山本浩貴「トランスナショナル・ヒストリーとしての美術史に向けて」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)
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山本は、イギリスで旧植民地からの移民に対する差別や偏見と格闘してきたブリティッシュ・ブラック・アートのようなエスニック・マイノリティによる芸術が美術史の中でほとんど記述されてこなかったという。その前提はナショナル・ヒストリーによる「自然な」国民像に見られるように「国民国家という神話」が生まれ、美術史にも及んできたことである。
こうした状況への反省から、トランスナショナルなアートの掘り起こしがなされてきた。日本でも2015年から神奈川県立近代美術館葉山館に始まる「日韓近代美術家のまなざし」のような取り組みがあった。2016年、ソフィ・オーランドは『ブリティッシュ・ブラック・アート』において、イギリス現代アートとブラック・アートを同列に論じた。こうした取り組みの積み重ねが求められる。
山本は、在日コリアン美術に着目するが、「在日コリアン三世のアート」という言葉には収まらない多様性が生まれているともいう。朝鮮大学校美術科の5人の作家による絵画展「在日・現在・美術」(2014、eitoeiko)や、武蔵野美術大学と朝鮮大学校美術科の学生による「突然、目の前が開けて」(2015)を紹介する。
山本は、ここに「非対称性」が孕まれているという。「その非対称性には、社会的に優越した立場にあるマジョリティとしての日本人と有形無形の社会的抑圧を受けるマイノリティとして在日コリアンの間の権力関係がある。可視化された不公正を是正するためには、そこを訪れた一人一人がさらなる行動を起こす必要がある。だが、アートがもつ視覚的なものにアプローチする独特の力は、さまざまな社会問題をよりよい方向へと導く可能性を持つ」という。
そのうえで、山本はブリティッシュ・ブラック・アートの歴史を、戦後~1970年代、1980年代、1990年代~現在に分けて詳しく概説する。
山本は最後に次のようにまとめる。
「『ナショナル・ヒストリーとしての美術史』の排他的力学の中で無視され忘れられてきた、国境を横断するアーティストの表現に目を向け、その独自の力で差別や偏見と闘ってきた彼らの戦略を過去にさかのぼって掘り起こしていくことはきわめて重要である。それは、美術史や芸術学においてレイシズムの問題にアプローチする有効な方法のひとつである。それらの多様な実践を丁寧にかつ批判的に検討することによって、レイシズムに抗する芸術表現のさらなるアクチュアリティが切り開かれていく。」
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武蔵野美術大学と朝鮮大学校美術科の学生による「突然、目の前が開けて」は私も観た。朝鮮大学校で授業をしているので、観ないわけにはいかない。ふだんは塀で区切られている2つの大学の間に架け橋がつくられ、自由に行き来することが出来る。私は、多くの日本人と逆に、朝鮮大学校の側から武蔵野美術大学構内に入って、美術展示を見てきた。
山本は言及していないが、この企画は朝鮮大学校にとっては勇気の必要な大胆な企画である。一般公開したため、展示期間中、ヘイト・スピーカーが自由に出入りできるからだ。この困難を乗り越えるために朝鮮大学校と武蔵野美術大学が心を砕き、協力できたこと自体に大きな成果を見ることが出来る。
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昨年、私は「緑の宝石箱・スイス美術館巡り」藤井匡編『美術館を語る』(風人社)という文章を書いた。
https://www.fujinsha.co.jp/books/art/9784938643980-2/
そこで私は「スイス美術史は可能か?」という問いを立てた。西洋美術史の主舞台であるフランス、イタリア、ドイツ、オーストリアに囲まれたスイスの美術史とは何か。アンカー、ホドラー、ジャコメティらを想起することになる。ただ、キルヒナーやパウル・クレーはドイツ人、アンジェリカ・カウフマンはオーストリア人、セガンテーィニはイタリア人、ヴァロットンはフランス国籍を取得した。スイス一国の美術史は成立しない。
また、私はフリブール出身の彫刻家マルチェッロ(アデレ・ダフリー)を紹介し、さらにヌシャテルのジャンヌ・ロンバール、ローザンヌのアリス・ベイリー、シオンのマルゲリーテ・ブルナ・プロヴァン、チューリヒ・ダダのゾフィー・トイバー・アルプを取り上げて、女性アーティスト中心の西洋美術史の可能性、男性中心主義の西洋美術史とは異なる美術史の可能性に言及した。
もっとも、私の文章は西洋中心主義を乗り越える視点を提示していない。今後は山本に学んで、視野を広げたい。
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マルチェッロについて
https://maeda-akira.blogspot.com/2020/03/blog-post_14.html