Wednesday, January 04, 2023

ヘイト・スピーチ研究文献(221)『ヘイト・スピーチ法研究要綱』の書評

秦博美「前田朗『ヘイト・スピーチ法研究要綱―反差別の刑法学』を読んで(上)」『北海学園大学法学研究』574号(2022年)

目次

一 はじめに

二 本書のはしがきと全体構成

三 憲法学者の見解(総論)

四 憲法学者の見解(各論)

五 検討

 1 (近代)個人主義

 2 思想の自由市場論   (以上本号)

 3 見解規制、観点規制、内容規制

 4 事前規制、予防規制

六 その他の論点

七 終わりに

秦は北海道庁に35年間勤務し、現在は北海学園大学教授、地方自治の専門家である。著書に『自治体の行政執行と法治主義』(共同文化社、2021年)がある。

ヘイト・スピーチ研究文献(220)自治体ガイドラインの検討

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/12/blog-post_19.html

一 はじめに

 秦は、生協書籍部で本書を入手して読んだという。20205月のグテレス国連事務総長による「国連ヘイト・スピーチ戦略と行動計画」を紹介し、「沈黙することは憎悪と不寛容に無関心のシグナルを送ることである」という部分を強調したうえで、次のように述べる。

 「ところが、我が国の『主流派』憲法学者の多くがヘイトスピーチ規制に消極的である。現状是正の必要性から規制積極説を採りたい評者は(文字どおり)『勉強不足』なのだろうかと、今まで苛まれてきた。本書は、こんな評者を悩みから『解放』してくれるのであろうか、それとも単なる『開放』に終わるのか。」(452頁)

 ここで「主流派」というのは、表現の自由の優越的地位を唱えて、ヘイト・スピーチ規制に消極的な憲法学のことであり、平和主義や民主主義の定着のために努力してきたリベラル憲法学のことである。

 私は過去半世紀にわたって平和主義と民主主義のリベラル憲法学に学んできたが、ヘイト・スピーチの刑事規制は民主主義にとって必須不可欠であり、これを否定するリベラル憲法学は実はレイシズムに侵されていると見ている。このことを何度も何度も指摘してきたが、まだ十分に論証したとは言えないかもしれない。

ヘイト・スピーチ研究文献(199)憲法学との対話

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/06/blog-post_18.html

 秦は、ヘイト・スピーチの現状に心を痛め、一定の規制が必要と考えつつも、リベラル憲法学に学んできたので、規制積極説を採るのは「勉強不足」のせいかと逡巡してきたようである。

二 本書のはしがきと全体構成

 秦は、「民主主義を実現するために、レイシズムとの闘いが求められる」という私の言葉を強調引用し、『要綱』の目次を掲げる。秦の書評は『要綱』全体ではなく、憲法論の部分に限られることになる。

三 憲法学者の見解(総論)

 秦は、「差別とヘイトを擁護する特権主義の憲法学を博物館に収蔵しなくてはならない」という私の言葉を引用しつつ、憲法学の動向を確認する。

 秦は「主流派憲法学者」として、長谷部恭男、宍戸常寿、松井茂記を引用する。

次に秦は「折衷説(中間説)」として高橋和之、渋谷秀樹、佐藤幸治を引用する。

秦自身の言葉としては次のように述べている。

「愚考するに、規制することが許されない『表現』と罰すべき『犯罪行為』との間に、規制すべき『表現行為』という領域があるのではないか。ヘイトスピーチは、単に『あまりに下品で苛烈』だからという、それ自体の評価によって規制するのではない。個々のヘイトスピーチによって個別具体的な『被害』の発生を『構成』しうるから規制するのである(この場合、表現が行為と評価しうるものに至ったと構成することも可能であろう。)。詳細は、五で検討することにする。」(459頁)

 非常に重要な指摘である。

 次に秦は「積極説」として、浦部法穂を引用する。

 最後に秦は「アメリカ法に限定される研究対象」として、これまでの憲法学の議論がアメリカ法研究に限定されており、国際人権法や世界の150か国の立法例を全く無視してきたことへの私の批判を引用する。

