木戸衛一『若者が変えるドイツの政治』(あけび書房、2022年)
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はじめに 日本とドイツを比較する意味
第1章 「人間の尊厳は不可侵である」
第2章 家庭・学校から社会へ
第3章 歴史に向き合う
第4章 ドイツの若者の政治観
第5章 政治を変える
おわりに Youthquake!
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Youthquakeは、2017年のイギリスのオクスフォード辞典の「ワード・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた言葉だという。EU離脱の国民投票に衝撃を受けた若者たちが、2017年6月の総選挙で、与党・保守党を過半数割れに追い込んだことから、注目されたという。「若者の反乱」といった意味だろう。
その後のイギリス政治を見れば、再び体制化が進み、老人支配が強化されてもいるが、「若者の反乱」が終わるわけではなく、何度も起き続けそうだ。その繰り返しによってギリス政治も徐々に変化していくだろう。
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ドイツ政治も同様だ。本書で木戸は、ドイツの若者の政治意識や行動がどのようにドイツ政治を変えてきたか、変えていくかに焦点を当てるが、「ドイツの若者は素晴らしい」などと持ち上げるわけではない。ドイツの若者の反乱も、成果を上げたり失敗を繰り返したりしながら、国家と社会を徐々に変えていくからだ。
そんな当たり前のことを確認するまでもないのだが、これまでも歴史・政治・社会・文化の領域で日独比較が行われると、必ず、「ドイツがそんなに素晴らしいのか」といった反論が出て来る。ドイツだけが素晴らしいということはないし、ドイツが一貫して素晴らしいということもない。ドイツも様々な制約の中で試行錯誤している。ドイツの若者も、張り切ったり、立ち上がったり、悩んだり、座り込んだり、さまざまだろう。そのプロセスに学ぶことが大切だ。
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木戸は、ナチス・ドイツの歴史を経験したドイツ連邦共和国が、自らのアイデンティティをいかにして練り直し、西欧世界の中で再度、信頼を獲得してきたかをたどり直し、「人間の尊厳」を基軸にした国家と社会の再編成を確認する。
ドイツ社会に人間の尊厳を定着させてきたのは、何よりもまず教育であり、歴史教育であるから、木戸はドイツの教育、学校、社会に目を注ぐ。「民主主義への教育は家庭と学校で始まる」――すでにここで日本との決定的な違いが明らかになる。日本では、学校と家庭こそが民主主義からもっとも遠く離れた世界である。それどころか、民主主義を持ち込んではならない領域とされているとさえ言える。
戦後ドイツも最初からこの道を歩んだわけではない。1968年の民主化がなければ、現在のドイツにはなっていない。1968年はドイツだけでなく西欧世界の価値観を大いに揺さぶった。それがドイツの学校をどのように変えていったかが本書の肝である。
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歴史に向き合うドイツ、「過去の克服の試みは、日本でもよく知られる。一般に知られるのはワイツゼッカー大統領の演説だ。中曽根との違いが極端だったためだ。その後のドイツ大統領と日本首相の違いは、果てしなく大きく、溝が深い。「アウシュヴィッツはドイツのアイデンティティ」。木戸はそのエピソードをいくつか紹介する。
しかし、それだけではない。ドイツにはナチス以前にも植民地支配の歴史があるからだ。アフリカや太平洋におけるドイツの植民地支配が生み出した悲劇を忘れてはならない。木戸は、ドイツの暴力の起源を問い、ドイツ植民地主義の歴史、例えばハンブルクの「人間動物園」に光を当てる。日本でも「学術人類館事件」が知られるように、「人間動物園」をつくったのが人種主義であった。
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ところで、ドイツの若者に焦点を当てて、日本を語ることは、端的に言えば、日本の若者はなぜ立ち上がらないのか、なぜこんなにおとなしいのか、を問うことにもつながる。
この問い自体が大人目線の問いであり、実は倒錯している、と木戸は言う。木戸の問題意識は次の言葉に示されている。
「その昔、私たちの世代も無気力、無関心、無責任の三無主義、あるいは無感動を加えての四無主義などと、散々な言われ方をしていました。それに対して反抗的な私は『そう仕向けたのは大人の責任ではないのか』と憤りを覚えていましたが、今や自分自身が、これほどまでに荒廃した政治社会の責めを負うべき番になってしまいました。ドイツ現代政治・平和学を専攻している立場から、本書を通じて、その責任の一端を果たすことができれば幸いです。」
つまり、「最近の大人はなぜこれほど悲惨なのか」という問いに回答を出すことが、木戸の責任である。
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木戸と同じ世代の私も、一方で「世代論は採用しない」と公言してきたし、他方で「いつの時代も大人は『最近の若者は・・・』と偉そうに発言するものである(だから耳を傾ける価値はない)」と決めつけてきた。
しかし、私自身、定年退職した身となって、過去を振り返り、現在を考えると、どうしても世代論に乗っかってしまう。だからこそ、木戸と同じように「最近の大人は・・・」と問う癖を身に着けようと思う。というか、日本政治の老人支配を見ていると「老害」はとことん行くところまで行かなくてはならないのかもしれないなどとも思うが。
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木戸は最後の最後に、二人の息子に言及しつつ、「実の両親」と「ドイツの両親」に謝辞を述べている。戦争、格差、貧困、気候変動の時代に、闇の彼方の光を求めるために。