2 人格権――憲法第一三条
ヘイト・スピーチと言うと、多くの憲法学者や弁護士は条件反射のごとく憲法第二一条の表現の自由を口にする。その時点で、終わっていると言うしかない。
ヘイト・スピーチの憲法論は、憲法第一三条から始めなければならない。
日本国憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とする。個人の尊重、人格権、幸福追求権などの規定である。
第一三条を直ちに権利請求の根拠とすることができるか否かについては議論がある。憲法学上、政府が個人の尊重に反する行為を積極的に行った場合には、当該行為が違憲であると判断されることがありうるが、政府の不作為に対して、個人が政府に作為を求める規定とは理解されていない。
これは国家の役割をめぐる議論につながる。近代国家における自由と人権が、かつては「国家からの自由」と理解されたように、国家は介入しないことが求められた。もっとも、個人の尊重や人格権の場合、単に自由権ではないので、不介入が最初から予定されていたと見るべきかどうかは疑問も残る。現代国家においては、国家が市民の権利を実現するために積極的に介入することを求められる場合がある。
佐藤幸治は、憲法第一三条の権利を「包括的基本的人権」と位置づけて、個人の尊重について次のように述べている。
「では、『個人として尊重される』とは、いかなる意味か。それは、上述のように、一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければならないということである。この『個人の尊重』は、『個人の尊厳』、さらには『人格の尊厳』の原理と呼ぶこともできる。次の一四条は『人格の平等』の原理を規定しており、一三条と一四条と相まって、日本国憲法が『人格』原理を基礎とすることを明らかにするものである。『人格の尊厳』は当然に『人格の平等』を意味する理であるが、『人格の尊厳』は、他の人格との関係をひとまずカッコに入れて、『人格』それ自体のあり方ないし内的構造を示すものである。」(佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂、二〇一一年、一七三~一七四頁)
ドイツ憲法にいう人間の尊厳と日本国憲法の人格権が同じことを意味するかどうかは異論もあり得るだろうが、ここではそう大きな問題ではない。個人の尊重、人格の尊厳、人格権といったアイデンティティの根幹を憲法が尊重しようとしていると理解すれば足りる。
辻村みよ子は、憲法第一三条の権利を「包括的権利と基本原則」に位置づけて、次のように述べている。
「一三条前段の『すべて国民は、個人として尊重される。』という規定は、いわゆる個人主義の原理を掲げたものと解される。個人主義の原理とは、『人間社会における価値の根源が個人にあるとし、何にもまさって個人を尊重しようとする原理』である。一方では、『他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義』を否定し、他方では『「全体」のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義』を否定することで、『すべての人間を自主的な人格として平等に尊重』している。」(辻村みよ子『憲法・第四版』日本評論社、二〇一二年、一五三~一五四頁)
第一三条は「すべて国民は」と定めているが、日本国籍保持者に限定される趣旨ではなく、日本社会構成員が含まれると解釈するべきであるし、そのように解釈されている。
また、「個人の尊重であるから人種・民族差別問題とは関係ない」と解釈するべきではない。個人の尊重の原理は個人主義の立場であるから、人種や民族が憲法第一三条の主体になることはない。しかし、人種・民族等の属性に対する攻撃は、他者のアイデンティティに対する侵害であり、諸個人の尊重を妨げる明白な行為である。憲法第一三条は「他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義」を否定するものであって、ヘイト・スピーチの否定も当然ここに含まれる。
ヘイト・スピーチが憲法第一三条の人格権を侵害するものであることは、すでに金尚均が指摘している。憲法学は憲法第一三条に言及することがほとんどなかったが、刑法学は積極的に言及してきた。ヘイト・スピーチを規制する場合の保護法益論として、ドイツの民衆煽動罪において「人間の尊厳」が焦点となってきたことを参考に、楠本孝、櫻庭総、金尚均等はヘイト・スピーチが人格権や人間の尊厳を侵害することを繰り返し指摘している。
人格権の保障を日本国憲法の基本精神に立って再検討すれば、第二次大戦とファシズムによる被害を受けた人々の人格権の再建こそが第一の課題でなければならない。日本の戦争と軍国主義による被害を受けたアジア各国人民の人格権の保障は日本国憲法の前提である。かつて被害を受けた人々を再びヘイト・スピーチに曝すことは許されない。人格権、人間の尊厳を守るために、ヘイト・スピーチを規制しなければならない。