるを得ない。つまり、本人の言に反し、それは日本国憲法に従わずにヘイト・スピーチを刑事規制を目指すものである。」(榎論文910)

(1)まず、右に引用された私の見解は「第三に比較法に関する理解である。」と始まる段落からの引用である。私の『原論』259頁の文章は、榎がもっぱらアメリカ法だけを根拠として立論していることに疑問を提示し、「アメリカだけに学ぶべきだという榎の見解には合理性がない。」と結論付けている。比較法についての論述であって、国際法についての論述ではない。

条約及び国際人権法については、私はその次の段落で言及している。比較法の議論と国際人権法の議論はまったく別だからである。

私は『ヘイト・スピーチ法研究序説』第1章及び第8章、『原論』第4章などで、ヘイト・スピーチの憲法論を取り上げ、日本の憲法学説の比較法研究の方法を批判してきた。榎への批判もその文脈で書いたものである。

(2)次に、榎が引用するように、「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する」というのが、私の基本主張である。この点を引用せずに私を批判する論者がいるが、榎は的確に引用している。

ただ、榎は私の基本主張がどのような構造を持っているかには言及しない。それは「憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」という文脈の話ではない。私の基本主張は『序説』第112節、及び『原論』第4章において詳述した。なぜか榎はこれらにまったく関心を寄せない。

(3)ここが最重要論点である。詳しくは後述するが(次回のブログ投稿)、榎が「しかし、それが日本国憲法の表現の自由に基づく種々の検討事項(Ⅰ2を見よ)を考慮したうえでたどり着いた結論であればともかく」と言い、「それは日本国憲法の表現の自由を無視、あるいは、軽視した議論であると言わざるを得ない」と述べていることに関わる。

私が「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。」と述べているのは、憲法前文、第12条、第13条、第14条、第21条に基づいてヘイト・スピーチを処罰するという考え方である。このことを何度も明示してきた。

榎が「日本国憲法」と述べる際に言及するのは憲法第21条の表現の自由だけである。上記の引用箇所だけではない。29頁に及ぶ榎論文は憲法第21条の表現の自由だけに言及し、憲法前文、第12条、第13条、第14条に一切言及しない。

多くの憲法学者が憲法前文、第12条、第13条、第14条に一切言及しないことを、私はしつこく批判してきた。

その私に対する反論なのに、榎は憲法前文、第12条、第13条、第14条には絶対に言及しないという原則を固く守る。これはなぜなのか。

ここが最重要論点であり、「憲法と憲法学との微妙な関係」に関わるので、次回に続く。

(4)なお、上記引用の次に、榎は「彼(…前田のこと)の見解を理解しようとすれば、それは日本国憲法の表現の自由を、ドイツの採用する『戦う民主主義』のように<自由の敵には自由を与えない>…というもの(あるいは、それに類似するもの)であると考えることになろうか」と述べ、「その憲法上の根拠は何であろうか」と問う(榎論文10頁)。

しかし、私は「ドイツの採用する『戦う民主主義』」を採用していない。

ヘイト・スピーチの議論にとって民主主義論は極めて重要であり、私は『原論』第41節「憲法原理とレイシズム――民主主義と人間の尊厳」において詳しく論じた。

この点も最重要論点の一つであり、やはり「憲法と憲法学との微妙な関係」に関わるので、次回に続く。

 

3の論点:「「効果」がある/ないという思考」の註

私が「規制の必要性と効果は別問題である」と批判したのに対して、榎は次のように述べる。

筆者は、規制の必要性を基準に規制の是非を判断しているのではなく、憲法の規定を基準に規制の是非を判断している。ゆえに、この点における前田の理解は正しくない。」(榎論文1011頁)

榎は「憲法の規定を基準」に傍点を付して強調している。「憲法の規定」というが、榎論文で言及している憲法の規定は表現の自由だけであり、憲法第21条のことである。

この点も最重要論点の一つであり、やはり「憲法と憲法学との微妙な関係」に関わるので、後述する。

なお、榎はさらに次のように続ける。

「日本社会からヘイト・スピーチをなくすことを目指して対策を講じるはずだから、規制目的を明確にしたうえで必要な対策はとられるべきであるし、その対策に一定の効果を期待しているはずである。その対策に効果がなければ、別の対策を講ずる必要がある。そうでなければ、その対策は象徴的な意味合いをもつにとどまる。但し、当然のことであるが、採用されたヘイト・スピーチ対策に『効果』を期待できるとしても、憲法規定に抵触するものは許されない。『差別は許されないのだから、差別を止めさせる努力を続けるのが当たり前である』という指摘は、無論である。」(榎論文11頁)

この部分は私にはよく理解できない。

(1)まず前半の「日本社会から~~象徴的な意味合いをもつにとどまる。」は何を言おうとしているのだろうか。憲法学者の中には、「刑事規制してもヘイト・スピーチはなくならないから、規制は象徴的立法にすぎず、(あまり)意味がない」として刑事規制を否定する論者がいる。榎は「筆者は、規制の必要性を基準に規制の是非を判断しているのではなく」と書いているから、規制の必要性や効果は主要論点ではないはずだが、「その対策は象徴的な意味合いをもつにとどまる。」と効果に言及しているように見える。榎自身の見解としてではなく、規制必要論者の主張を検討する文脈で、「効果のない規制は象徴的立法にとどまる」と批判しているのかもしれない。

しかし、効果のない刑事規制はいくらでもある。効果が十分に証明されていない刑事規制、長年にわたって効果が見られない刑事規制はふつうである。むしろ一般的である。

刑法199条は殺人を犯罪として人の生命を保護しようとする。しかし、100年以上にわたって殺人はなくならない。榎は刑法199条について「効果のない規制は象徴的立法にとどまる」と批判するのだろうか。

刑法235条は窃盗を犯罪として財産権を保護しようとする。しかし、100年以上にわたって窃盗はなくならない。榎は刑法235条について「効果のない規制は象徴的立法にとどまる」と批判するのだろうか。

(2)後半の「但し、当然のことであるが、~~無論である。」の意味もよく分からない。「憲法規定に抵触する刑事規制は許されない」という主張はもちろんよく理解できるし、正当である。「憲法規定に抵触する」か否かは、見解の相違であり、それについては後述する。次の文章の「~~という指摘は、無論である。」の意味がよくわからないが、「前田は~~と指摘するが、憲法規定に抵触するものは許されないのは無論である」という意味であろうか。それならば理解できる。

榎の前田批判は以上である。ただ、榎論文の主張の大半は、実質的に私の見解と対立しており、応答するべき点が少なくない。その全体について応答する余裕はない。