Saturday, October 11, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(1)

1 憲法の基本精神――解釈基準
 ヘイト・スピーチの憲法論を展開するためには、まず何よりも日本国憲法とは何か、なぜ大日本帝国憲法が「改正」されて、日本国憲法とならなければならなかったのか、を明らかにする必要がある。換言すれば、日本国憲法の基本精神を踏まえて、条文解釈のための基準を抽出する必要がある。
 言うまでもなく、日本国憲法は第二次大戦とファシズムへの反省の上に成立したものである。大日本帝国憲法の下、日本軍国主義のアジア侵略と戦争が内外に多大の被害を生み出した。
一九四三年のカイロ宣言は日本国の侵略の制止を掲げ、「日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」、「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムル」とし、日本の無条件降伏を追及することにしている。
 一九四五年のポツダム宣言は「無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者」を批判し、「無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」とし、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化」を掲げ、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立」を求めた。それゆえ、大日本帝国憲法の「改正」として、日本国憲法の制定が要請されることになった。
 憲法前文第一段落は「日本国民は・・・諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとしている。第一に、「諸国民との協和による成果」に言及している。第二に、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとしている。ここに憲法の基本精神である平和主義と国際協調主義の前触れが明らかになっている。
 憲法前文第二段落は「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」としている。第一に、平和主義(恒久の平和を念願)、第二に、国際協調主義(平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼)を前提にして、第三に、国際社会における「名誉ある地位」を願う姿勢である。第四に、「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することを国際社会の課題としている。第五に、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」ることを求めている。
 ヘイト・スピーチが憲法前文の「圧迫と偏狭」「恐怖と欠乏」に関連しないという解釈を採用することはできないだろう。
 憲法前文第三段落は「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」としている。ここでも国際協調主義が再確認されている。
 以上のことから、日本国憲法は第二次大戦とファシズムへの反省に立って制定されたものであり、その基本精神に従って解釈されなければならないことが明らかである。ヘイト・スピーチの憲法論にとっても、これが最大の要諦である。
 遠藤比呂通は「アウシュヴィッツが二度とあってはならないということは、教育に対する最優先の要請です」というアドルノの言葉を引用して、この視点から「表現の自由とヘイト・スピーチ」について再検討する。それは「日本国憲法下の表現の自由を考えるとき何よりも重要なのは、民主主義と憲法九条の思想的連関を明らかにすることであろう」と述べる。

実に重要な指摘である。憲法前文及び第九条が宣明している平和主義の観点をしっかりと踏まえて、ヘイト・スピーチについて検討するべきである。