秦博美「ヘイトスピーチに対する『公の施設』の利用制限――自治体のガイドラインに見る判例と中央省庁の法解釈に対する過剰反応」『北海学園大学学園論集』186号(2021年)、187号(2022年)
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目次
一 はじめに
二 公の施設と集会の自由
三 地方自治体のガイドライン作成の経緯
四 ガイドラインの内容
五 最高裁判決(泉佐野市民会館事件及び上尾市福祉会館事件)の射程
六 いわゆる『迷惑要件』の必要性
七 終わりに
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秦は北海道庁に35年間勤務し、現在は北海学園大学教授、地方自治の専門家である。
秦は、「自治体職員は法律解釈の『自信』の無さから、判例と中央省庁の(字句レベルの)法解釈に過剰に反応し、委縮する傾向がある」という。中央省庁の法解釈が適切になされていれば、特に問題は生じない。ところが、中央省庁の法解釈にも、子細に検討すれば必ずしもそのまま採用すべきでない場合もある。ヘイトスピーチのガイドライン問題はその一つではないかが問われる。
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秦は、公の施設と集会の自由に関する法原則をきちんと確認したうえで、川崎市をはじめとする地方自治体のガイドラインの内容を点検する。具体的には、川崎市、京都府、京都市、東京都のガイドラインを、1)不当な差別的言動の定義、2)利用制限の種類と要件、3)手続的保障について検討する。
地方自治体ガイドライン作成は大いなる前進であったが、憲法と判例に照らして点検すると、一部に微妙な言葉使いがなされたり、不要ではないかと思われる要件が掲げられている面がある。その理由を探索すると、最高裁判例の読み方に原因があるのではないかと推測される。
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そこで秦は、集会の自由と公の施設に関連する最高裁判例として知られる、泉佐野市民会館事件及び上尾市福祉会館事件の最高裁判決に立ち戻って考察する。事案の概要、判示事項と判決要旨、判決文、園部補足意見等をていねいに読み直し、最高裁判決の射程を考察する。一定の団体に公の施設利用を拒否することのできる理由を分析すると、「都市公園の利用に支障を及ぼさないと認める場合」「都市公園の管理に支障がある行為」が問題となるが、「条例上明文にはないものの公物警察に関わる事柄が考慮事項として入り込む」。
秦は、結論として「川崎市のガイドラインは、管理権の作用(権限)が及ぶ対象(施設利用者)と、管理権を行使するに際しての(考慮事項としての)警察上の理由を混同しているのではないかという疑念が生じる」という。
このため、川崎市ガイドラインは「迷惑要件」を掲げている。秦は川崎市ガイドラインを緻密に検討し、次のように述べる。
「第1に、迷惑要件を付加することにより、『平穏』に実施されるヘイトスピーチは『他の利用者に著しく迷惑を及ぼさない限り』規制されないことになる。」
迷惑要件を掲げていない京都市ガイドラインなどとの比較、迷惑要件に疑問を呈する楠本孝説及び師岡康子説も踏まえて、秦は述べる。
「何のためのガイドラインなのかという深刻な事態が生じる。ガイドラインの『迷惑要件』なるものは、憲法上の集会の自由、表現の自由という、遠景の大義名分を守るために、眼前のマイノリティの人権侵害をも厭わない『免罪符』の役回りを果たすものであろう。その存在自体、積極的に『背理』であるというべきである。」
第2に、秦は師岡康子説を参照しながら、「迷惑要件そのものへの疑問」を提示する。秦の見解は明快である。
「『迷惑要件』なるものの内容に対しても、泉佐野市民会館事件最高裁判決の『誤読』により、迷惑対象を『人』ではなく『他の利用者』に限定していることによる消極的矛盾も明らかであると考える。」
「仮に百歩譲って迷惑要件を付加することを認容するとしても、ガイドラインが掲げる『他の利用者に著しく迷惑を及ぼす危険のあること』は、泉佐野市民会館事件最判の誤読であるというべきである。表現の自由、集会の自由との調整が争われた同最判は『人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合』と判示しているのである。その結果、最判によれば、公の施設において『迷惑要件』なるものを適用すべき局面において、ヘイトスピーチ以外の事案であれば、『他の利用者』以外の者(人一般)の生命・身体・財産の侵害の恐れのある場合も規制対象となるのに対し、ガイドラインが存在することにより、ヘイトスピーチの場合に限って、より限定された公の施設の『他の利用者』の人権侵害の危険がなければ規制できないことになる。ガイドラインは、迷惑要件の内容においても矛盾を抱え込むことになるのである。」
