Monday, June 07, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献176

小笠原博毅『真実を語れ、そのまったき複雑性において ―スチュアート・ホールの思考』(新泉社、2019年)

https://www.kobe-u.ac.jp/info/public-relations/book/2019/06_10_01.html

 

カルチュラル・スタディーズの理論家、スチュアート・ホールに学んだ著者が「ホールの思想」――存在しないホールの思想を追跡し続けた研究である。

カルチュラル・スタディーズは一時期、日本でも大いに流行した、軽快で、颯爽とした思潮だが、実は見事に無内容であり、一時の流行として消費されて、雲散霧消しつつある。それゆえカルチュラル・スタディーズとともに語られたポスト・コロニアリズムも同じ道を歩んでいるように見える。

著者は、しばしばまとまった思潮として語られてきたカルチュラル・スタディーズに違和感を表明する。とりわけ日本におけるカルチュラル・スタディーズとは、最初から訣別している。

本書はヘイト・スピーチについて積極的に議論を展開しているわけではない。だが、レイシズムと階級とジェンダーは本書のキーワードであり、ヘイト・スピーチについて議論するための土俵を設定しようとする者には参考になる著書である。そういう読み方は著者には失礼かもしれないが、植民地主義、レイシズムム、階級闘争に関連する記述を重点的に読み進めた。当座の必要から飛ばし読みしたと言う意味だ。その結果、繰り返し紐解くべき本であることを確認できた。

興味深い論述が随所にあるが、一つだけ紹介しておこう。白人西欧による植民地主義と人種主義を批判したデュボイスが、白人西欧への効果的な対抗勢力として大東亜共栄圏を礼賛してしまったという。植民地主義への抵抗勢力としての有色人種の模範となるべしという発想だ。その誤りを批判するのは容易い。では、デュボイスをどのように乗り越えるのか。

「旧植民地からの『移民』だけに目を奪われがちな現代日本の人種差別の様相に対して、デュボイスはリフレッシュされた視点を再び提供するだろう。しかし、彼がアジアに抱いていたその同質性のファンタジーはそのまま日本の同質性へのファンタジーに繋がることも忘れてはならない。日本の周縁領域である沖縄、九州、北海道は、本州の現代史とは異なる民族的・人種的混交性を経験しているし、本州でも日本海側か太平洋側かでそれは異なる。都市と農村、工業地域と山間部、鉱山労働や港湾労働の現場、アメリカ軍基地のあるところとないところ。人種と民族の経験を日本という括りで語ることにはそもそもの困難がある。本来バラバラで統一された規則性などない他者との遭遇なのに、日本という共通の磁場を想定してしまうことによって日本人という『同』を生み出すことになってしまう。デュボイスがはまってしまったアジアや日本の同質性の罠こそ、その『同』の受け皿となる『文化』なのだ。日本人というカテゴリーが人種化された文化の保持者として倫理的なコミュニティとなるとき、その『なり方』がどんなに――デュボイスが日本と大東亜共栄圏に対してしたように――政治的に正しそうであっても、そこには排除の論理が働いてしまう。」

著者は「だから、文化には気をつけなくてはならない」と続ける。

ちょうど「日本植民地主義」について、領土と住民と主権の観点で整理した上で、もう一つ、別の視角として、日本におけるマイノリティー同士の出会いに焦点を当てて考え直していた。具体的には北海道におけるアイヌ民族と朝鮮人の出会い、琉球/沖縄における琉球人と朝鮮人の出会いについて考えていたので、小笠原の一文は思考の整理に役に立った。