Wednesday, October 12, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(208)保護法益論03

櫻庭総「ヘイトスピーチ規制の保護法益と人間の尊厳」『山口経済学雑誌』第696号(2021)

<目次>

Ⅰ はじめに

Ⅱ ヘイトスピーチ規制論における「人間の尊厳」の諸相

1.        人間の尊厳の諸相

(1)精神的苦痛と尊厳の侵害

(2)ドイツ語圏のヘイトスピーチ規制における人間の尊厳

(3)承認されるべき社会的地位としての尊厳

(4)憲法上の規定

2.        学説の整理

(1)多義的な「人間の尊厳」概念

(2)新たな概念の必要性

Ⅲ ヘイトスピーチ規制の保護法益

1.        精神的苦痛

(1)法益と解することへの批判

(2)検討

2.        ドイツ刑法における人間の尊厳

(1)民衆扇動罪における「人間の尊厳への攻撃」要件と基本法1条との関係

(2)民衆扇動罪の保護法益

(3)検討

3.        承認されるべき社会的地位

(1)社会的地位の承認された環境

(2)人間の尊厳の社会的承認

(3)検討

4.        平穏生活権および平穏生活環境

(1)人間の尊厳の内実:社会的地位の承認状態

(2)個人的法益としての側面:平穏生活権

(3)社会的法益としての側面:平穏生活環境

(4)規制の在り方

Ⅳ おわりに

櫻庭は本格的な研究書『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服――人種差別表現及び「アウシュヴィッツの嘘」の刑事規制』(福村出版、2012年)を皮切りに、ヘイト・スピーチについて数々の論文を発表してきた先駆者である。

ヘイト・スピーチの保護法益が取り上げられることが多いが、櫻庭は「『人間の尊厳』の意味するところは論者によって異なり、複数の内容が一つの概念に詰め込まれている場合もあるように思われる。もしそのような状況にあるのだとすれば、ヘイトスピーチが『人間の尊厳』を侵害する点でコンセンサスがあるように見えても、具体的な規制の在り方を議論する共通の土台が形成されているとは言い難い」(131頁)という。

櫻庭は、マリ・マツダ、楠本孝、金尚均、ウォルドロン、近藤敦らの見解を検討して、「人間の尊厳」概念が多義的に用いられているとし、人間の尊厳概念を精緻化することは困難という。それゆえ新たな概念が必要であるという。

マツダやウォルドロンの見解は精神的苦痛に着目するが、宮下萌はこれを法益とみることはできないとし、櫻庭も宮下に賛同し、ドイツ刑法における民衆扇動罪の保護法益を詳しく検討する。ドイツでは公共の平穏が保護法益とされ、人間の尊厳は公共の平穏を限定する機能を持たされているという。

他方で、櫻庭は、ウォルドロンがいう尊厳は、公共財のように社会に存在する「安心」によって確証される「基本的な社会的地位」のことだと見る。人間の尊厳を社会的承認とみる見解として、さらに平川宗信の見解を詳しく検討する。ウォルドロンと平川は、人間の尊厳を社会的評価ではなく、平等に認められる地位ないし状態ととらえている。「両者とも人間の尊厳を、その人を取り巻く環境ないし公共財」(146)としている。

以上の検討を踏まえて、櫻庭は「4.平穏生活権および平穏生活環境」において自説を展開する。従来の学説では、人間の尊厳が「他者と同様に取り扱われる社会的地位が承認されている状態」(148)と理解されているが、法益の性質を個人的法益とみるのが一般的であるところ、宮下萌は個人的法益・社会的法益の二元論で再構成している。櫻庭も二元論を継承する。

個人的法益としての側面:平穏生活権――ヘイトデモ差止に関する横浜地裁川崎支部20166月2日決定は、平穏生活権の侵害を理由にヘイトデモを差し止めた。民法学者の若林三奈は人間の尊厳の実質を平穏生活権とみる。これに対して憲法学者の梶原健祐は「特定人に向けられていないヘイトスピーチの規制を個人的法益を理由にして正当化する」ことに否定的である。両者を受けて、櫻庭は、「特定地域でのヘイトデモによる当該地域住民の平穏生活権侵害は格別、上記見解が例示していたような書籍やインターネット上での特定人に向けられていないヘイトスピーチについて、たとえばそのターゲットとなった集団に属する構成員全員の平穏生活権侵害が認められるかは疑わしいように思われる」(150)という。

社会的法益としての側面:平穏生活環境――櫻庭はドイツ刑法における民衆扇動罪が公共の秩序に対する罪とされていることを参照しつつ、「公共の平穏」だけでは不明確なので、「ヘイトスピーチが向けられた大規模集団に属する不特定多数人の『社会的地位の承認状態』が脅かされていると見るべきではないだろうか。これは、そのような社会的情報状態の集合体としての社会的法益として『平穏生活環境』と呼びうるかもしれない」という(151頁)。