「判例法理が妥当して規制される他の事案と比較して、まさに川崎市のガイドラインにより、ヘイトスピーチが格別の保護を受けることになるわけで、完全な矛盾というべきである。」
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なぜこのような事態が生じててしまうのか。その理由を探った秦は、従来の研究書・解説書・注釈書において、上記の「誤読」が広められ、維持されてきたことを指摘する。それは、例えば自治省給与課理事官や、最高裁判事の著述に見られる。
いわば、中央省庁の官僚や最高裁判事が、最高裁判例を自分の都合の良いように書き換えていたのだ。
秦は、川崎市ガイドラインに続いて、東京都ガイドラインも検討して次のように述べる。
「残念ながら、東京都のガイドラインは、一言でいえば極めて『平板』であり、自治体としてヘイトスピーチに毅然と立ち向かうという意気込みなり、熱情が感じられないものである。トップの政治姿勢に由来するものか否かは、筆者の現時点の『研究』領域を超えるので、何とも言えないが。」
「トップ」とは小池百合子都知事のことである。秦は同じ論文の別の箇所で、小池都知事が関東大震災朝鮮人虐殺の犠牲者追悼式典に追悼文を送らないことにした事件について言及し、ドイツにおけるナチスの犯罪責任追及と対比している。
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ヘイト・スピーチと公の施設利用について議論が始まって10年ほどになる。当初は、山形県や門真市などがヘイト団体の施設利用を拒否した。門真市の件は私も直接かかわって、ヘイト団体への施設貸出しを拒否してもらった。これまでヘイト行為をしてきた団体が、今回もヘイト行為を行うと予告して公共施設を借りて集会開催を予告している。これでは地方自治体はヘイトの「共犯」になる。地方自治体はヘイトの共犯になってはならない。ヘイト団体に公の施設を利用させてはならない。だから門真市は、いったん受け付けた利用許可を取り消して、ヘイト団体に施設を利用させなかった。当時も今も私はこの主張を続けている(前田『ヘイト・スピーチと地方自治体』三一書房)。
だが、私の主張を支持する法学者はほとんどいない。表現の自由の専門家と称する憲法学者が、「ヘイト団体といえども公の施設を利用させるべきである。地方自治体には、ヘイト団体に公の施設を利用させる義務がある」と論陣を張って来たからだ。大阪市の審議会報告書がこの立場を前面に押し出して以後、全国各地の公の施設でヘイト集会が開催されるようになった。
このため川崎市のガイドラインは、(それ自体は前進であったにもかかわらず、)迷惑要件を掲げてしまった。この点を私たちは批判してきた。京都府や京都市のガイドラインには迷惑要件がないので、私たちはこちらを高く評価してきた。
この点では秦と私は同じ見解である。
秦論文が優れているのは、なぜ迷惑要件が付記されることになったのか、なぜ迷惑要件は不適切なのか、なぜ最高裁判例の誤読が生じたのかを綿密に論証している点だ。私はここまで論証していなかった。
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私自身は、そもそも泉佐野市民会館事件及び上尾市福祉会館事件の事案はヘイト・スピーチ事案ではないから、直ちにヘイト・スピーチに関する最高裁判例とは言えない、と指摘してきた。
泉佐野市民会館事件及び上尾市福祉会館事件の事案は、周辺住民に被害が及ぶなど「人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合」に関連する。ここにはヘイト・スピーチの被害者に相当する人が登場しない。ヘイト・スピーチ事案では、ヘイト・スピーチの被害者に相当する人、及び、ヘイト行為者が差別の煽動を呼びかける公衆の存在が重要となる。
事案の構造が全く違うので、ヘイト・スピーチ事案に泉佐野市民会館事件及び上尾市福祉会館事件の最高裁判例をいきなり持ち出すのは不適切である。先例拘束の法理をきちんと的確に読み解く必要がある。