大江健三郎『懐かしい年への手紙』(講談社、1987年)
Kちゃんと呼ばれる語り手の「僕」と、四国の森に「根拠地」(コミューン)をつくろうとする「ギー兄さん」の魂の交流を軸に、「いままで生きてきたこと、書いてきたこと、考えたこと」のすべてを書き込んだ“自伝”小説である。デビュー以来の大江作品に幾度も言及しつつ、青年作家として立ち向かった時代(戦争、安保闘争・・・)と、郷里の村と東京・都会の対比の中で、大江自身による大江文学の検証作業がなされる。
今回、講談社文芸文庫版で読んだが、巻末に黒古一夫によるコンパクトな「作家案内」が収められていて、理解に便利である。別の著者による作品解説の方はいささか疑問なしとしないが。
後に大江は次のように語っている。
「いまになってみますと、たしかにこの作品は、私の壮年期の前と後とを分ける区切りでした。青年だった自分とのつながりの上に展開する壮年期の前半を終えて、ここから後は行く先の老年を見つめながらの壮年期、その境い目の作品化という気がします。そしてさらに大きい問題として、人はどのようにして死ぬか、死ぬとはどういうものかを考えることがしばしばあった。私は宗教を持たないんだけれど、死を越えてもう一度、魂が蘇ってくるということを人間はどのように考えてきたのか、それを語っている本に目が向く。つまり『死と再生』ということが実人生でも文学でも、大切な課題になってきていました。」(『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫、2007年)
聞き手の尾崎真理子は次のように述べている。
「この長編は大江小説の前期と後期の分水嶺となる、重要な意味を持っていますが、同時に、この作品が発表された一九八七年は、村上春樹氏の『ノルウェイの森』、吉本ばななさんの『キッチン』が生まれ、ミリオンセラーになるなど、日本文学にとっても非常に大事な年でした。八九年一月、昭和が終わります。」
作家の青木淳悟は、「掛け値なしの傑作だというのはもちろん、この長編小説を読んで初めて『大江健三郎を知った』という思いだった」という。それまでの作品、特に『万延元年のフットボール』にのめりこんだ人に本書を勧めたいという(『早稲田文学』6号)。
『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』に続く大江山脈の主峰であるが、初読時の私には、このような判断ができなかった。むしろ「よくわからない小説」という印象だった。その一番の理由はダンテの『神曲』がモチーフとなっていることであり、本書を中断してダンテを読んでは、本書に戻るという作業を余儀なくされたためである。大江52歳の作品を32歳の私が読んだわけだが、ダンテを読んでいなかったこともあり、本書の理解に制約があったと思う。今回読み直しても、やはり、なぜダンテなのか、という気がするが、後期の大江作品をも射程に入れて、位置づけなおすことで少し見えてきたような感じもする。