ただ、これを公共危険犯と位置付けると抽象的危険犯として構成されることになり、解釈上の問題が大きい。具体的危険犯として構成することには困難があるという。

櫻庭は、人間の尊厳を個人的法益としての平穏生活権と社会的法益としての平穏生活環境の二元論で説明しつつ、「規制の在り方」について、「その性質に応じた規制手段を検討することが可能となる」(152)という。

「個人的法益である『平穏生活権』に依拠するアプローチは、ヘイトスピーチの向けられた集団に属する個人が民事救済を求める場合に有益であるといえよう。」(152)。ただこのアプローチでは横浜地裁川崎支部事案のようなヘイトデモ差止のような事例にしか有効と言えない。

「これに対して、社会的法益である『平穏生活環境』の着目するアプローチは、個人的法益の側面に着目するアプローチでは規制が困難であると思われる、書籍やインターネット上の表現など、まさに不特定多数への拡散力の強いメディアを通じた形態でのヘイトスピーチを規制対象とすべきことになる。」(153)

ただ、最後に櫻庭は姿勢を翻す。

「したがって、平穏生活環境を保護するためには、刑事罰を想定しない行政規制を活用することが考えられよう。行政規制といっても様々な手法がありうるところであるが、近年は諸外国における人権委員会による和解・調停による解決が注目されている」(153頁)とする。

櫻庭の結論は

個人的法益である平穏生活権――民事救済

社会的法益である平穏生活環境――行政規制

である。つまり、ヘイト・スピーチの刑事規制については留保している。

櫻庭の研究に学ぶべき点は、第1に、ドイツ刑法の民衆扇動罪に関する専門的知見である。ヘイト・スピーチの比較法は、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ(スイス、オーストリアを含む)についてかなり進んで来た。ドイツ刑法については楠本孝、金尚均、櫻庭によって詳細な研究が進められてきた。

私自身はヘイト・スピーチの比較法には関心がない。ただ、日本では、アメリカ憲法絶対主義が異様な状況になっており、国際社会の法状況が全く無視されているので、やむをえず150か国の状況を紹介してきた。今後も紹介を続けるが、理論状況を詳細に紹介することはできない。何しろ150か国だ。フランスやドイツについての緻密な研究に学ぶ必要がある。

2に、櫻庭は、ヘイトデモのケースと、書籍・インターネットのケースを分けている。特定人に対するヘイト・スピーチと、不特定人に対するヘイト・スピーチの区別も重要である。ヘイト・スピーチの類型論を私は初期から唱えてきたが、法解釈に深化させることはできていない。

3に、法益の二元論である。宮下に続き櫻庭も二元論を採用している。私も二元論を考えてきたので、宮下や櫻庭の試みに学び、私なりの論理を展開していきたい。

櫻庭論文への疑問も指摘しておこう。

1に、結論として刑事規制消極論に帰着するのだろうか。本文を読めば、櫻庭は民事救済と行政規制にたどり着いて終わっている。論文の最後に「民事規制、刑事規制および行政規制それぞれに相応しい法益のとらえ方があることを指摘した」(154頁)となっていて、「刑事規制」が復活している。これはなぜなのだろう。

2に、櫻庭は日本国憲法に基づいた議論を回避している。多様な学説を検討しており、それらの学説には日本国憲法に基づいた議論も含まれているとはいえ、櫻庭自身の議論は日本国憲法と接点を持たない。金尚均が憲法13条と9条に言及していることが引用されるが、櫻庭自身は憲法論に立ち入らない。保護法益を論じるのであれば、何よりもまず憲法的価値秩序が重要であるはずだ。

例えば、憲法前文には、「恐怖と欠乏からの自由としての平和的生存権」が記されている。私は「ヘイト・スピーチという恐怖からの自由としての平和的生存権」と主張してきた。私は憲法12条、13条、14条、21条、29条などを取り上げてきた。

3に、櫻庭は国際人権法にも言及しない。人間の尊厳概念をドイツ法の概念として考察している。人間の尊厳は、近代西欧では、フランス革命やカント以来の歴史を有する。国連憲章、世界人権宣言、数々の人権条約に書き込まれた国際人権法の概念である。ヘイト・スピーチの規制は1965年の人種差別撤廃条約や1966年の国際人権規約によって要請されている。

4に、櫻庭は民主主義について検討しない。私たちは「民主主義とレイシズムは両立しない」「ヘイト・スピーチは民主主義を破壊する」と、民主主義の問題であることを強調してきた。民主主義だけでは、刑法の保護法益の議論になじまないという判断であろうか。