4 生存権――憲法第二五条
日本国憲法第二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として、生存権を規定している。
「すべて国民」としているが、日本国籍保持者のみならず、日本社会構成員全員が有する権利である。ただし、生存権を保障するために国がどこまでの作為義務を有するかは、一律には定まらない。
通常、生存権は福利厚生や生活保護や年金などの問題として議論される。しかし、それは社会的に生存権を確保できている場合に、いかにプラスにするかと言う枠組みである。社会的に生存権を否定されることがないのが当然だからだ。
他方、ヘイト・スピーチは他者の存在に対する攻撃であり、アイデンティティに対する攻撃である。「殺せ」「日本から叩き出せ」と言った罵声は、被害者の人間存在そのものを否定している。すなわち社会的に生存権を否定する事態である。このような事態を憲法学は想定してこなかったように思われる。
京都朝鮮学校襲撃事件民事訴訟第一審の京都地裁判決は「排除」に着目した。
判決は「本件活動による業務妨害及び名誉毀損が人種差別撤廃条約上の人種差別に該当すること」において、被告人らが差別意識を有していたこと、自分たちの考えを表明するために示威活動を行ったことから「本件活動が、全体として在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下に行われた」とした。
その上で、判決は被告らによる数々の差別的発言を確認し、「以上でみたように、本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は、いずれも、在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下、在日朝鮮人に対する差別的発言を織り交ぜてされたものであり、在日朝鮮人という民族的出身に基づく排除であって、在日朝鮮人の平等の立場での人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するものといえるから、全体として人種差別撤廃条約一条一項所定の人種差別に該当する」と判断し、「民法七〇九条所定の不法行為に該当すると同時に、人種差別に該当する違法性を帯びている」とした。
ここで注目するべきことは、「排除」と明言し、「人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するもの」と判断したことである。私の知る限り、メディアも研究者もなぜかこのことに言及していない。
人種差別撤廃条約第一条一項の定義は「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先」としている。「区別、排除、制限又は優先」のうち「区別」や「制限」に当たることはもとよりであるが、判決は「排除」に着目した。単に差別的な表現を行ったというものではなく、「排除」する行為である。
よく誤解されるように、ヘイト・スピーチは単なる汚い表現や悪意の表明だけではない。他者を排除する意思の表明であり、排除する行為である。他者の安全や存在を危殆化する行為であり、放置しておくと「迫害」につながるような行為である。「迫害」が組織的に行われた場合、人道に対する罪となることがあることを想起するべきである。さらに、ヘイト・スピーチの極限形態であるジェノサイド煽動型は、生存権だけではなく、生命権(憲法第一三条)をも侵害する危険性を有する。
このようにヘイト・スピーチは、差別表明型や名誉毀損型だけではなく、脅迫型や迫害型もあり、他者を排除し、迫害する犯罪である。差別の煽動はまさに排除の意思表明である。社会的排除は、被害者の生存権の侵害であり、生命の具体的危険にもなる。
私人によるヘイト・スピーチであって、日本政府が被害者の生存権を侵害したわけではない。しかし、日本社会において他者の生存権を侵害する人権侵害が継続的に生じているにもかかわらず、政府がこれを規制することなく、ヘイト・スピーチを放置し続けていることは、やはり政府の責任が問われるべき事態である。まして、ヘイト・デモは公安委員会の許可を得て行われている。政府(地方政府)がヘイト・スピーチの「共犯」として、マイノリティの生存権を侵害しているのではないか。
憲法前文は「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」すること、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」ることに言及している。生存権の規定は憲法の基本精神に従って解釈されるべきである。日本社会構成員は「圧迫と偏狭」や「恐怖と欠乏」からの自由を保障されなければならない。誰もが迫害されることなく社会生活を維持できなければならない。
ヘイト・スピーチの法律論を試みた法学者の中で、憲法第二五条に着目したのは、私以外では金尚均のみであろう。遠藤比呂通が憲法第九条を引き合いに出したのも、同じ趣旨かもしれない。金や遠藤に倣って、この点をさらに強調しておかなければならない。