 さらに秦は奈須祐治を引用する。特に奈須の次の文章を引用している。

 「否定説の議論に対しては、過度な抽象化、範疇化を行っていると批判できる。ヘイト・スピーチ規制といっても一様ではなく、標的、害悪、媒体、態様、規制態様等の様々な要素の各々について、どのような選択をするかによって規制の合憲性は変わってくる。規制のありうるバリエーションを考えれば、内容中立性原則等の法理に依拠して一律に制約を違憲とみなすのは適切ではない。」

 私もこれは重要な指摘であると考え、最近、「ヘイト・スピーチの要素と類型」という論文を書いて、奈須の問題提起に応答しようとしている。秦も同様の考えであろう。

四 憲法学者の見解(各論)

 憲法学の検討として、秦は駒村圭吾と齋藤愛の見解を取り上げる。

 秦は駒村説を詳しく紹介し、「過度な抽象化、範疇化を行っている」という奈須説に与する。

 次に齋藤説を5頁にわたって詳しく紹介し、「事柄の形式的断片を採り上げ、同一化を装うもので、正しい評価を覆い隠している」(468頁)と指摘する。さらに藤井正希の見解も援用しながら検討を加え、結論として「齋藤教授は、政策効果の遠近を混同している。目の前の害悪を除去することが、弊害を根本的に解決したり、根源的要因に効果的に対処することとは別次元の議論であることは言うまでもない。」(470頁)という。

 私も同感である。

五 検討

 1 (近代)個人主義

 駒村と齋藤は、近代個人主義を持ち出して、「個人主義という近代的前提との原理的な不整合」を生むと唱え、ヘイト・スピーチの刑事規制は個人主義に抵触すると断定する。私はこれを様々に批判してきた。私の認識では、駒村も齋藤も、そもそも近代個人主義とは何かをまったく理解していない。

 秦は、高橋和之の議論を参照しつつ次のように述べる。

 「各人が自らの半生を振り返れば分かるとおり、個人の集合的アイデンティティが個人の自律的生を構想する個人主義の基礎となっているということであり、『個人主義という近代的前提との原理的な不整合』を生むということではない。」(473474頁)

 同感である。

 2 思想の自由市場論   

 秦は、「思想の自由市場論」に対する私の批判を引用している。

「①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、あいまいな比喩的表現を超えるものではない。②思想の自由市場論が仮に検証されてもヘイト・スピーチに適用する妥当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法が採用しているという論証がなされたことはない。④思想の自由市場論をヘイト・スピーチ論に持ち出すことは、被害者を無理やり引きずり出すことであり、他者の主体性を無視する暴力である。」

 私は「思想の自由市場論」を何度も何度も批判してきた。ところが、どの憲法学者も反論しようとしない。反論抜きに、「思想の自由市場だ」とお題目を繰り返す。多くの憲法学者にとって思想の自由市場論は、議論してはならない絶対命題なのかもしれない。学問ではなく宗教・信仰だ。

 秦は次のように述べる。

 「確かに著者の指摘のとおり、議論に際し当然に所与の前提にしていた嫌いがある。安易に『思想の自由市場論』を持ち出すべきではないだろう。」(475頁)

 私の「思想の自由市場論」批判に、初めて賛同者が現れた。

 秦論文は(上)であり、今回はここまでである。(下)がいつごろ公表されるのか、期待したい。

 近代個人主義や思想の自由市場論という近代合理主義、近代憲法、民主主義の基礎に関わる局面では、秦は私と同様の見解を持っているようだ。

 ただ、秦論文の後半がどうなるかは予測できない。後半での論点は「見解規制、観点規制、内容規制」と「事前規制、予防規制」である。この論点についての私の議論はまだ不十分であり、秦から厳しい指摘がなされるかもしれない。私も勉強不足のままにしておくわけにはいかないので、応答するためにさらに勉強する必要がある。秦による厳しい批判を歓迎したい。

 なお、私は『ヘイト・スピーチと地方自治体』(三一書房)も公刊しているが、そこでの検討は憲法や国際人権法のウエイトが高く、行政法や地方自治法の議論ができていない。秦は行政法・地方自治法の専門家なので、より立ち入った議論がなされるのを期待したい。

 川崎市条例については、本論文でも言及されており、高い評価が示されている(462頁)。

 なお、秦博美「大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例(上)(下)」『自治実務セミナー』667号・668号(2018年)がある。