ジュディス・バトラー『非暴力の力』佐藤嘉幸・清水知子訳(青土社、2022年)
http://seidosha.co.jp/book/index.php?id=3707
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<暴力を正当化する「自己防衛」、その「自己」の意味を徹底的に問い直し、人間が根本的に、他者や非人間を含む環境と相互依存していることを明らかにする。私たちは個人主義の罠を超えて、どのように連帯することができるのか。常に現代の諸現象を鋭く分析し、精神の最深部に訴えかけ続けてきた著者が示す、戦争とレイシズムの時代における非暴力のマニフェスト。>
[目次]
謝辞
序章
第一章 非暴力、哀悼可能性、個人主義批判
第二章 他者の生を保存すること
第三章 非暴力の倫理と政治
第四章 フロイトにおける政治哲学——戦争、破壊、躁病、批判的能力
終章 可傷性、暴力、抵抗を再考する
原註
訳者解説 戦争とレイシズムの時代における非暴力のマニフェスト(佐藤嘉幸)
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バトラーの著作は随分と翻訳されているが、読んだのはごく一部だ。『ジェンダー・トラブル』(青土社)はかなり前に読んだ。佐藤嘉幸・清水知子が何冊か翻訳しているが、私が読んだのは『アセンブリ』(青土社)だけだ。ただ、私の能力では読みこなすところまでいかない。
本書も苦労したが、何しろテーマが非暴力なので、あれこれ考えながら読んだ。人はなぜ暴力を正当化し、時に信じがたい残虐な暴力をふるってしまうのか。その悪魔性ではなく、むしろ「防衛」に秘密がある。
プーチンのウクライナ戦争の論理がまさにこれだ。NATOの脅威がプーチンを走らせる。西側メディアはそのこと自体を否認し、プロパガンダを並べる。防衛の論理による侵略がなされると、双方に見えるのは自分の側に都合の良い事実だけになり、溝は深まるばかりだ。
同じことはヘイト・クライムにも当てはまる。アメリカのヘイト・クライムの議論で、まさに「防衛的ヘイト・クライム」が語られてきた。黒人の攻撃から白人コミュニティを守るという意識から、白人至上主義者が猛烈に攻撃的なヘイト・クライムに及ぶ。本人は防衛のつもりだから、いくら暴力的になっても、いくら残虐になっても、心が痛まない。益々暴力的になる。
「自己防衛」という場合の「自己」の範囲も問われなければならない。自分自身や家族であったり、地域社会であったり、同じ民族であったり、祖国であったりと、「自己」の範囲は「自己」の都合でくるくる変わる。どんどん拡大する。常に外側に敵を見出す理屈がついてまわる。
バトラーは暴力と非暴力の地平を「哀悼可能性」に設定する。
「私たちは政治的平等という概念に、生の平等な哀悼可能性を組み込まなければならない。というのも、推定上の個人主義から脱却することによってのみ、私たちは攻撃的非暴力の可能性を理解できるからだ。それは、対立の直中に現れるものであり、暴力そのものの力場に根を下ろす非暴力である。つまり、そうした平等は、単に諸個人相互の平等ではなく、個人主義が批判される際に初めて思考可能になる概念なのである。」
暴力も、身体的暴力だけを論じては不十分だ。経済的構造や法的構造も暴力的である。多様な暴力が組み合わさり、現実が見えにくくなる。外部からも見えにくくなるが、それ以上に、自分で見えなくなる。ここに暴力の秘密がある。
社会的諸関係の結節点としての人間像を描きなおすことで、生も政治も暴力も非暴力も輪郭が明確になってゆくだろう。
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訳者解説「戦争とレイシズムの時代における非暴力のマニフェスト」のおかげで、本書を読みとおすことができる。バトラー研究者ではない、私のような一般読者は本文より先に訳者解説を読む方がよいだろう。
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佐藤嘉幸は『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』(人文書院)、『新自由主義と権力――フーコーから現在性の哲学へ』(人文書院)、『脱原発の哲学』(田口卓臣との共著、人文書院)、『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(廣瀬純との共著、講談社選書メチエ)などで、哲学することの冒険性と愉しみを教えてくれる研究者だ。